他力本願の意味と本願力

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは「他力本願(たりきほんがん)」という言葉を、どのような意味で理解されているでしょうか。
442011 他力本願というと、現代的な使われ方や、その意味は、責任放棄であったり、人に頼ったり依存している状態を表すときに使われがちです。

ただ、そのたびに「他力本願の本来の意味は、そうじゃない。」と指摘して下さる方もいらっしゃり、意外と仏教用語としての意味も知る機会が多いように思います。



私は、他力と自力という概念については、真宗教義であったり、仏教だけの話ではなく、もっと大きく捉えてはいるのですがね。

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他力本願の現代的な意味

他力本願と言いますと、「あいつは他力本願なやつだ。」「この勝負の行方は、もう自力ではどうしようもない、他力本願ですね。」と、そのような使われ方をします。

文脈から察するに、どうもあまりよろしい意味で使われている気配がありません。

他力本願も、一般的な言葉に流転する過程で、意味もさすらった言葉の代表例でありましょう。

仏教由来の言葉・仏教用語には、数多く観られる現象であります。



他力本願の現代的な意味は、
:他人の力を当てにすること
と、辞書・辞典などに記載されております。

言うなれば、「他人の力、他者の力に頼るべく、本当にお願いする」と言ったところでありましょうか。



特に現代社会は、「自ら(みずから)の力で事を為す」という、自己責任論が闊歩している時代ゆえに、ますます他力本願の意味がマイナスに捉えられていきそうな予感が致します。
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他力本願の仏教用語としての意味

他力本願とは、元々は仏教用語であり、意味も現代的な意味や用法とは全く異なります。

仏教を学んだ人ならば、他力本願と言えば、真宗・浄土真宗の教義として知っている人も、多いのではないかと存じます。



仏教用語としての他力本願の意味は、親鸞聖人が「顕浄土真実教行証文類(教行信証)」に、どんぴしゃりで記されています。



「教行信証」には、
:他力というは、如来の本願力なり
と御座います。

つまり、ご本尊である阿弥陀如来の本願力、それが他力と表現されます。



阿弥陀如来の本願は、大乗仏教経典であり、日本の浄土仏教では三大経典の一つである「無量寿経」に書かれている「四十八願」の事です。

その中でも、特に第十八願が、浄土宗でも真宗・浄土真宗でも、とても大切に頂いております。



ちなみに私は、毎日の浄土宗の勤行にて、「無量寿経」の一節「四誓偈(しせいげ)」を、毎日称えさせて頂いております。



この事を踏まえた上で、改めて他力本願の意味を申しますと、大変有り難い言葉であると、味わわせて頂けるのです。



他力本願とは、「救いようのない我々を、救わずにはおられない、その救うための本願を他力と言う」ということです。

他力とは「他人の力」ではなく、阿弥陀如来の仏力であり、慈悲であり真の願いであります。

現代社会で使われている「他力本願」の意味と、全くもって違う事が、おわかり頂けたかと存じます。



有り難い事に、現代的な意味と仏教用語としての意味の両方を記載してくれている辞書がありました。

私が使わせて頂いている「日本語源広辞典」には、このように記載されております。

「他(仏様)の力で、本願(極楽往生)を願う」が語源。
日常用語では、もっぱら他人の力に頼って、物事をする事を言う。
本来は、阿弥陀如来の力にすがって、極楽往生を願うこと。
浄土宗・真宗・時宗などの宗派がこの考え方。

流石は語源辞典と言ったところでしょうか、きちんと源の事まで書いてくれています。

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他力本願の意味を使い分けるための「本願力」または「本願他力」という言葉

他力本願の意味も使われ方も、現代では現代なりにさすらったものです。

言葉の意味や用法は、多数決という部分もありますし、定着した意味や用法を消し去ることは、容易では御座いません。

故に、現代的な「他力本願」の意味も用法も、存在している以上は、それはそれで学ぶべき事でもありましょう。

目くじらを立てて「その使い方は間違っている」と批判したり強く指摘するよりも、一端はこちら側で受け止めてから、必要とあらばそっと伝えるという在り方が望ましい、私はそのように思います。



そこで、他力本願という言葉を使われた場合、どのような文脈で、その言葉を使っているのか、私は使い分けとして、このような言葉を勝手に使わせて頂いております。

それは「本願力・本願他力」という言葉です。

「他力本願」は、現代的な意味の「他人任せ」という意味で、「本願力・本願他力」が、仏教用語としての言葉として、私の中で変換して頂くようにしております。
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他力本願の意味と共に「自力と他力」も学んでおきたい

他力本願という言葉の意味を、現代的な意味と、仏教用語としての意味や用法を、学んできました。

私は、他力本願の意味や用法を学ぶのであれば、同時に「自力と他力」についても、その意味を学び、頂いて観ては如何でしょうか、と提言致します。



どうも、「自力」は「自分だけの力」という言われ方をして、他力も「他人の力」と、自己中心的な概念として定着しつつあるような気が致します。

このことについて、改めて学び直すヒントが、最近読ませて頂いた五木寛之さんの本「自力と他力」で記されております。

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五木寛之さんは、真宗・浄土真宗の家庭でお念仏の家にお生まれになり、龍谷大学の聴講生として、新宗教学を学ばれています。

僧侶ではないそうですが、作家として、小説家として仏教なり真宗の教えを伝えて下さっている方です。

特に親鸞聖人と蓮如上人について詳しく、蓮如上人の小説「蓮如物語」は、蓮如上人の500回御遠忌の時に、アニメ映画化されました。

ちなみに、このアニメのプロデューサーは、俳優の松方弘樹さんだったりします。



五木寛之さんは、この「自力と他力」を、わかりやすい譬えで伝えて下さっていて、他力という言葉と概念を、新宗教学だけの事では無く、もっと大きなスケールで捉えられています。

私も、仏教用語として、あるいは浄土仏教の教義としてだけではなく、もっと広く味わいを頂く事は、生きていく上で力になってくれるのではなかろうか、そのような味わい方をしております。

私は、他力があるから、傲慢になったり慢心することを戒めて下さる、そのような頂き方もしており、「危うい自力思想」や「自己中心性」が色濃い現代社会において、大切にしたいと思うもので御座います。
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他力本願の意味や使い方に限らず、言葉は流転・さすらうものだと改めて感じる

言葉は変化していくものであり、意味や用法、概念もそれに伴って変化していくものであります。

言葉には、従来使われていた、いわゆる本来の意味や用法があり、そこから様々なご縁、それこそ、自分の力ではどうしようもないご縁により、意味や用法がさすらう事がしばしば御座います。



例えば「すべからく」という言葉も、意味や用法が誤解されていると言いますか、さすらった言葉でありましょう。

「すべからく」とは、音の語感から「全て」と読み取られて、「全て、総じて」という意味で使われる事がしばしば御座います。

ちなみに、この「すべからく」を「総じて」という意味で使っている人は、誰とはもうしませんが、結構有名なお坊さんにもいらっしゃいます。



「すべからく」の語源は「すべくあるらく」で、この言葉が出て来たら、語尾に「べし」とつきます。

「すべからく」の意味は「是非とも、当然の、必ず」であり、漢字変換すると「須く」ですから「必須」という言葉を連想出来れば、意味も把握しやすいことで御座いましょう。



この例は「おもむろ」とも似ていますね。

「おもむろ」は「徐(おもむろ)」と書きますから、「急に」ではなく「徐々に」という意味です。



このような例からも、他力本願も仏教用語としての意味からさすらい、本来的な意味から遠のいたものであります。

そして、言葉に厳格な方でしたら、「その使い方は間違っている」と、言いたくなることも御座いましょう。



それは確かに私も理解出来ますし、そのような衝動に駆られることもあります。



ただ、強引に間違いを指摘して軋轢を生むよりも、一旦は受け止めてから、本来の意味と用法を伝えることにより、お互いに学びの場となり、慈悲と法施の実践でもある、私はそのように頂いております。



合掌

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