嘘も方便の意味と由来からのさすらい

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは「嘘も方便」という言葉を、どのような意味で使われているでしょうか。
442011 また、「方便」という言葉とその意味を、どのように理解されているでしょう。



現代社会においては、「これも方便だ」と、なんだか言い訳がましい使い方をされるようになっている言葉であると、感じる事が御座います。



方便とは、語源や由来を辿って行くと、仏教用語であることに到達致します。

それがいつしか「嘘も方便」という使われ方をして、意味もなんだか言い訳がましいニュアンス(語感)をおびるようにさすらったものであります。

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嘘も方便の「方便」の意味と由来

「嘘も方便」の意味や由来を学ぶ前に、まずは「方便(ほうべん)」という言葉の意味と由来を辿ることと致しましょう。



方便とは、もともとは仏教用語であり、サンスクリット語の「ウパーヤ」の翻訳です。

ウパーヤという言葉は
:到達する、近づく
:目的に近づく、到達するための巧みな手段や優れた方法
という意味で御座います。



ゆえに、本来は「嘘」の事ではなくて、目的に近づくため、仏教においては悟る事に到達するためであったり、衆生を救うための巧みな手段・方法の事であります。

仏の導きや救いの働きを、方便という言い方をするとき、教義や教えを押しつけるのではなくて、救いたいと思うお目当ての人、救いたい対象の人を救うという謙虚な姿勢の表れという味わいも御座います。
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嘘も方便の由来ともなったであろう仏教の例え話と、そこに見出す意味

方便というと、現在は「嘘も方便」という、なんだか言い訳がましい使い方をされるまでにさすらった言葉でありますが、その由来となった一要因となった話が御座います。



私は、方便という言葉の意味や由来を考える際、二つの方便にて人々を導き救った例え話を思い出します。



一つは、法華経「法華七喩(ほっけしちゆ)」に記されている「三車火宅・譬喩品」です。

あるところに、長者(お金持ちのこと)の家に子供達がおったのですが、家が燃えさかる具合になってしまいました。

しかし、長者が子供達に対して、外に出て避難するように諭しても、子供達は言う事を聞きません。

そこで、何とか燃えさかる家から子供達を外に出すために、「お前達が欲しがっていた車が、家の外にある。」と言って、子供達が外に出るようにしむけ、見事に成功します。

この時に、「羊車と鹿車と牛車」を子供達が欲しがっていて、それは実は外には無かったのですが、外にあると子供達に伝える事によって事なきを得た、という話です。



この「実は無い羊車と鹿車と牛車がある」と言ったのが方便です。

子供達としては、欲しかった者が無かったから、がっかりして長者を「嘘つき」とののしったかもしれません。

でも、結果として命が助かったわけですから、本来的な方便の意味が、ここに読み取る事が出来ます。



もう一つの話は、これは私が子供の頃に浄土宗のお坊さんから教えて貰った話です。



釈尊(お釈迦様・ゴーダマブッダ)がいらっしゃった時代、ゴータミーさんという女性がいました。

ゴータミーさんは、長者と結婚して子供とのご縁にも恵まれましたが、そのお子さんは早くに他界したのです。

しかし、お子さんの他界を受け容れられないゴータミーさんは、お子さんは病気にかかっていると、ずっと抱きかかえたままです。



そうした中、縁あって釈尊と出会い、お子さんを生き返らせて欲しいと懇願します。

そこで釈尊は「誰も他界した人を出していない家から、芥子(けし)の実を貰ってきなさい」と、ゴータミーさんに伝えられました。

そして、ゴータミーさんは早速、家々を回って芥子の実を探し歩きますが、「他界した人を出していない家」から、芥子の実を頂くことは出来ません。

そしてやがて「他界した人を出していない家はどこにも無い、誰もが愛別離苦を経験しているのだ」と気がつき、お子さんを弔うに到ります。



これも、釈尊がゴータミーさんの「愛別離苦」の苦から救うために、方便によって導いた例え話であると、私は味わい、頂いております。
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方便の由来を辿ると「嘘」という意味ではないけれど「嘘も方便」とさすらった

お伝えした仏教の例え話から方便の由来や例え話を辿ると、方便によって救われた人達がいることがわかります。

特にゴータミーさんの話は、四苦八苦の一つ「愛別離苦」という苦しみから、ゴータミーさんが救われるように釈尊が導かれている事から、仏教的な味わいを頂ける話だと思うております。

このように、方便とは、救いや気づき、苦しみから救われるという目的に近づく、あるいは到達するための言葉であり、そのような意味であることは把握出来る事でありましょう。



しかし、方便の中には、時には結果として嘘となってしまう、嘘をつくこともあります。

これは、無いものを在ると言った、「比喩品・方便品」の長者の話からも分かる通りです。

子供達を救うためとはいえ、嘘をついてしまったことは事実であります。

それゆえに、方便には、時には嘘を言うこともあり得るという場面もあり、その事が時代や意味の変遷を経て「嘘も方便」という言われ方をするまでにさすらったのだろうと、私は観ております。
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方便とは、本来謙虚さと覚悟を要する意味を含む

私は、方便とは本来「謙虚さと覚悟の無きものが、軽々しく用いるものではない」と、頂いております。

間違っても、自分都合の言い訳だったり、自分勝手な都合で真実をねじ曲げて、利益を独占したりするための事では無い、そのように思うのです。

「嘘も方便」という意味も、救いたい人がいて、でも真実だけを伝えてもどうしても救われない、ゆえに心苦しくても嘘を伝えてでも救う、そのような謙虚さと覚悟を要する事であると考えます。



故に、方便とは嘘という意味ではありませんし、「嘘も方便」とは、嘘をついてでも相手を救いたい、目的に到達してほしい、その気概がなければならないのです。



その事を踏まえた上で、現代における「嘘も方便」という言葉は、どのようなニュアンス(語感)や意味で使われているか、改めて考えるべき事ではないかと存じます。

仕事で間違ったり、ちょっと何かをちょろまかしたりして、それがバレたら「いやいや、嘘も方便だし」とか、そんな使われ方をしていないでしょうか。

それは、「嘘も方便」ではなく、単なる「嘘つき」であり、「妄語(もうご・真実とは違う事を言う、嘘偽りの言葉や語り)」でしかありません。



妄言を吐くことや、自分だけが助かりたい、自分だけが得したいという言い訳がましい「嘘も方便」は、戒めたいものであります。
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方便を仏教用語としての意味と由来を改めて学ぶと見えてくる「嘘も方便」の在り方

嘘も方便という言葉について、批判的なことを申し上げましたが、言い訳がましい使い方を戒めております。

娑婆世界に生きていると、どうしても「嘘も方便」となるような場面に遭遇することも御座います。

その時に、自分都合では無く、本当にその人を救うために、方便を用いる事が出来るか、この在り方こそが大切であると私は頂いております。



そもそもとして、仏教では嘘をついたり、物事を偽ることを戒めております。



その事を示す戒や生活規範に「不妄語戒(ふもうごかい)」があり、このことからも仏教では嘘を明確に禁じて戒めている事が読み取れます。

また、口業(くごう)という、言葉や語ることに関する戒めや、調える・律する事も仏教では大切に説いています。

このお堂(ブログ)でも、「両舌」「綺語」を戒める話を何度かしてきていますが、その辺りからも読み取って下さった方がいらっしゃるかと存じます。



このように、嘘や偽ることを戒める仏教ですから、「方便」は仏教用語であっても「嘘も方便」は後の世でさすらった末の言葉で有る事は、想像していただけることでありましょう。



こうした背景があるから、私は「嘘も方便」は、もの凄く覚悟がいる事であると頂いておるのです。

例え、目の前の人を救うためであり、導くためとはいえ、「嘘も方便」を用いる事は、仏教が戒める「不妄語戒」を破ることになるのです。

その業を背負い続ける覚悟があるかどうか、それを背負ってでも相手を救いたいと思える慈悲心があるかどうか、「嘘も方便」という言葉から、私はそのような事を学ばせて頂く次第であります。



合掌

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