有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
先日、「ぶっちゃけ寺」という仏教関連の番組にて、古舘伊知郎さんが出演されて、途中で「諸行無常(しょぎょうむじょう)」について、熱弁されていました。
古舘伊知郎さんの「諸行無常の味わい方」は、なるほどなあ、と、学ばせて頂いた次第で御座います。
常は無く、だからこそ前向きになれたり、愚かな者でも変わっていけるのだ、という諸行無常や阿修羅像の味わいに、救いを見出したものであります。
このお堂(ブログ)でも、たびたび「諸行無常」という言葉を使ってきましたが、意味を仏教語・仏教用語としてお伝えした事は御座いません。
今回、ぶっちゃけ寺を視聴させて頂いた御縁もありまして、一度表題にさせて頂こうと思い立った次第であります。
古舘伊知郎さんではありませんが、一在家仏教者が学んだ事、そして味わい方や頂き方として、お付き合い頂け巻いたら嬉しゅう御座います。
諸行無常の基本的な意味
諸行無常について、基本的な意味を最初にお伝えしておきます。「諸行無常(しょぎょうむじょう)」とは、
:この世の諸々のものや事柄は、絶え間なく変化し続けている
という意味です。
物事・事柄や、生物事物に到るまで常は無い、という意味であり、言いかえるならば「万物流転」でありましょう。
「諸行無常」は、仏教が説く真理の一つであり、釈尊(お釈迦様・ゴーダマブッダ)が悟られた真理の一つとして、お坊さんから何度もお話を伺ったものです。
理科や生物の授業で「恒温動物」だとか、恒常性や普遍性と言った言葉と概念、その例を学校で習ったと言う人もいらっしゃるかと存じます。
私も、「変わらないもの」という概念自体は、学校で習ったものです。
しかし、物事や生きとし生けるものは常に変化しており、よく言われる例が「人間の身体における細胞の生と滅」です。
一見すると、人間の身体は変化していないように見えても、毎日とてつもない数の細胞が、生と滅を繰り返しているのだ、ということです。
また、コンクリートや金属などの無機物も、長時間変化が見られないとしても、それは人の肉眼で視認出来ないだけであり、刹那事に変化している、と観るのが、仏教的な観方です。
1000年単位の寺院に行くと、長い年月を掛けて風化した様に見える建物や諸々の物も、刹那事に変化しています。
常に変化しているから、常なるものは諸行に無い、という教えが、仏教が説く「諸行無常」であります。

諸行無常の出典・出所
諸行無常の意味は、上でお伝えした通りであり、どのように味わいを頂くかは、各々によりけりであります。では、この「諸行無常」という言葉と概念、仏教が説く教えの出所は、何であるかという話です。
仏教の経典に「大般涅槃経(通称:涅槃経)」が御座いまして、その中に雪山童子の話が御座います。
雪山童子は、雪山で菩薩の修行をしていた時に、羅刹(らせつ)が
:諸行無常(しょぎょうむじょう)、是生滅法(ぜしょうめっぽう)
と発しているのを聞きます。
ここで、「諸行無常」という言葉が出て来ます。
ちなみに、この「涅槃経」の雪山童子の話を元にして作られたのが、「色はにほへど散りぬるを」とうたわれる「いろは歌」です。
諸行無常を味わいたいならば、涅槃経の雪山童子と、いろは歌を改めて触れて頂ければと思います。
更に豆知識を言わせて頂くと、涅槃経には「油断大敵(ゆだんたいてき)」も出てきます。
異論もあるようですが、「油断」や「油断大敵」は、仏教語・仏教用語として解説されることも御座います。
私は、作家で禅僧の玄侑宗久さんの「さすらいの仏教語」で学びました。
「油断大敵」と言うと、「気を引き締めないと失敗する、だから気を緩めてはいけない」という意味が御座います。
「油断大敵」の語源や由来には異論も御座いますが、一つの説として味わうのもよきかな、と思うところであります。
諸行無常の意味を英語から学び味わう
話が少し逸れましたが、諸行無常の意味を、今度は英語で学ぶ事によって、味わいを深めてみましょう。有り難い事に、諸行無常の英語については、ぶっちゃけ寺にも出演されている浄土真宗本願寺派のお坊さんであられる、大來尚順さんが出されている本「英語でブッダ」で解説して下さっています。
現在は、加筆もされた新書にもなっておりますから、興味がある方は、そちらを読まれるとよいでしょう。
諸行無常の意味は、「諸々の行いや現象、事柄は常では無い」という意味です。
そこから、「永遠では無い、永遠には続かない」という意味を頂くと、
:impermanence(永遠では無いこと)
という英語・英単語が使えます。
impermanenceには「儚さ(はかなさ)」という意味もあり、別のところでお伝え致しますが、諸行無常という言葉の響や語感に、ある種の寂しさや儚さを感じる風潮も、見事に捉えられている気が致します。
「諸行無常」を文章化しますと、「英語でブッダ」では、
:Life is impermanence
と英語の文章で表現されています。
ただ、これだと「命」あるいは「人生」に限定されます。
そこで、大來尚順さんが表現された諸行無常の英語訳が、
:Everything is changing
です。
直訳すると「全ての物事は変わり続けている」となりますから、まさに諸行無常を直接的に表した英語表現と言えましょう。
更に「Everything is constantly changing」と、「constantly(絶えず、絶え間なく)」という英語・英単語を入れると、更に的確さを感じる表現であるとも解説されていました。
諸行無常の意味を、英語でわかりやすく簡潔に表現するなら
:Everything is constantly changing
辺りが、良い塩梅であると頂いております。
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諸行無常の意味がもの悲しく、英語でも儚さという意味を含む味わいは何故だろう
諸行無常という言葉について、意味と英語表現を学んできましたが、私は上で、儚さの意味も持つ英語表現をされたのは見事である、と申しました。諸行無常とは、「諸々の行いや物事は、常は無く移り変わっている」という意味であります。
そして、言葉としては「物事に常は無く移り変わっている」という事を表現しているだけなのに、何となくもの悲しさであったり寂しさや儚さを感じる人はいらっしゃるかと存じます。
「諸行無常」という言葉自体は、もしかしたら私もそうだったように、中学生辺りで習う「平家物語」の冒頭を読んで、知られたという人も多いのではないかと存じます。
平家物語の冒頭は、「諸行無常の響きあり。」と、諸行無常という言葉が出て参ります。
そして、「唯春の夜の夢のごとし」「偏に風の前の塵に同じ」だとか「たけき者も遂にはほろびぬ」と、滅び行くという言葉が御座います。
平家物語の文章や文脈から、何となく「諸行無常って、なんだかもの悲しいしはかないなあ」と、感じられる人がいるのも、頷ける気が致します。
また、なんとなく、音の響きから「無情」と混同して、それに引っ張られる形で「無常は無情な響あり」と感じられる人もいらっしゃるやもしれません。
諸行無常には、本来はそのような情念はなく、「ただ移り変わり、常は無い」という事を言い表す言葉であり、仏教が説く教えです。
しかし、物事が永遠に続かない事に、儚さを感じることを考えると、もの悲しさを感じられる言葉であると頂くことを、完全否定することについては、なんだか憚られます。
「無情」とは、人情、感情なり情念が感じられない様子、という意味です。
「無常」なり「諸行無常」は、どうしようもなく抗いようのない事であり、人情や感情でどうにか出来る事ではありません。
時にはその事が、情け容赦無いという意味で「無情」を感じる事もありましょう。
ゆえに、「無常は無情なり」という事による儚さやもの悲しさは、感情的にも言葉の意味や概念としても、感じ取る事があるのです。
諸行無常なるこの世を、どのように生きてどのように頂くか。
ただそのままに味わい頂くか、それともそこに「無情」を感じて儚さを頂くか。
それとも古舘伊知郎さんのように、常に変われるという可能性を見出して、「徹底」して地に足を付けて歩み続けるか。
諸行無常という仏教語・仏教用語を、知識として学ぶだけでは無く、学んだら、どう味わいを頂き、生きていくかという事が、問われているような気が致します。
合掌