有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
前回は、仏教が説く基本的な教え「諸行無常(しょぎょうむじょう)」について、意味と味わいをお伝え致しております。
その時に、ちらりと平家物語の冒頭「諸行無常の響あり」という言葉と意味も、少しだけ触れております。
諸行無常とは、「諸法無我」「涅槃寂静」と合わせて「三法印」と呼ばれる、大乗仏教が説く三つの教えであります。
意味は、前回の話を参照して頂くと致しまして、今回は「諸行無常」という言葉と概念に対する感じ方、語感・ニュアンスの頂き方について、「諸行無常の響あり」の意味と味わいと共に、話を進めてみることと致します。
諸行無常の響ありの意味の元を辿る
平家物語の「諸行無常の響あり」の意味を味わい、そこから諸行無常に感じる語感やパトス(精神性・情緒)の話をする前に、少し豆知識をお伝えしておきます。平家物語の冒頭は、「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」とあり、祇園精舎という言葉が出て来ます。
祇園精舎については、祇園祭りの話でちらりとお伝えしております。
参照:「祇園祭の由来と歴史、そして仏教の話」
こちらの記事にて、祇園精舎の事に触れておりますから、合わせてお読み頂ければ、より味わいも深まるかと存じます。
話を戻しまして、祇園精舎には「無常堂」というお堂がありまして、その四隅の軒(のき)には、鐘がさげられております。
そして、修行僧が臨終の時に、「諸行無常」の四句の偈を響かせることのより、修行僧を極楽浄土へ導く、という話が御座います。
この後に話を致しますが、「諸行無常」という言葉に、もの悲しさや儚さ、空しさといった意味付けをするパトス(精神性・情緒)は、この辺りも関連があるかな、と私は勝手に考えております。

諸行無常の響ありの意味
「諸行無常の響あり」と言う言葉は、私と同じように、中学生の頃に国語の授業の時に平家物語で習った、という人も多いのでは無いかと存じます。曹洞宗の恐山菩提寺の僧侶であられる南直哉さんも、中学時代に「諸行無常」という言葉を、平家物語の「諸行無常の響あり」で、初めて出会われたそうです。
私が習いました平家物語の一幕は、那須与一が鏑矢で、船の扇を射る話でありました。
この「諸行無常の響あり」の意味を頂くにあたっては、全文を学ぶのが宜しいことでありましょう。
全文は、以下の通りです。
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
「懐かしいなあ」と、感じられた人もいらっしゃるかもしれません。
意味は、「祇園精舎の鐘の音は、諸行無常という、物事や事柄、現象は全て変化し続けている響がある。」といったところでありましょうか。
この時点で、なんとなくもの悲しさや、儚さを感じる人もいらっしゃるかと存じます。
その後も、「唯春の夜の夢のごとし」とか「たけき者も遂にはほろびぬ」と、はかない夢であったり、滅びを語っている事から、なんとも静けさと儚さを感じる情緒的な風情を感じます。
また、「盛者必衰の理をあらわす」とか「遂にはほろびぬ」と言われると、儚さと共に空しさも感じるという人、虚無感や空虚を感じる人がいても、致し方ない気が致します。
諸行無常の響ありの語感・ニュアンスに空しさを感じたりもの悲しさを意味付けしてしまう理由
上でお伝えしてきました通り、「諸行無常の響あり」というと、何となく「空しい響きを感じる」など、どちらかというと暗い印象を持つ人も、いらっしゃるのではないかとお見受け致します。私も、平家物語の冒頭を読む限りは、どんなに栄えていてもいつかは滅びるものだ、という、ある種の空しさや虚無感を覚えた事も御座いました。
後の方でもお伝えしますが、諸行無常という言葉に、そのような感情は御座いません。
諸行無常とは、万物流転であったり、諸行・物事に常は無く絶えず変化し続けている、と言う事を意味する教えです。
では、なぜもの悲しさや虚無感、儚さなどの暗いと思える語感・ニュアンスを覚えるのか。
それは、平家物語の冒頭で感じた事がそのまま、「諸行無常」という言葉の感じ方に混同されるからではないか、私はそのように考えております。
これは学説ではなく、あくまで私が感じているというだけの話で、私が考えついた事柄ではありますが。
例えば、仲良しの友人と旅行に行ったとき、一緒に写っている一枚の写真を見ると、楽しい気持ちになる事でありましょう。
しかし、何らかのトラブルで喧嘩別れした場合、同じ一枚の写真を見ると、今度は悲しさや怒りが沸いてきたりするものです。
このように、人という存在は、その時の環境や心境などに引っ張られて、一つの事実をありのままに観る事が難しい生き物です。
これと似たような現象で、一つの言葉と出会った時、その前後の文章や、文脈に引っ張られることによって、言葉に対する印象や、個々の語感も変わってきます。
このような事から、平家物語の冒頭は、全体的に「いつかは滅びゆく」という意味に引っ張られ、虚無感なり儚さを感じ、その事によって「諸行無常」も引っ張られてしまっている、という事があるのではないかと思うております。
もしかしたら、「諸行無常の響あり」だけではなく、沙羅双樹や祇園精舎も、この言葉を見聞きしただけで、なんとなく儚さを感じる、という人もいらっしゃるかも、というのは考えすぎでしょうかね。

諸行無常にもの悲しいとか儚さや空しさという意味はない
もしかしたら「諸行無常」と聞くと、「諸行無常の響あり」という平家物語の冒頭を思い出し、更に「無情」という音からの連想を為して、もの悲しさなり儚さ、空しさを感じるかもしれません。しかし本来、「諸行無常」には、そのような空しさや儚さは御座いませんし、それらの感情を説いているのではありません。
諸行無常とは、あくまでも「諸行に常は無い、物事は変化し続けている」という意味であり、仏教が説く教えです。
「諸行に常は無いし、物事は変化する、だから人もいなくなるし、寂しいしはかないなあ、空しいなあ」というのは、勝手に念を継いでいるだけです。
仏教では、「二念を継がない」という事を説いております。
例えば、「りんごがある。」と言う場面を取り上げて見ましょう。
この場合、そこにりんごがある、というだけです。
しかし、そこから「りんごがある→美味そうだ。」とか「りんごがある→色つやが悪いから不味そうだ」と、「~そうだ」と勝手に妄想するのが、念を継いでいる、ということです。
今回の「諸行無常の響あり」も、「諸行無常の響は、もの悲しい空しさがある、はかないなあ。」とするのも、念を継いで意味付けしている、ということであります。
事実は事実でしかなく、真実は真実、真理は真理でしかありません。
しかし、そこに「無常」という音から「無情」と結び付けてしまうのが、我々人という生き物でありましょう。
その事を、臨済宗の禅僧、松原泰道さんの本「仏教のことばで考える」が、教えて下さっています。
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「無常観に感情移入して、無情感に変えてしまう」
と、伝えて下さっています。
「観」を「感」に変えてしまう私達という人の有り様を、見事に伝えて下さっていると、私は味わい、頂いたもので御座います。
今後、平家物語の冒頭に触れる機会があったとき、「諸行無常の響あり」に、はかない響を感じたら、二念を継いでいないか自己を問うてみては如何でしょうか。
ただ、そのように感じる情緒や感受性は、大切にしたいとは思います。
大切な事は、そのような感受性や情緒的な感じ方を大切にしつつ、念を継いで囚われない事であろうか、そのように考える次第であります。
それが、禅的であり仏教的な在り方だと、私は頂いております。
合掌