有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは「有頂天」と言うと、どのような意味でどのような状態を連想されるでしょうか。
有頂天と言いますと、私は京都出身という事もあり、京都が舞台の作品「有頂天家族」を連想する事もあるのですがね。
「有頂天家族」は、2期目も制作・放送決定していると言う事で、楽しみにしていたりします。
楽しみにしているのも刺激であり、ある種の煩悩であり、有頂天家族の放送が始まって観られるからと言って「有頂天」にならんように、注意したいものです。
「有頂天(うちょうてん)」も仏教用語・仏教語でありまして、今回は有頂天という言葉の意味と、気をつけたい「増上慢の罠」についてお伝え致します。
現在使われている有頂天の意味のおさらい
有頂天の意味を、仏教用語・仏教語として頂く前に、まずは現代社会で使われている有頂天の意味から、おさらいすることと致しましょう。有頂天については、語源辞典では、
:有(存在)+頂点+天(尊い)
と御座います。
現代的な意味での「有頂天」は、どうも尊さというのは感じられない気が致します。
なぜ「尊い」という事が語源辞典に書かれているからと言いますと、語源を辿れば仏教用語・仏教由来の言葉であるという事に辿り着くからです。
「九天の中で最も高い天」と言うのが、語源辞典の解説であり、流石は語源から辿って下さっていると感じます。
この「九天」についても、後で仏教用語として意味を味わい、その意味を頂く時にお伝え致します。
現代的な有頂天の意味は、
:喜びの頂点にある状態、大得意になっている状態や様子
です。
更に言うならば、「喜びや嬉しい事に夢中になって、他を顧みない状態」です。
有頂天になっている人に対して、「なんだか、うざい」と思われる事があるのは、喜びのあまりに他を顧みないという状態に陥っているから、という要因も御座いましょう。
嬉しそうにしている人や、喜びを爆発させている人は、それはそれで祝福したいとは、私も思うところであります。
しかし、それがあまりにも引っ張りすぎであったり、いわゆる「調子に乗っている状態」にまでいってしまうと、うざいと感じられるのも頷けます。
有頂天という言葉には、「自分を忘れて上の空である状態」という意味も含まれている事は、このような意味もあるからだと、私は頂いております。
人の喜びに嫉妬して足を引っ張るのも考えものですが、だからといって、有頂天になりすぎた人は、そのように他人に思わせてしまっている自己を自覚することもまた、大切でありましょう。

有頂天の意味:仏教用語
有頂天という言葉の、現代的な意味をおさらいしましたから、今度は仏教用語としての「有頂天」について、学ぶ事と致します。「有頂天」とは、仏教では梵語の「パヴァーグラ」の日本語訳で、六道輪廻の話とも繋がっております。
六道輪廻において、一番高い世界が「天界」であり、天界の中も更に細分化されており、「三界二十八天」あると言われております。
その天界の中で、最も上が「非想非非想天(ひそうひひそうてん)」というところであり、そこを「有頂天」と言います。
有頂天とは、天界の中でも、更に最も高い場所の事を意味する言葉です。
六道輪廻、人が輪廻する「有」の世界において、最も高い場所である、という意味が、仏教用語としての「有頂天」の意味です。
仏教用語として、仏教の言葉として「有頂天」を頂く際、ここから更に考えて戒めたい事柄が御座います。
それは、後の話にも繋がって行く大切な事です。
有頂天は、六道輪廻において最高の場所ではありますが、六道輪廻の中にいる間は諸行無常、いつかは有頂天からまた輪廻致します。
「有」の最高にいけたとしても、その喜びは長続きせずに、あくまでも一時的なものです。
有頂天にいるときは、あまりにも喜ばしすぎて周りが見えず、大得意になるがために、諸行無常という理を忘れてしまいます。
このような味わい方は仏教的であり、私は「有頂天とは戒めの言葉」という意味を含んで頂いております。
有頂天の罠「増上慢」
有頂天は、私は現代的な意味と共に、仏教用語としての味わい、「喜び・嬉しい」という事も刺激として捉え、毒されぬ戒めの智慧という頂き方をしております。娑婆世界で、社会的生き物として「人が人間を生きる」という場合、戒めとしての頂き方は知っておいた方が良いと、私には思えるのです。
特に、仕事で上手く言ったときや、試験で良い点数を取れた時など、何らかの喜ばしい出来事に出くわしたときは、「有頂天の自覚」を持つ事は、その後の影響に関わってきます。
そのような事柄を踏まえた上で、私は「有頂天には罠がある」と、考えております。
その罠の一つが、
:有頂天に安住して「増上慢」という慢の煩悩に毒される
ということです。
「増上慢(ぞうじょうまん)」とは、これまた仏教用語であります。
増上慢は、意味のさすらいはありますけれども、仏教用語と現代社会で使われている一般的な意味とも、それほど齟齬が生じていない程度のさすらいを経ている言葉です。
仏教用語としての「増上慢」は、
:悟ってもいないのに、悟ったと思っておごり高ぶること
です。
悟った振りをしたりとか、悟ったと錯覚する痛々しい状態、といった意味です。
仏教用語としての「増上慢」には、「仏教・仏法を悟ったと勘違いする」という意味ですが、現代的な使われ方や意味は、「仏教・仏法を」という事を抜いただけで、意味はさほど違いません。
現代的な意味は、仏教における「悟る事・お悟り」ではなくても、何かを悟ったとか、完全に自分はわかっている、という錯覚や勘違いをしている痛々しい有り様を、「増上慢」と言います。
ようするに「痛々しい勘違い野郎」だとか「イタいやつ」のことです。
これは、実力があろうが無かろうが、ふんぞり返っている輩は全て「増上慢」という慢の煩悩に犯されていると言ってもよろしいでしょう。
そして、誰しもが増上慢の煩悩に毒される罠というのが「有頂天」という状態です。
特に、有頂天になるような事に連続して御縁があった場合、増上慢に陥りやすくなります。
例えば、仕事で自分がよく働いたことによって、業績が上向いたり、その事で功徳を何度も頂けた場合、喜びのあまり有頂天にもなります。
そうした場合、ひょっこりと顔を出してくるのが「俺様の実力」「この業績は自分の力によるものだ」という、周りを顧みない傲慢な心です。
有頂天になりたくなるような、喜ばしい事があるのは結構ですが、それを「自分の実力」としてしまうのは、増上慢の罠に陥ることになります。
この状態を見たければ、インターネットビジネス関連の境界を覗き見れば、探さずとも直ぐに見つかります。
お客様から頂いたお金で旅行自慢したり豪遊したり、「何月何日に月収何百万円達成」とか、自慢しまくっているのは増上慢に完全に毒された憐れな我利我利亡者です。
運良く金銭と御縁が結べたことを、「自分が行動したからだ」という事ばかり目が行って眼が曇ってしまい、有頂天になって増上慢に毒された姿を暴露している姿です。
そして厄介な事は、有頂天で増上慢の輩は、他者を顧みないばかりか、己も顧みる余裕が御座いません。
故に、己の痛々しさに気がつかない状態であり、痛々しさを通り越して憐れですらあります。
ああはなりたくありませんな、反面教師として戒めるばかりで御座います。
「有頂天には、増上慢という満の煩悩に毒される罠がある」
このように戒める事により、有頂天になっている自己、あるいはなりかけている自己に気づける智慧を身につけたいものです。

有頂天の意味を改めて学び、増上慢の罠に陥らない智慧「おかげさまの御縁への感謝」
喜ばしい事、仕事が上手く言ったり成果が出たりして、有頂天という状態になった時、ついつい増上慢に毒されてしまうのが、煩悩具足なる凡夫である我々人という存在です。喜ばしい事は喜ばしい事として、確かに素直に喜ぶことも大切です。
ただ、肝要な事は「有頂天に安住しない」ということです。
有頂天である状態に安住して、諸行無常という理を忘れ、更に増上慢に到ってしまったら、有頂天から現実に戻った時は周囲から白い目で見られるようになった、という事になるのは避けたいものです。
有頂天になる要因は数えきれぬほどありますし、状況や環境、各々の生き方や性格によって、有頂天になる過程や経緯も、そこからの戻り方も様々で御座いましょう。
ゆえに、有頂天で増上慢にならず、調子に乗らずにきちんと戻ってくる事が出来る智慧として、共通して効果のありそうな智慧を一つ、お伝え致します。
有頂天の状態になり、そこから増上慢にならないための智慧は、
「おかげさまを意識して、御縁に感謝する事」
です。
仕事でも何でも、何か喜ばしい事があった場合、確かに自分が行動して関わったという関係性も御座います。
それはそれで、有頂天になるような喜ばしい事柄に、嬉しさを爆発させたいと思うのは人情でありましょう。
その事については、素直に喜ぶ事は大切です。
ただ、そこで増上慢という煩悩に支配されない妙薬となるのが、「おかげさまの御縁への感謝」です。
例えば、仕事で良い結果が立て続けに舞い込んできた場合、自分の関わったことは関わったこととして受け止めます。
その上で、「この成果には、色々な人の支えや関わりがあったからこそ」という、「御縁」に感謝する事を、ゆめゆめ忘れぬ事です。
何度かお伝えしております、「功の多少を計り、彼の来処を量る」という、食前の言葉にあります智慧が、ここで活きてきます。
御縁への感謝を忘れ、御縁や周囲との関係性を顧みないと、有頂天から増上慢に陥ってしまうのです。
そうすることで、有頂天になっていたり、あるいはなりそうなときも、冷静さを失わずに、落差も少ない状態で戻ってこれる可能性が高まります。
「おかげさまの御縁に感謝する心を忘れない」
これを常に心がけること、念頭に置いておくことは、仏道を歩む一つの道筋であり、慢の煩悩に支配されぬ仏教の智慧である、私はこのように味わいを頂いております。
合掌