終活をする意味とは|データと共に私という仏教者はこのように頂いております

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

2017年の成人の日に、京都新聞で興味深い記事が、一面に記載されておりました。
その日の京都新聞の一面に、「終活に前向き、7割強」とありまして、60代から70代の7割以上の人達が、終活をする事に前向きである、との事です。

終活とは何かを考え、その意味を見出している人や、興味を持っている人は、思いの外多いという事が報じられておったわけです。

ひろさちやさんは「終活なんておやめなさい」という本も出されていますけれども、終活とは結構認知されており、実際にされていたり、前向きな人もいらっしゃるのですね。



そのような新聞記事から、このお堂(ブログ)では、「終活カウンセラー、終活アドバイザー」の話しもしていると言う事で、関連が御座います。

そういう関連があることから、私も改めて「終活をする意味とは何か」を、考えさせて頂くきっかけとなりました。

今回は、終活をする意味とは何か、を、仏教者としての視点も持ちつつ、データと共にお伝え致します。

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終活をする意味とは何か、を考える前に、まずはデータをおさらい

終活をする意味とは何か、という事を考える前に、まずは京都新聞に記載されておりました、データをおさらいしておくことと致しましょう。

データの出典については、「京都新聞、終活に前向き」と検索して頂ければ、一発でたどり着けますけれども、出典を明確にしておくために、ここでもURLを紹介させて頂きます。

参照記事:京都新聞の「シニアの7割強が終活に前向き」



まず、終活とは何か、という事の認知度ですが、終活という言葉も意味も知っている人は、79.5%です。(60代から70代の調査対象者においては)

また、「聞いた事は有るけれども、意味はよく知らない、分からない」という人は13.5%で、言葉自体を知っている人に限ると、9割以上の方が「終活」という言葉を知っていると言う事になります。

言葉や概念の認知度は、確実に上がっていると観て宜しいでしょう。



終活に前向きである、という定義とデータは、「すでに終活している」「近いうちに始める予定である」「時期が来たらしたいと思う」という質問を併せたものです。

これは、質問の意図やデータの取り方にもよりますから、細かいことを言い出せばきりがありません。

とりあえずは、数字・データの上では、「60代から70代の人達を対象にした調査・アンケートにて、73.6%の人達が、終活に前向きであると言う回答をされた」という理解で宜しいでしょう。



これについて、「だから日本は云々かんぬん」と、社会学的な議論は、ここでは致しません。

データはあくまでデータ、数字は数字、そこに憶測や妄想、決めつけをすることも出来るでしょうけれども、それをしないのが仏教的な視点と在り方でもあります。



終活に前向きな理由を伺ったところ、「家族に迷惑を掛けたくない:40.4%」「人生の終わり方は自分で決めたい:31.5%」「今後の人生をより良く生きたい:20.2%」等という結果です。



申し訳ありません、私は上で「データはデータ、数字は数字」と申し上げておきながら、言いたいことが御座います。



「家族に迷惑を掛けたくない」という理由については、色々と議論もありましょう。

しかし、それを承知の上で、それでもやはり「家族」を思う気持ちを、このデータや解答から、思わずにはおれません。

もちろん、回答者各々の真実は分かりませんよ。

わかりませんし、「迷惑」については、釈徹宗さんの本「お世話され上手」を読めば、迷惑を掛けないことが良いことであると、一概には言えない側面も見えてきます。

「お世話され上手」は、今回の話にも関連しますし、「人生の終と生」を見つめ直すきっかけの本としても、良著であります。

本当に、この一冊は今回の話で終活に多少なりとも興味を持たれた方には、読んで頂きとう御座います。

「人に迷惑を掛けたくない」という思いというものは、時として傲慢な業にもなり得るという事も伝えて下さっており、大切な事を学べる本です。



それを踏まえた上で、それでもやはり私の感性としては、「家族に迷惑を掛けたくない」という数値の結果に、まだまだ日本は家族の形態が大切にされているのかなあ、と、感じるところに御座います。



データはデータ、数字は数字ですけれども、正しいだの間違いだの是非はともかくとして、このデータを観て、自身が何を感じ、何を思うのか。

その事に気づくのも、仏教的な在り方であり、物事の捉え方で御座います。



データの話は、これくらいにしておいて、本題へ向かうと致しましょう。

終活をする意味とは何か、終活に前向きである理由から考えて見る:私が注目しているところ

終活をする意味とは何か、その事について考えるきっかけやヒントとなるのが、終活を前向きに考えるのは何故か、という解答の部分です。



私が注目したのは、「今後の人生をより良く生きたい:20.2%」という部分です。



より良い人生というのは何か、という事柄については、これまた議論がありそうですが、今回はその議論はひとまずおいておき、「今後の人生をより良く生きるための終活」というお題・テーマを考えて観る事に致します。



これについて、不思議に思う人もいらっしゃるんじゃありませんか?

自身の人生における「終(つい)」について考える事柄であるはずなのに、今後の人生をより良く生きるために終活をするとは、これいかに、と。



しかし、これは仏教・仏法の視点からは、不思議な事ではありません。

これは、お坊さんからも時々御法話で話して下さって聞いた事でありますが、「自身の終から生を考える」という在り方や考え方を思えば、自ずと観てくることで御座います。



人は誰しも、いや、人に限らず生命は「生老病死」を経験するものです。



生まれたが故に、この娑婆世界を離れる「終」はやってきます。

そして、「終」が来る事をきちんと認識して、そこから「生」を見つめるという話を、聞いた事がある人も、多いのではないかとお見受け致します。



終活とは、まさにこれの「終から生を問う」を実践するという意味があるのです。



ちなみに私は、これを毎日認識出来る企画に、参加した事が御座います。



Tジョイ京都にて、立命館大学の学生達が企画運営していた企画の一つに、「一日葬」というものがありまして。

「今日の私は今日で終わる、次の日は生まれ変わった私」という考え方で、一日一日を大切に生きる事を意識しよう、という趣旨の企画でした。

当時はまだ、仏教者としての自覚はありませんでしたが、今の私がやっているならば、多生のお節介をしたかもしれません。



そして、大学生という、社会通念においては若人と言える学生さん達が、企画運営していたというのが、これまた素晴らしい事であります。

私もそうでしたが、20代前半くらいまでは、なかなか己の「終」を意識する事は、そこまでありませんからね。

よほどの経験があれば別ですが、いわゆる「普通の日暮らし」をしていると、そのような機会とは巡り会いにくいでしょう。



もしも、年齢問わずに現在、あなたも終活に興味があるならば、まずは「一日葬」からやってみるのも、自身の生を見つめ直し、「今後の人生をより良く生きる」ための良き縁となるかと存じます。
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終活をする意味とは、白骨の御文章(白骨の御文)を連想して終がある事を改めて認識する事

終活については、浄土仏教の御教えや、南無阿弥陀佛を軸としております私としては、思い出す事、連想する事が御座います。



それは、蓮如上人「白骨の御文章(御文)」です。



白骨というと、なんだか仏僧に思われるかも知れませんが、これは「終」を認識しにくい現代社会において、とても大切な事を教えて下さる手紙です。

蓮如上人が書かれたと言われている「白骨の御文章」と呼ばれるお手紙に、このような一文が御座います。


されば朝(あした)は紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となる身なり。

浄土仏教、真宗・浄土真宗を学んでいる人でしたら、聞いた事、あるいは読んだ事があるかと存じます。

ご葬儀にて、聞かれた人もいらっしゃるかもしれませんね。



そういえば、私も映画館で視聴致しました「この世界の片隅に」では、白骨の御文章が読まれる場面が御座いました。



舞台が広島で、広島は真宗王国とも言われており、その宗教観を少し垣間見られた映画だと、感じた人もいらっしゃるやも知れません。




話を戻しまして。



終活をする意味とは、私はこれも大切な意味ではないか、そのように頂いております。



終活を通して、「己の終」から「己の生」を意識する。

その事によって、生を「余生」としてではなく、一日一日を大切に気づいて生きていく。



終活をする意味とは、ここにあるのではなかろうかと、私は思うのですが、如何でしょうか。

終活とは無理にすることもないが、終から生を見つめ直す良き機会となる

今回は、終活をする意味とは何か、という事について、以前も終活についての話をしたことはありますが、改めて考えて観る事と致しました。



現在は、終活カウンセラーなり終活アドバイザーの資格制度も確立されており、相談しやすい土壌も出来ております。

以前は、終活に限らず人生の事柄については、お坊さん、仏教僧侶が担って下さっていましたけれども、宗教色無く終活を始めたい方にも、優しい土壌が出来ているのは、有り難いところです。



終活というものは、無理してやるものではない、と私は思うております。

でも、生きる事を見つめ直す、己の生を問う時に、終活がその一助となる事は十二分に御座います。

一日葬を体験しただけでも、そのような事を何となくではありますが、垣間見た経験からも、それは経験的に言える事であります。



「己の生を見つめ直すための終活」



これが、在家仏教者としての自覚を持つ、私による「終活をする意味とは何か」の、現段階における見出した意味で御座います。



尚、今回の話と関連して、終活カウンセラー・終活アドバイザーや、その他終活にまつわる話は、こちらでしております。

参照記事:「終活カウンセラー資格の合格率と求人の実態」

参照記事2:「終活でエンディングノートの書き方を学ぶ意味」

参照記事3:「終活カウンセラーの仕事と役割」



あなたが終活に興味を持たれたり、やってみようと思われたとき、参考資料となりましたら、幸いに御座います。



合掌

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