座右の銘の意味|陥りやすい罠と注意点

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたには、「座右の銘」なるものがおありでしょうか。
442011 私は、子供の頃から大学生を卒業するくらいまでは、代々受け継いできた「不言実行」という四字熟語が、座右の銘であるという自覚が御座いました。

この「不言実行」は、就職活動期には色々な企業から「言わなきゃ伝わらないよ、有言実行だよ」と、凄く批判されまくりましたがね。

我が家が代々伝えてきた「不言実行」は、「不言なるままに善行徳行を実行すべし」という戒めであり座右の銘であるわけですから、当時は家の歴史と武士道に喧嘩を売られた、と感じたものです。



今は、私に座右の銘は御座いません。



そもそも、座右の銘とは何か、その意味をご存じであり、説明出来ますでしょうか。

今回は、仏教用語では御座いませんが、座右の銘という言葉の意味を改めて学び、仏教的な視点から味わう事と致します。

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座右の銘の意味

座右の銘の意味は、言うなれば「標語(ひょうご)」の事です。

「人間やめますか、何々をやめますか」という、あのような標語を、個人を表す、また自分の特徴を一言で言い表す標語が「座右の銘」という言葉の意味です。

ちなみに「人間辞めますか」の文章に、最近でしたら「人間辞めますか、我利我利亡者やめますか」と、勝手に標語を作っておったり致します。



現代的な解釈や言葉の意味としては、座右の銘とは、
:自分自身を一言で表現する方法
と言えば、通じるかと存じます。

また、「このように生きたい」という、人生のスローガンと言いますか、人生目標なり生きるための標語という意味も、現代社会においては付随されている意味で御座いましょう。



例えば、「おもしろきこともなき世をおもしろく」という、高杉晋作氏の句を座右の銘とされている方も、多いかと存じます。

別に、それ自体は批判したり悪だの善だのと言う事ではありません。

このような座右の銘を打ち立てた場合、おもしろい世の中にしようと張り切って生きてみる、という希望も生まれましょう。



座右の銘という言葉の意味は、「自分自身を表す言葉」「目標や生き方の指標を表す言葉」という認識で、差し支え無いかと存じます。
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座右の銘という言葉の由来

座右の銘という言葉の意味を把握したら、今度は由来を観ていくと致しましょう。

言葉の由来は、語源辞典が力を貸してくれます。



語源辞典によりますと、座右の銘は、
:座右(座席のそば)+銘(金属に刻んだ文字)
と御座います。



中国の書物である「文選」にある「座右銘」という言葉が、現在は日常的に使われるようになった「座右の銘」という言葉の出所であると言うことを知りました。

自分が座る席に、戒めであったり、こうありたいという言葉が刻まれていれば、目に付いたときに意識する事になりましょう。

紙に目標を書いて、コルクボードに飾っておくことによって、目標達成されるという自己啓発や引き寄せの法則が好きそうな、座右の銘という言葉の意味の由来であります。
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座右の銘の本来的な意味を大切に味わいたい

座右の銘について、現代社会で通用している意味や、言葉の出所なり由来をお伝えしてきておりますが、その過程で本来的な意味も知る事となりました。



私がいつも使わせて頂いております語源辞典には、座右の銘は
:常に自分の戒めとしている格言のこと
と御座います。



座右の銘と申しますと、確かに上でお伝えしました通り、高杉晋作氏に限らず、有名人の格言なり名言が多く採用されております。

現在は、座右の銘ランキングなるものもあり、どの言葉が座右の銘として採用されるかもわかるようです。

更には、座右の銘メーカーという、機会が自動的に自分の座右の銘を決めてくれて、意味も解説してくれるというWEBサービスさえ御座います。

こういうのは、人に決めて貰うのでは無くて、自分で絞り出したり、御縁によってその座右の銘を掲げた回心(えしん)するような事ではないか、とは思うところが御座いますがね。

それでも、座右の銘ランキングや座右の銘メーカーが存在していると言う事は、需要もあるので御座いましょう。



このような取り組みに水を差すようなことを申し上げますが、本来的な座右の銘の意味は、そんなお気楽なものではありません。

語源辞典にも記されておりました座右の銘の意味は、上で申し上げました通り、ある格言を自分の戒めとする、ということです。

僧侶なり仏教徒が、戒を律する際に、その戒めを言語化したという事と類似している事柄であり、意味に御座います。



そして、それには本当に、本来の意味での、現代社会においては軽々しく使われている「覚悟」では語れないほどの覚悟にて、戒めを律して生きる言葉、それが座右の銘と言えるでしょう。



ここで、法然上人の言葉とその生き方を、例として紹介させて頂きます。

私ごときが、法然上人の言葉を語るというのは、恐れ多き事ではありますが、ご勘弁頂けましたら幸いに存じます。



法然上人は、「一枚起請文」という、浄土宗の教えや在り方をこの一枚に凝縮された、と言っても過言では無い程の文書を残して下さっています。

そこに法然上人は、「ただ一向に念仏すべし」という言葉を記して下さっています。

法然上人の歴史を辿ると、本当に「ただ一向に念仏すべし」という事を、生涯にわたり実践されました。

法然上人は、一日七万遍のお念仏を称えられたというのは、「ただ一向に念仏すべし」を実践されたと言う事がわかる話です。

念仏ただ一つを選択(せんじゃく)し、まさに「ただ一向に念仏すべし」を実践された方であり、「ただ一向に念仏すべし」という事を、その生き方によって示して下さいました。



この「ただ一向に念仏すべし」は、まさに本来的な座右の銘という言葉の意味であり、それを示して下さる話であるという味わいを頂いております。



座右の銘の意味は、己の在り方や生き方を戒める指針であり、それを実現するために戒める言葉という意味が御座います。

そして、その座右の銘通りであるかどうかは、生活態度から実践している事柄から、座右の銘が実践されているか否かを見て取ることが出来ましょう。

法然上人の話を頂いた上で座右の銘の意味を語るのであれば、座右の銘が先にあったのではなく、生き様から座右の銘が生まれた、という事も大いにあり得る事です。



実践を重ねて、それがふとした時に言語化される御縁があり、改めて座右の銘として戒め、更に邁進していく。



座右の銘という言葉の意味は、このような味わい方や読み方、解釈が、この娑婆世界を生きる上で活かされる味わい方ではないかと考えております。
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座右の銘の意味を改めて学ぶという仏教的なアプローチ

今回は、座右の銘という言葉の意味を、由来や具体的事例を少し取り上げさせて頂きつつ、学び直すきっかけとさせて頂きました。



座右の銘というと、最近では就職活動の時や、自己PR・自己紹介の時に、自分はどういう人かという事を一言で伝えるために使われるという印象が御座います。

履歴書や自己紹介の用紙に、座右の銘を各欄があるということもあります。



現在の座右の銘という概念が、就職活動などで使われいる事について、それはそれですでにシステム化されているような気が致しますし、今更否定はできんことでありましょう。



ただ、座右の銘を聞かれたり、「自分の座右の銘はこれだ」と思う言葉との出会いがあった場合、「そもそも座右の銘とはなんぞや」という事を考える事は、仏教的な接触・アプローチであると、私は思うております。

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座右の銘が無い人を馬鹿にしないこと

ここで、一つ注意したいことが御座います。

別の機会に、これから話すことと関連した事柄をお伝えさせて頂こうと考えておりますが、こちらでもお伝えしておきます。



現在、座右の銘をお持ちの方も、大勢いらっしゃるかと思います。

今、まさに今そこで、この文章を読んで下さっているあなたにも、何か格言を座右の銘にしたり、ご自身で考えた言葉などを座右の銘とされているかもしれません。

それはそれで結構な事ですし、本来的な座右の銘の意味よろしく、その言葉を生活信条として戒めて生きられている事は、見習いたい在り方であるとは感じております。



ただ、だからといって、自分に座右の銘が確立されているからといって、座右の銘が無い人を小馬鹿にしたりする事は、戒めるべきではないかと考えております。



自分がしている事を他人がしていない事に対して、批判したくなったり馬鹿にしたくなったりと、そのような経験をお持ちではないでしょうか。

私にも、そのような「増上慢」なる煩悩が燃えさかる事がしばしばありまして、反省させて頂くところに御座います。



もしも、ご自身がご自身で立派だと思える座右の銘があり、それを実践していたと致しましょう。

それはそれで見習うことではあるでしょうが、偉いかどうか、善か悪かは別問題です。



そもそも、座右の銘の有無や実践それ自体に、偉いだの善悪だので図る事でもなく、比較して優劣を付けることでも御座いません。



何より、比較して優劣を付けるという在り方は、仏教・仏法からは戒める教えも御座います。

自分の座右の銘を自慢して、座右の銘が無い人をさげすむのは、まさに「慢の煩悩」にやられているという事です。

折角、素晴らしい座右の銘を掲げ、実践していたとしても、それだけで人徳を損ないますし、傲慢という煩悩にやられている哀れな姿を晒すだけです。



座右の銘を持たない人、座右の銘が無い人と接しても、決して馬鹿にしない方が宜しいかと存じます。



座右の銘となる格言とであったり、持つ事になるのもまた御縁。



生きる指針や目標、戒めとなる座右の銘と御縁賜った事の有り難さ(有る事が難しいという意味)を尊び、それでいて他者を尊重するのが、仏道を歩む歩まないに限らず、心得たいと私は思うておりますが、如何で御座いましょうか。



合掌

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