有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
7月に入ると、夏休みがそろそろだなあ、とお子さん達が夏休みを話題にして話しかけられるという人もいらっしゃるのではないでしょうか。
「夏休みにどっか連れて行ってよ」というのは、定番の台詞であるような気がします。
子供達にとって、夏休みは楽しみの一つではあるでしょうが、夏休みの宿題をこなすという課題も御座います。
寒い地域では、冬休みに学校の長期休業となりますがね。
こうした時期に、夏休みの宿題を手伝うことになる親御さんもいらっしゃるでしょう。
ちなみに私は、夏休みの宿題は最初か最後に一気にやるタイプではなく、ちょこちょことスタンダードにやっていくタイプでした。
夏休み宿題の代行サービス「宿題代行」があるらしい
少し前の夏休みシーズンから、:夏休みの宿題代行サービス
なる市場があるという話が、盛り上がったことがあります。
世間には色々なサービスがあり、最近でしたら「お坊さん宅配サービス」も、話題になって仏教界と市場とで議論が巻き起こったものです。
夏休みの宿題代行とは
「夏休みの宿題を、宿題代行のサービスを運営している人達が子供達の代わりに夏休みの宿題をこなす」
というサービスです。
私が子供の頃は、インターネットという言葉すら知らない人ばかりの時代でしたから、このような宿題代行サービスが出来るのは、時代を感じるものであります。
だからといって「昔は良かった」なんて懐古主義的なことは申し上げませんがね。
現在は、夏休みの宿題だけではなく、大学生のレポート代行も請け負うというように、サービスの幅が広がっています。
このような市場に対して、やはりと言いますか、賛否の声があって議論が巻き起こっており、今年の夏も宿題代行について議論がありそうな予感が致しております。

夏休みの宿題を宿題代行業者に依頼する人は増えているらしい
夏休みの宿題を、宿題代行業者に依頼する人は、批判も多いからそんなにいないかと思いきや、年ごとに増えているという話があります。例えば、賛成側の言い分としては、受験期の小中学生でしたら、夏休みの宿題よりも、受験勉強に専念したいという思いがあります。
そういう場合、夏休みの宿題に時間を取られるくらいなら宿題代行サービスに依頼して、その分の時間を受験勉強に充てる、ということですね。
確かに合理的ではあります。
特に受験生の夏は、予備校や塾で受験のための夏期講習があるでしょうから、その言い分もわからんではありません。
わからんではありませんが、現在の私の立ち位置からは、この夏休みの宿題代行サービスについても、また大学生のレポート代行についても、懐疑的です。
懐疑的と言いますか、「出来れば利用せん方がいいと思う」という主観を持って観ているという立ち位置です。
その事について、仏教や禅を学び続ける仏教徒が観る仏教視点から、お伝えしていきます。
夏休みの宿題を宿題代行サービスを仏教・禅の「他は是我にあらず」から観る
夏休みの宿題を宿題代行業者に任せることについて、:他不是吾(他はこれ、われにあらず)
という禅語の視点から観て、私の思うことが御座います。
「他不是吾」は、道元禅師が中国での修行中に出てくるエピソードからの禅語であります。
道元禅師と言えば、曹洞宗の御宗祖であり、「典座教訓」等を書き残された禅僧です。
道元禅師はある時、炎天下の中で干して食べるものを作る作業をしている典座(禅寺で料理担当の僧侶・雲水のこと)老僧と出会います。
その老僧に道元禅師は
「どうして若い者にやらせないのですか?」
と尋ねます。
すると老僧、
「他不是吾(他はこれわれにあらず)」
と答えられます。
「自分が為べきこと、こなすべき課題や役目は、他人にしてもらったら意味を成さない」という戒めの禅語として解釈される言葉であり、私もそのように頂いております禅語です。
例えばよくある笑い話で、冬の寒い時期にこたつに入っているとき、ふと排泄を催したとします。
その時「私の代わりにトイレに行っておいて。」なんて冗談を、聞いた事ありませんか?
他の人がトイレに行ったからと言って、自分の催しが解消されることはありません。
空腹にしても、自分が空腹なのに他の人に代わりに食事をして貰っても、自分の空腹は満たされないのも「他不是吾」です。
夏休みの宿題も、宿題代行業者に丸投げしてしまっては、自分の力に、身になりません。
このことを、夏休みの宿題を宿題代行サービスに任せる事に照らし合わせると、自ずと私が思い感じる事を把握して頂きやすいのではないかと存じます。
ちなみに、黄檗宗の公式サイトにある「他不是吾」の項目では、
自分に課せられた宿題は、他人に解いてもらっても何の役にも立ちません。
と書いてあり、まさに夏休みの宿題代行についてへの戒めにもなる一文です。
特に自由研究など、自分の体験によって成就する課題は、まさにこの教訓を知るべきところだと、私は頂いております。
体験によってはじめて完成する事が出来る課題を宿題代行業者に丸投げしてしまうのは、体験も放棄してしまうことなのです。
体験によって得られる充実感や智慧を捨ててしまう行為は勿体ないと私は思うのですが、如何でしょうか。
宿題代行業者を「夏休みの宿題」という概念を改めて考えるきっかけに
私は、「他不是吾」という禅語から、自己・自力によりて課題を完遂するという事を放棄してしまう習慣が身につく事を危惧しております。そのような主観を持っているから、現在の立ち位置としては、夏休みの宿題を宿題代行サービスに請け負って貰う事については懐疑的であります。
市場原理や経済活動云々も含めてくると、一概に否定ばかりは出来ないという視点は持った上で、あえてそのように申し上げております。
この宿題代行サービスやレポート代行のアルバイトをしている大学生にとっては、貴重な収入源となるでしょうし、立ち位置によっては意見も変わるでしょうからね。
あくまで仏教を学び続ける仏教者としては、「自己の課題は自己で完遂しないと力にならない」としております。
そして、更に仏教的な話を致しましたら、
「夏休みの宿題とはなんぞや?」
「夏休みの宿題という形体は形骸化していないか、夏休みの宿題を出す目的は何なのか?」
という事を、宿題代行サービスの出現に際して、今一度考えて観ては如何でしょうか、と提案致します。
夏休みの宿題代行サービスが、こうして市場を広げているのは、宿題を誰か代わりにしてほしい、肩代わりしてほしい欲求があっての事です。
遊びたい盛りの子供達にとっては、特に遊び時間を確保するために、そのような欲求を持つのは理解できるところであります。
実際、私の時代は宿題代行という概念もありませんでしたから自分でやるしかありませんでしたが、もしかしたら私が今の時代に子供だったら、心ひかれたかもしれません。
それに、宿題代行サービスがすでに市場を形成している現在、市場原理的にも能力的にも、お金さえ出せば利用可能です。
それに対して学校の先生や大人達は、子供達から
「なんで宿題代行を使っちゃいけないの?」
と、理路整然と納得した回答が出来るでしょうか。
まさか、「うるさい!屁理屈抜かすな!」と、げんこつで終わらせる、なんてことはしませんよね?
何とも情けない話ですが、私は仏教サイドからの話しをする事は出来ても、それで子供に完全に納得して貰えるという自信は御座いません。
私は、相手の言い分も否定せずにきちんとくみ取るようにつとめますがゆえに、無理に納得させようという事は致しませんのでね、これが正直な私の在り方です。
そこで、私はこの宿題代行サービスの出現を機会に、
「夏休みの宿題の、そもそもの存在意義や概念」
について考えてはどうだろうか、という提案が御座います。
ある現象が起こったときに「そもそも、なんぞや?」を考えるのも、仏教の在り方の一つです。
例えば、夏休みとなると長期に学校という場での学習はしなくなるし、塾に行っていない子供は勉強をする機会がなくなります。
そうなると、折角学習した事を忘れてしまいかねないから「復習して覚えた事を忘れないためにするんだよ」と、夏休みの宿題の存在意義を伝えます。(あくまで存在意義の一例)
でも、それはこのように考える大人が自身でも納得して、確信を持って子供に伝えられないと、敏感な子供によっては疑って納得しないこともあるでしょう。
だから、しっかりと大人側も考える必要があり、宿題代行サービスの話題が出たら、このことを考えるきっかけとして頂くのです。
このように、宿題代行サービスを真っ向から完全否定するのではなく、これを機会に
「夏休みの宿題の存在意義や、何故宿題代行サービスの利用者が増えているのか」
を考えて観ては如何でしょうか。
「なんで夏休みの宿題を自分でやらないといけないの?」と、子供に尋ねられたら、大人も子供も納得出来る考え方を伝える大人になりたいものです。
子供の夏休みの宿題は、宿題代行ではなくて、ちょっと手を貸すくらいに留めておき、「他不是吾」を夏に学ぶ期間とする。
これが私の「夏休みの宿題」についての、理想論です。
合掌