有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは、「融通(ゆうづう)」と言う言葉を、どのように使われるでしょうか?
融通というと、「ちょっとこの辺り、融通をきかせてくれませんか?」というような使い方をされるのが、一般的ではなかろうかとお見受け致します。
融通をきかせてよ、と言うと、何となくこちら側の都合に合わせて貰うためのお願いをするときに使われるという印象が、現代社会でのニュアンス(語感)のように思われます。
融通、また四字熟語の「融通無碍(ゆうづうむげ)」は、仏教由来の言葉・仏教用語で御座います。
今回は、現代的な融通の意味へとさすらう前の、仏教用語としての融通を学ぶことと致します。
現代的な融通の意味
「融通」という言葉と概念について、まずは現代的な意味、現代社会で日常的に使われている意味からおさらいしておきましょう。さすらいの前におさらいです。
現代的な融通の意味は、
:金銭をやりくりする、都合に合わせる
です。
「金銭をやりくりする」とは、なんとも直接的・ダイレクトな意味ではありますが、語源辞典にもそう書いてあります。
金銭を自分都合でやりくりする、または自分都合に合わせて貰う金銭のやり取り・やりくりという漢字の意味が、現代的な融通という言葉の意味です。
よく「この金額を、ちょいと融通してくれないかな。」なんて使われ方がなされる現在ですから、このようにさすらったのも頷けます。
また、現在は悪口としても使われるようになっていますね、融通という言葉は。
例えば「あの人は堅物で、融通のきかない人だ。」というのは、真面目で堅い性格であり、応用が利かない人というニュアンス(語感)で使われます。
このような意味と使われ方から、融通は英語で表現するならば「flexible」と言ったところでしょうか。
融通の意味は「柔軟に対応する、柔軟性」も含まれているのでありましょう。
良いイメージで表現するならば「臨機応変」ですかね。
現代的な意味としては、特に金銭的なやり取りなりやりくりの中において、柔軟性を表す言葉である、そのように捉える事が出来そうです。

仏教用語としての融通の意味
それでは、仏教用語としての「融通」の意味を観ていくと致しましょう。融通という言葉や、融通の世界観は、「華厳経(けごんきょう)」の思想である「融通無碍(ゆうづうむげ)」から来ている言葉であると言われております。
融通とは、「融(とける)+通(かよう、とおる)」という言葉の組み合わせから、融解して通る、通じ合うという意味が読み取れます。
融通は、「溶け合い通じ合い、両方が相まっている」という意味であり、調和を意味しているというのが、仏教用語としての言葉の意味です。
この辺り、私は融通という言葉を仏教的に捉えたときに、「諸法無我(しょほうむが)」や「縁起(えんぎ)」、また「ご縁」の大切さと尊さを味わい、頂いております。
仏教用語としての融通の意味を頂くと、現代的な意味である「金銭のやりくりを自分都合に」という、狭い世界観とは全く違うと言うことを、味わえるのではないか、私はそのように思いますが、如何でしょうか。
融通が現代的な意味にさすらったのはこんな感じだろうか
融通とは、このようなスケールが大きい、仏教が説く縁起などの基本教義にも通じるところがある、味わいの深い意味と概念が御座います。それが、一体どうして「金銭の自分都合のやりくり」という使われ方になったのか、相手が自分に合わせてくれる人を「融通が利く」という使われ方にさすらったのでありましょうか。
融通とは、仏教用語としては「別々の物が溶け合って通い合う」という、支え合いであったり、助け合いの意味が御座います。
「融通し合う」という事は、互いに溶け合って、またそれが転じて支え合い出会ったり、助け合いに通じております。
しかし、個人主義的な昨今の世の中においては、いつしか「融通される=自分に都合が良い」という意味にさすらっていったのでありましょう。
そして、特に経済偏重、言うなれば拝金教信者が増えすぎたために、特に金銭的な都合がつくことを「融通が利く」など、そのようにさすらっていったのではないか、と妄想致します。
自分都合の押し付け合いによる「融通」は、溶け合って通い合うとはほど遠い、むしろ逆を行くような意味に感じます。
私としては、仏教的な意味による「融通」によって、結果論として金銭的な都合がつく、くらいの在り方の方が理想的であると思う今日この頃に御座います。

融通無碍の意味
あまりにも矮小化されてしまった「融通」という仏教用語のさすらいですが、ここで改めて、世界観をもう一度大きく捉えなおして観ましょう。そのためには、「融通無碍(ゆうづうむげ)」という言葉の意味と世界観が、力になってくれそうです。
融通無碍とは、どのような意味か、ご存じでしょうか。
上で少し触れました通り、融通無碍とは「華厳経」という御経さんの世界観です。
「融通」の仏教用語としての意味は、上でお伝えした通りで、「無碍」とは「さまたげがない」という意味です。
「碍(げ)」とは「さまたげ」という意味で、それが無いわけですから、「さまたげがない=無碍」ということです。
浄土教においては、「碍」は「自分都合や好悪などの自分の物差し」という意味で捉えられることがあります。
自分の都合を優先しすぎると、まさに現代的な意味における「融通が利かない」という事になります。
自分都合を和らげる、あるいは無くす事は、「融通無碍」に繋がる事は、把握して頂けるのではないかとお見受け致します。
このことについては、「歎異抄」の「念仏者は、無碍の一道なり」という言葉からも頂く事が出来る味わいであります。
このように、仏教の世界観「融通無碍」とは「さまたげる物事がなく、溶け合い通い合っている」という意味であり、そのような世界観です。
もっと大きな視点で捉えると、「万物・宇宙の数多のものは、それぞれで孤立しているのではなく、互いに関係し合っていて、調和している」ということです。
融通無碍は、まさに「諸法無我」や「縁起・ご縁」とも繋がる、スケールの大きな言葉であり、意味を有するのであります。
ご縁を大切にしていたら、自ずと相手のことを考えて、自分都合ばかりにならず「融通が利く人」になり、融通無碍な大きな世界観で物事を見ることが出来るようになるのではないか、と私は思うております。

融通は浄土教・お念仏にも関連がある
融通と申しますと、私のような浄土教宗派の仏教徒・仏教者なり宗教者であるならば、思い出す宗派とお坊さんがいらっしゃいます。それは「融通念仏宗」と御宗祖であられる良忍上人です。
良忍上人は、平安時代後期の天台宗で仏教を学ばれたお坊さんで、20代前半に京都小原にて念仏三昧であった方です。
融通念仏宗では、華厳経と法華経、そして浄土三部経を拠とする御経とされており、「融通無碍」の世界観を有されている事が、この辺りからも読み取れます。
良忍上人は「一人の念仏が万人の念仏に通じる」という立ち位置にいらっしゃり、口称念仏による浄土往生を説かれていました。
自他の念仏が、相互に融通し合うという世界観は、まさに「融通無碍なる念仏」を思わせて頂けて、私としては有り難い教えであるなあ、と味わっております。
浄土宗では、別事念仏といって、道場に集まって同じ時空間で「南無阿弥陀仏」を延々と称える事が御座います。
現在、浄土宗が開催して下さる24時間不断念仏会や、夜通しの不断念仏会「ミッドナイト念仏」にも、なんだか通じる気が致します。
参照:「ミッドナイト念仏in御忌2016に行ってきました」
参照2:「増上寺の24時間不断念仏会2016の感想体験記|前編」
参照3:「増上寺の24時間不断念仏会2016の感想体験記|後編」
お念仏を互いに融通し合う、そうして世界と繋がって行くという事は、法然上人が浄土宗を開かれる前に、すでにあったのです。
このことを思うと、融通という言葉の意味が、金銭的なやりくりとか、自分都合にするための思惑で使われるまでにさすらったことに、なんだかなあ・・・という感じが致します。
私としては、融通という言葉とその意味を、仏教用語として伝えていきたい、そのように思う今日この頃に御座います。
合掌