有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
私は2016年5月28日(土)に、大谷大学へ釈徹宗さんの講演を聴聞させて頂きに伺いました。
毎年5月21日は、真宗・浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の降誕会(誕生日)ということで、系列の大学ではそれぞれ催しがあります。
私の母校である龍谷大学でも、5月21日には降誕会がありました。
大谷大学は、真宗大谷派の大学と言う事もあり、2016年も関連の催しが御座いまして、その一つが「2016年度親鸞聖人御誕生会」です。
今回は、浄土真宗本願寺派の僧侶で宗教学者でもあり、相愛大学人文学部教授として教鞭を執られている釈徹宗さんの講演があるということで、私も聴聞させて頂きました。
釈徹宗さんの解説や講義はわかりやすく面白い
釈徹宗さんと言えば、このお堂(ブログ)でもたびたびお伝えした浄土真宗本願寺派の僧侶です。参照1:「釈徹宗さんが断捨離を仏教の視点から解説されている」
参照2:「100分de名著「歎異抄(釈徹宗さん解説)」
参照3:「100分de名著「歎異抄」補足」
釈徹宗さんと言えば、私が最もわかりやすいと感じた歎異抄の解説書を書かれた人というイメージがあります。
2016年4月に4回にわたって歎異抄を「100分de名著・歎異抄」で解説されていましたから、それで知ったという人もいらっしゃるかもしれませんね。
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私が釈徹宗さんの講演を直接聴聞させて頂くのは、2015年12月に行われた真宗本廟(東本願寺)での講演以来、2度目です。
東本願寺では、真宗教化センターしんらん交流館で行われました。
釈徹宗さんの話を実際に聴聞させて頂いた印象は「凄くわかりやすく面白い」というところです。
難しい言葉はあまり使われず、要所要所で仏教用語を使用されますが、その説明もきっちりなされて、それでいて淀みなくお話しが進んで行きます。
途中、笑い話もあって、流石は大学教授で僧侶と言いますか、御法話や講演になれていらっしゃるという感じが致しましたね。
また、釈徹宗さんは易しい語り口調でこちらに語りかけるように話して下さり、あまり抑揚はありませんが落ち着いた雰囲気で、こちらも落ち着いて聴聞させて頂ける雰囲気です。
ただ、そのような優しく落ち着いた雰囲気故にか、居眠りしてしまっている聴衆も前の方でちらりと見かけたものですがね。
ちなみに、大学の授業では学生を結構大きな声で叱ったり、静かにさせる場面がしょっちゅうあると著書にありましたが、そのような事は想像しにくいところであります。
今回の大谷大学での記念講演も、このような感じで、今回の表題である、宗教とエトスやその他の話を頂く事が出来ました。
表題は「真宗とエトス」
今回の釈徹宗さんによる記念講演の表題は「真宗とエトス」です。「エトス」とは、辞書的な意味は「いつもの場所、習慣」という、ギリシャ語の言葉です。
そこから転じて、釈徹宗さんは「行為様式、行動形態」と訳されています。
行動規範という意味の言葉として、確かに著書でも使用されています。
今回の表題は「真宗とエトス」ですが、話はその他の宗教について、各地で体験された話を盛り込んで解説され、真宗以外のエトスについても教えて下さいました。
例えば、釈徹宗さんは浄土宗の僧侶の方と、イスラエルに行かれ、ユダヤ教のエトスに囲まれたという経験をお持ちです。
イスラエルでの活動中、ユダヤ教信者の方々の中でユダヤ教のエトスを強烈に感じたそうです。
この話を聞いたとき、私は
:行動規範や行為様式が、宗教者としての自覚に繋がる
:エトスの連続性や習慣が、宗教者の自覚を育む
という事を思いました。
これは、私の実体験としてもあります。
そして、私の実体験とまさに同じような話が、この後に続きます。
釈徹宗さんと浄土宗の僧侶の方は、そのようなユダヤ教の強烈なエトスの中において圧倒される程の中、浄土宗の僧侶が十念(10回お念仏を称える事)をする事にされました。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を10回という、浄土宗の僧侶や檀信徒がよくお唱えする、言うなれば浄土宗のエトスの一つです。
そうした体験を経て、釈徹宗さんは
「行為様式・エトスがどこで暮らしていても頼りになる、立ち返るという事が可能になる」
と、実感されたそうです。
釈徹宗さんは、紀元後90年から1947年にイスラエルがユダヤ人の国家として建国されるまで、ユダヤ人の国らしき国は歴史的にもなかったと、講演で話されていました。
国家がないわけですから、土地信仰に頼るのは難しく、国家の力に頼る事は出来ません。
では、国家が無く、世界のあちこちに散らばるようにして暮らしていたユダヤ教の人達が、何故ユダヤ人としてずっと存続出来たのか。
これは「エトスの力」が凄く大きな要因としてあります。
浄土宗の檀信徒が、お念仏を称えるエトスで念仏者として存在する事で、浄土宗の檀信徒であり続けるという事と類似したことではないか、私はそのように思います。
真宗・浄土真宗も念仏の宗派ですから、共通点はとてもあると思います。
宗教的なエトスには、宗教者としての自覚や、その事によって救われる、どこに暮らしていても自覚できるという行為様式である、私はそのように釈徹宗さんのお話しを頂きました。
それにしても、釈徹宗さんは比較宗教学・思想の研究がご専門とある通り、世界の宗教にも詳しいと、改めて思ったものです。

蒟蒻問答(餅屋問答)
今回の釈徹宗さんによる記念講演では「真宗とエトス」という表題ではありますが、こぼれ話的な話もありました。釈徹宗さんは、東本願寺文庫も所蔵されている本
:おてらくご
の著者でもあられる方です。
落語にも詳しい方で、落語の歴史についても少しだけ話をして下さいました。
MOVIX京都の直ぐ南にある、浄土宗西山深草派のお寺「誓願寺」のお坊さんが、落語発祥だという話や、安居院流の話も少しふれられました。
ほんと、釈徹宗さんは博学でいらっしゃいます。
そのような話の流れで「蒟蒻問答」、地域によっては「餅屋問答」について解説もして下さいました。
この話は、釈徹宗さんと、「書く禅僧」と呼ばれる臨済宗の玄侑宗久さんとの対談本で学ぶ事が出来ます。
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もの凄くはしょって解説すると、偽住職のこんにゃく屋が、雲水(修行中の禅僧)と問答をします。
雲水の問いに対し、偽住職のこんにゃく屋は、全くデタラメな回答をします。
でも、雲水はこんにゃく屋から仏法を学び、更に精進する事を誓って去って行く、という話です。
この「蒟蒻問答」から、
:何事もどのように受け取るか、受け取り方次第で宝にもガラクタにもなる
ということを学ぶ事が出来ます。
真宗的な表現をすると、
:物事をどのように頂くか
ということです。
このような事って、我々の日常生活の中にもしばしば見受けられる事柄ではありませんか?
こちらが話し相手に対して凄く良い事を言っておっても、当の相手に受け取る力が無ければ、全く届きません。
逆に、こちらがデタラメな事を返してしまっても、受け取る側の感性が豊かであれば、仏法を学ぶに等しい受け取り方をしたり、急成長のきっかけと受け取ってくれます。
そして、この受け取る側の感性、頂き方の感性なり宗教心を磨く鍵となるのが「エトス」なのです。
今回の釈徹宗さんの講演も、私にとっては非常に学ぶ事が多く、濃密な御法話を聴聞させて頂きました。
有難う御座います。
合掌