御参拝、誠に有難う御座います。住職(管理人)の修羅観音です。
毎年1月1日から3日までは、「三が日」と言って、正月真っ只中という雰囲気を味わう人も多いかと存じます。
お正月には、おせち料理に雑煮を食べたり、初詣に行かれたりと、各々の過ごし方で過ごされていることでありましょう。
正月と言えば、多くの人が除夜の鐘を突きに言ったり聞きに行ったり、そうかと思えば、神社に日付変更の前後に初詣をしたりと、過ごし方も様々です。
正月になると、神社に行くかお寺に行くか、迷う人もいるようですね。
大きめの神社でもお寺でも、装いも正月らしくしているから、迷う人もいらっしゃるかと存じます。
今回は、正月の初詣は神社かお寺か、と題しまして、どちらに行こうか迷っている人の道標となればと思いまして、まつわる話を致します。
正月の初詣は神社が多いかと思いますが、仏教も無関係ではありません
正月に初詣と言いますと、多くの人が神社で御賽銭を入れて、神頼みをするという事で、神社の方を連想される人が多いかと存じます。では、仏教やお寺が無関係かと思いきや、そんな事は御座いません。
神仏習合時代のことなど、歴史にまで手を広げたら、収拾が付かなくなりますから、ここでは割愛致します。
本当は、知っておいて欲しいとは思うのですがね。
正月、一月一日は、仏教においては「修正会(しゅしょうえ)」と言います。
このことは、以前のおせち料理や大掃除の話、また七草粥のところでも、ちらりちらりとお伝えしてきたことであります。
日本仏教において、主な年中行事として、大体どの宗派でも、修正会については書かれているかと存じます。
浄土宗では、「浄土宗壇信徒宝典」や「うちのお寺は浄土宗」という本にも、修正会について伝えて下さっています。
「うちのお寺は浄土宗」でしたら、修正会の日程は1月1日から3日まで、三が日のことを言う、と表にして伝えられています。
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浄土宗の話をしましたから、関連する話を少々。
浄土宗では、法然上人のご命日が、1月25日ということもありまして、1月は大切な法会が御座いました。
1月25日の法然上人ご命日法要を「御忌会(ぎょきえ)」と言うのですが、現代では4月25日に行われるように変遷しております。
以前お伝え致しました、ミッドナイト念仏in御忌が、それです。
参照:「ミッドナイト念仏in御忌2016に行ってきました」
家の宗派が浄土宗であるならば、覚えて置かれるとよろしいかと存じます。
正月の初詣と修正会の意味:どのお寺に行けば良いのか
仏教では、我々が正月と呼ぶ日程を修正会と言いますが、修正会とはそもそも何なのか。修正会は、「正月・年の初めに、寺では社会の平和と人々の幸福を祈り、法会を修す」というものです。
私はここから、新年を迎えられた有り難さに、ご本尊様に感謝申し上げる日や期間、という事であると頂いております。
この「有り難さ」も仏教の意味として頂く事が肝要です、新年を迎えられることは有り難い、ということですね。
それゆえに、ご本尊様に「~してくれますように」ではんかう、「感謝申し上げる、法会を修す」というところを、見逃さないようにしたいものです。
ついつい、「神様仏様」と、お願い事をしたくなる気持ちは、煩悩による神仏との取引になりますがゆえに。
さて、修正会の意味を知ったら、それならばと正月・修正会の初詣をお寺へと思うた場合、どのお寺さんに行けば良いのか、という疑問を持たれる方も、いらっしゃるかもしれません。
「浄土宗壇信徒宝典」で教わった事を基・ベースとしますと、元旦には出来れば一家揃って菩提寺へ赴き、初詣をされるのが望ましいでしょう。
私は総本山知恩院や、東西の本願寺や仏光寺、東寺(教王護国寺)などをはしごをした後、、私も菩提寺へ赴き、先祖へ修正会の挨拶をしております。
もしも家の宗教が仏教で、菩提寺が御座いましたら、そちらにも赴くのが、望ましい修正会の過ごし方です。
そうすることで、お坊さんとの御縁も深まりますからね。
正月の初詣は神社かお寺かの結論:家の宗教に照らし合わせた上で、どちらでもよい
仏教における正月、修正会についてお伝えしたところで、表題の話に参りましょう。正月の初詣は、神社へ行くべきかお寺へ行くべきか、という話でしたね。
私の結論としましては、「どちらでもよい」です。
私が浄土宗の檀家で、仏教者という自覚があるからお寺へ行きましょう、と言うかと思ったら、違います。
そもそも私も、東寺から東西の本願寺へ行きますし、その足で知恩院へ参りますし、その足で南下して八坂神社にいきますからね。
京都で神社と言いますと、四条通りの八坂神社か、伏見にあります伏見稲荷大社辺りでしょうか。
京都で初詣をしやすいお寺さんも、上でお伝えしました私が毎年行くお寺さん、東寺や東西の本願寺でありましょうかね。
もしも家が厳格な神道の家で、初詣は神社仕方駄目だという場合には、その限りではありません。
神道のご家庭でしたら、無理にお寺さんに行く事も無いでしょうし、神社で厳かに過ごせばよろしいかと。
その辺りは、家の宗教や宗派に照らし合わせた上で、正月の過ごし方と初詣の場所を決められると良いでしょう。
そもそも家が神社であったりお寺さんでしたら、家の神社や自坊が忙しくて、それどころではないとは思いますが。
多くの人は、初詣はある種のイベントとして参加されている風潮を感じます。
そこに水を差すこともありませんし、神社とお寺に触れる良い機会でもありますから、初詣は神社もお寺もはしごしたり、行きたい神社仏閣へ行かれると良いかと存じます。
それで罰が当たるわけでもありますまいて。
細かいことを言いますれば、初詣に行って罰が当たるとか云々言う事に惑わされるのは、仏教では戒める事であり、仏道を歩まんとする私から言わせて頂ければ、そんな事に迷いなさんなってなもんです。
細かいことついでに、もう一つ。
神社やお寺に行かれるとき、下の絵にあるような着物姿だと、正月気分を満喫出来るかも知れません。
これを機会に、家の宗教を知る日にしながら、振袖姿で正月をきめる、というのも、なかなか乙な和の過ごし方かと、私は味わいを頂いております。
そんな私は、作務衣で過ごすわけですが。
和服と言う事で、ご勘弁願えればと存じます。

初詣に神社でもお寺でもお参りするときに注意したい事と心がけたいこと
初詣は、神社もお寺も、どちらでもよいという話を致しましたが、ここで一つお伝えしたいことが御座います。お参り、参拝するときの心構えと作法について、少々細かいことをば。
神社とお寺をはしごするとき、私も気をつけていることなのですが、神社では神社の作法を、お寺ではお寺の作法を、という使い分けには、気をつけた方が宜しいでしょう。
共通するところは、神社では鳥居をくぐる前、お寺さんでは三門をくぐる前に一揖(いちゆう:お辞儀・会釈のこと)をして、手水舎(ちょうずや)で身を清めておきます。
そして、ここからが神社とお寺での、参拝・お参りの仕方の違いです。
神社では一揖してから御賽銭を賽銭箱に入れて、「二礼二拍手一礼」をしてお参り致します。
出雲大社では「二礼四拍一礼」ですから、覚えて置くと宜しいかと存じます。
お寺では、一揖して御賽銭を投げ入れるところまでは同じです。
そして、お寺さんでは拍手はせずに、合掌して、一揖という流れです。
お寺さんで二礼二拍手一礼をしないように、注意致しましょう。
私も八坂神社や伏見稲荷大社にて、合掌しながら南無阿弥陀佛十念をしませんからね、合掌はしますけれども。
この辺りは、TPOというやつをわきまえた方がよろしいかと存じます。
目くじら立てる人や、お節介にも注意してくれる人はなかなかいらっしゃらないでしょうが、場と儀礼をわきまえていない、とあざとく観ている人は観ていますからね。
後、初詣に限りませんが、お参りについて私は一家言御座います。
神社やお寺さんに初詣に行くと、大概「今年も良い一年でありますように」と、願い事をされることかと存じます。
それはそれで微笑ましい事ですし、そう願いたくなることは無理もありません。
そのような初詣のエトス(行為様式・習慣や風習)は、根付いておりますから。
ただ、以前も申し上げました通り、私は神頼みの類いをしたことが一度も御座いません。
神様仏様に、お願い事をする事に、生来的に違和感を覚えておりまして。
神頼みや仏様へのお願い事は、子供の頃から何となく躊躇しておったものです。
現在は、神仏への願い事は、神仏を人が好き勝手に都合良く利用しようとしているという感覚感性を、要衝から持っていたんだろうなあ、と、言語化出来ております。
だって、御賽銭を投げ入れて、「~になりますように」とは、神仏との取引でありましょう。
人に対して、そんなに都合良く取引して頂けるとは、私には到底思えません。
何よりも、そのような神頼みをせずに、生活苦は生活によって、経済苦は経済によって、人間関係の苦は人間との関わり方や仕方によって、解決していくべきです。
それを都合良く「神様仏様、助けて」と、5円玉一つで解消して貰おうなどとは、虫が良すぎるってもんでありましょう。
もっとも、これは占いや迷信、神頼みなどに惑わされないという仏教・仏法という教えを大切にしている、私の色眼鏡ではありますがね。
それに関連して、初詣をパワースポット巡りとしている事にも、一家言御座います。
それにつきましては、こちらも併せてお読み頂いておくと、より理解が深まるかと存じます。
記事:「パワースポットの相性と属性で消耗しているの?迷信に振り回されてません?」
パワースポットと言いますけれど、神社仏閣・寺社仏閣は、私としましては「パワーレススポット」という頂き方をしております。
神仏にパワーを頂いている、という宗教体験的な感じ方は、それはそれであり得ますし、それ自体は否定致しません。
ただ、私としましては、力んで生きている日常からの、束の間の解放感を覚えるという所には、その力みがほぐされていくという事から、パワーレスな状態へ、という味わいを頂いておるのです。
ゆえに、「パワーレススポット」というわけです。
そもそもとして、御賽銭を財力という力の一つと考えれば、喜捨の在り方で財力への執着(しゅうじゃく)を解放させて頂いているわけですから、パワーレスと言えましょう。
そんな感じで、ひと味違った初詣を味わわれるのも乙な正月・修正会の過ごし方ではないか、そのように思う今日この頃で御座います。
合掌