有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは「浮き足立つ」とは、どのような意味で、どのような状態を指し示すかご存じでしょうか。
上の画像は、浮き足立つというよりは、完全に宙に浮いている幽霊の絵です。
しかし、実は私は、浮き足立つとか、浮き足立っている状態は、幽霊と同じだと言うことを、否定出来ないと考えております。
むしろ、仏教的な見方をすれば、「浮き足立つとは、幽霊になっている状態」と言ってもよいかも知れない、とさえ思うておる次第であります。
浮き足立つとはどういう意味なのか、国語的に誤用とされる意味と使われ方と共に、仏教的な視点からも学ぶ事に致しましょう。
浮き足立つという言葉の意味
「浮き足立つ」という言葉について、現在でしたら「浮き指・浮き足」という、身体的な現象として認識している人もいらっしゃるやもしれません。特に、美容と健康について関心が高い人ならば、「浮き足の改善について」と、調べていらっしゃる方もいらっしゃいましょう。
申し訳ありません、今回はそのような話ではありませんから、浮き足の改善方法について探しに来られた方は、別の話題として、教養として話を聞いて頂ければ、嬉しゅう御座います。
学んで頂く事は決して無駄では御座いませんから、その後で浮き足の改善方法を探しに行って下されば良いかと思われます。
ただ、今回の「浮き足立つ」と、身体的な「浮き足」という状態は、決して無関係ではありません。
浮き足の意味の語源や由来は、この「浮き足」という不安定な状態から、パトス(精神性)も表す意味を持つようになっております。
「浮き足」の語源は、
:浮き(かかとを地面につけない)+足
です。
それを踏まえて、「浮き足立つ」という言葉の意味は、
:そわそわと落ち着かない、慌てふためく
という、不安定な精神状態を表す意味を持つようになりました。
また、「逃げ腰になる」という意味も「浮き足立つ」には御座います。
浮き足立つ精神状態というのは、あまり宜しい意味ではなさそうです。

浮き足立つの間違いとされている意味や使い方
「浮き足立つ」という言葉の意味は、逃げ腰であったり、落ち着かなくて慌てふためいている様子を意味する言葉です。しかし、字面から「浮き」という言葉に引っ張られてか、以前、某アナウンサーが「浮き足立つ」と言う言葉を間違った意味で使った、と指摘された話が御座いました。
ニュース番組にて、その某アナウンサーは「うきうきして落ち着かない、興奮している状態、喜ばしい事が起こってうきうきしている」という意味で使われた、との事です。
「うきうき」は「浮き浮き」とも変換されますから、アナウンサーの中で言葉の意味がさすらったのやもしれません。
その時使われた場面ですが、贔屓にしている野球チームが連勝中で、喜んでいた場面で使われておりました。
しかし、本来的な意味をご存じの人からすれば、「連勝して浮き足立つという事は、このチームが嫌いなのか、勝ったら不都合なのか?」と、思われることもありましょう。
報道中に視聴者から指摘されて、お詫びして訂正され、アナウンサーは一つ学ばれた、とのことでした。
娑婆世界では、「浮き足立つ=うきうきして興奮している、喜ばしい状態」というのは、誤用・間違った意味と使い方とされております。
こちらの意味も市民権を得て、「浮き足立つ」も更にさすらっていくかもしれませんが、現代社会においては、間違ったとされている使い方はしない方が無難でありましょう。
もしも話し相手が、現代社会においては間違ったとされている意味で覚えていたり使い方をしていたら、後でこっそりそっと学んで頂くのが宜しいかと思います。
浮き足立つ状態の具体例
浮き足立つ、という言葉について、意味を学んできましたが、先日、東本願寺にて、金沢教区お寺の住職から、「浮き足立つ人の具体例」を、教えて頂きました。夜遅く、住職のお寺に高校生から電話があり、4人か5人かで遊んでいるときに、スマートフォンに心霊写真のようなものが撮れてしまった、と言われたそうです。
高校生達は住職さんに「お寺でお祓いして欲しい」と、懇願されたそうな。
その時点で「お祓いなら神社へ」と思うたのですが、現代の高校生くらいの若人にとっては、神仏習合とは違った意味合いにおいて、神社とお寺の区別をされていないのだろうかな、と私は思うたものです。
ご住職に電話した高校生達は、あまりにも怖くて仕方ないからと、高校生達はお寺にやってきて、ご住職は本堂で御経を上げるなどの儀式をされて、安心させてあげたそうです。
仏教の基本な教えに「抜苦与楽(ばっくよらく)」が御座います。
苦を抜き安心・楽を与えるということですから、方便であっても、こういう営みは大切であると、私は頂いております。
そういうわけで、ご住職は本堂で阿弥陀仏の前に心霊写真が入ったスマートフォンを人数分並べて、御経や偈を称えられたそうです。
遺品供養が御座いますから、物に御経を上げる事はありますが、そのようなエトス(行為様式)を知らない人からすれば、並べられたスマートフォンに御経を上げている姿は、奇妙な光景に映るやもしれません。
そして、この心霊写真に浮き足立つ高校生達に対して、「こういうものに惑わされてはいかんよ。」と、ご住職は喝を入れてつつ「大丈夫だから。」と言ったところで、高校生達は安心した、とのことです。
浮き足立っていた高校生達は、それまで心霊写真を消すことが恐ろしくてたまらなかったけれど、お勤め・儀式とご住職の「大丈夫だから」に安心し、やっと心霊写真を消すことが出来たそうな。
この話において、心霊写真によって落ち着きを失い、不安になって慌てふためいている姿が、まさに「浮き足立つ状態」であると、ご住職に御法話で伝えて頂きました。
これが、浮き足立つ状態の具体例であります。

浮き足立つ状態は幽霊になっている状態であるという頂き方をする理由
私は、ご住職の話を聞いたとき、決して、高校生達を馬鹿には出来ないと頂いたものです。我々煩悩具足の凡夫は、御縁があればそのような経験をすることは、あり得る話ですから。
写真の見方が邪見であったり、心理状態によっては事物が幽霊に見える事もあるでしょうからね、「そのように見えた」というそれ自体は、否定は出来ません。
高校生達にとっては、それがリアリティを帯びていたのでありましょう。
それに、恐らく高校生達は「幽霊の、正体見たり枯れ尾花」という言葉や考え方を、知らなかったのであろうと想像します。
そのような言葉なり光明を知っておれば、スマートフォンにあった写真画像の捉え方も、違っていたのだろうと思われます。
そして同時に、ご住職の話から、私はこのような学びや味わいを頂くに到りました。
「幽霊は高校生達の事であり、写真は、さしずめ枯れ尾花であるな。そして、枯れ尾花を幽霊と見た事で浮き足立つ状態に到ったのだろう。」と。
私は、幽霊とは人間の姿である、と、以前にこのお堂(ブログ)でもお伝えしております。
参照:「幽霊はいるかいないかを仏教から観る」
参照2:「幽霊を見る方法を仏教視点から学ぶ」
幽霊は、手は前(未来)に出しており、髪は後ろ(過去)になびいており、地(現在)に足が付いていない状態です。
このことから、幽霊とはまさに、「浮き足立つ自己の姿」でありましょう。
地に足が付いていない、浮き足立つ姿は、我々凡夫の姿です。
心霊写真に写り込んだ幽霊に浮き足立つ状態になってしまった場合、幽霊は写真の中ではなく、写真に慌てふためいている自分自身の事である、ということです。
写真に幽霊を見て、心霊写真として捉えたのは、「凡夫故の邪見」によるものです。
高校生達は、ご住職に喝と安心を頂いた事で、その事に気づいてくれたと思いたいところで御座います。

浮き足立つのではなく、地に足を付けて生きたい
今回お伝え致しました、私が浄土真宗のお坊さんから伺った高校生の話は、決して他人事では御座いません。心霊写真ではなくても、未だ来ていない事柄・未来に対して浮き足立つということは、現代社会においては多々ある現象です。
未来を掴もうと、常に手を前に出している状態は、浮き足立つ姿であると、私は頂いております。
競争が激しく、効率化や合理化が良いとされていて、「前へ前へ、上へ上へ」という現代社会は、特に浮き足立つ姿になりやすいものです。
このような感じで、「今、ここ」から離れて生きてしまっており、地に足を付けた歩みではない状態は、まさに「浮き足人生」であったり、「浮き足立つ不安定な状態」と言えましょう。
南伝仏教のパーリ語の経典「スッタニパータ」には、
:犀の角のようにただ独り歩め
と記されております。
これは、修行者への教えであり、仏道を歩む行者への言葉でもありますし、色々な味わいや解釈がありましょう。
私はこの「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉からは、「地に足を付けて、一歩一歩確実に独り歩べし」という味わいと頂き方をしております。
「浮き足立つ歩き方」とは、真逆の歩みと言えるのではないか、そのように思うのですが、如何でしょうか。
心霊写真をはじめとして、未だ来ぬ世界、不確実な未来に浮き足立つことなく、今ここをしっかりと歩んでいきたい、そのように思う次第で御座います。
合掌