有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは、愚痴と言う言葉を聞くと、どのような意味や場面を連想されるでしょうか?
現代的な意味の「愚痴」という言葉は、ぶつくさとよからぬ感想をもらしている、と言う状況を思い浮かべられる意味に転じております。
言っても仕方が無いことを、くどくどぶつくさと嘆く事を、現代社会では「愚痴」と言い表します。
「愚痴(ぐち)」という言葉は、元々は仏教語・仏教用語です。
今回は、この「愚痴」という言葉について、仏教用語としての意味と、更に英語での表現から改めて頂いていくことと致します。
愚痴の意味:仏教の言葉、仏教用語として学ぶ
冒頭でお伝えしました通り、「愚痴」という言葉は、元々は仏教由来の言葉、仏教用語で御座います。この辺り、仏教をある程度学んだ人ならば、「三毒の煩悩」の一つであると、ピンとこられたことではないかと存じます。
三毒とは、このお堂(ブログ)でも、たびたびお伝えしてきましたが、改めて復習しておきましょう。
三毒は、「貪欲・瞋恚・愚痴」の事で、人に備わっている煩悩の中でも、特に強力な3つの煩悩です。
平たく言えば「貪り、怒り、愚か」ということです。
そして今回、仏教の視点と、英語での表現から学びなおすのが、この「愚痴(ぐち)」であります。
仏教が説く「愚痴」とは、読んで字の如く「愚かである」という事です。
「愚」も「痴」も、愚かという意味であり、それが重なっていると言う事は、その愚かさの度合いがいかに強く根深いか、という事を物語っていることであろうか、と私は頂いております。
専門的な仏教用語辞典などでは、
:縁起や諸行無常の理を踏まえず、物事の見方がきちんと出来ていない事
という説明もなされます。
私が、西本願寺で御法話を頂いた時に、あるお坊さんは「無明であること」とも、解説して下さいました。
浄土宗では、この「愚痴」を含めて、三毒を懺悔する偈文を、勤行で必ず称えさせて頂きます。
「懺悔偈」には、
:我昔所造諸悪業(私が昔より造る諸々の悪業は)
:皆由無始貪瞋癡(いつ始まったかも分からぬ貪欲・瞋恚・愚痴に由るものです)
とあります。
勤行をさせて頂くたび、つまり毎日己の悪業や、愚かさを照らし出して頂いております。

愚痴は三毒においても大元となる煩悩
愚痴とは、「愚か」という意味ですが、この煩悩は、三毒においても、その他の煩悩においても、大元の煩悩として説明されております。仏教が説く「三毒」は、古来より人である以上は、誰しもが抱える欲望であるとされております。
そして、その三毒の中でも、基本的というと変かもしれませんが、根本・大元となるのが、この「愚痴」であり、愚痴が諸煩悩の発端となります。
三毒において、人間は「あれこれ欲しい」という貪りの心が沸き起こります。
そして、その貪りの心が満たされないと、怒りの煩悩が起こります。
この「貪る心」も「怒りの心」も大元に、どうしても抜けきることが出来ない、逃れることが出来ない煩悩の心が「愚かさ・愚痴」であるというのです。
これは、逆説的に考えれば、理解も深まるのではないかと存じます。
愚かで無ければ、己の貪りや怒りを自覚できますし、そうする事で、その煩悩と共に歩む智慧も産まれるでしょうし、智慧を頂こうという歩みも踏み出す事でありましょう。
それに気づかぬ無明な姿が、「愚痴」の現れであり、その「愚痴」こそが、人に備わり抜けきれず逃れきれない根源煩悩であるのです。
「愚痴」という煩悩は、なかなかにして根っこが深いもので御座います。
愚痴の意味を英語からも学ぶと理解が深まる
愚痴の仏教用語としての意味は、「愚か」あるいは「愚かさ、愚かであること」と、学びなおしました。実は、英語で「愚痴」という表現を読み解くと、仏教由来の意味を深める事が出来ます。
英語で、愚痴を含めた三毒は、
:Three Poisons
と表現出来ます。
英語の意味は、読んで字の如く「三つの毒=三毒」です。
では、この三毒という意味における「愚痴」を、英語ではなんというのか。
このことについては、「英語でブッダ」の大來尚順さんが、わかりやすく教えて下さっています。
|
:Ignorance、Stupidity
です。
「Ignorance=無知」「Stupidity=愚かさ」ですから、仏教由来の意味、仏教用語としての「愚痴」の意味に当てはまります。
ここで更に、英語の勉強です。
それでは、現代的な「グチグチネチネチと文句をたれる」という意味、「愚痴をこぼす」という使われ方をする「愚痴」は、どのように表現するか、という話です。
これは、「complaint」という英語・英単語で表すことが出来ます。
実はこれ、私が使わせて頂いております日本語ソフト「ATOK」で、「愚痴」を変換していったら、偶然辿り着きました。
「complaint」は「苦情、不平、不平を言うこと」などの意味を持つ英語です。
まさに、「愚痴をこぼす」という、現代的な使われ方をする愚痴の意味ですね。
英語表現に、仏教由来の言葉・仏教用語としての「愚痴」と、現代的な使われ方となった「愚痴」の両方を一気に学べるとは、なんとも有り難い話で御座います。

現代の「愚痴をこぼす」という意味にさすらった事も頷ける
「愚痴」という言葉は、仏教の意味としては「愚かさ、愚かであること」で、「愚痴をこぼす」という使われ方とは違った趣が御座います。英語では、その辺りをきっちりと分けて学ぶ事が出来ました。
現在使われている「愚痴をこぼす」という表現は、意味や使われ方がさすらった結果でありましょう。
ただ、私は「愚痴をこぼす」のは、根本に仏教の意味としての「愚痴」があるからであると頂いております。
言葉の意味や例文なり用法はさすらいはしましたが、それ程遠くまでさすらった言葉では無い、という見識を持っておるのです。
愚痴をこぼすと言う場合、その愚痴の中身は、大体が人の悪口だったり、非生産的で言っても仕方が無いことであります。
「ほんと、あの上司はいつもいつも云々かんぬん」「あの部下は全く使えないし、なっていない。そもそもね・・・」と、そんな感じです。
では、その愚痴をこぼしている本人は、人の事をあーだこーだと言える程に、調っているのでしょうか。
グチグチネチネチと愚痴をこぼす姿からは、三業(身・口・意)が調っているとはとても思えません。
そもそもとして、愚痴をこぼしている時点で、口業が調えられていないことの証しと言えましょう。
そして、その事に気がついていれば、口から悪口なり愚痴が飛び出しそうになったら、「あ、今愚痴っぽくなりそうだった、気をつけないと。」と、気がつくはずです。
それに気づかぬというのは、己がみえていない、まさに「無明(むみょう)」である、つまり「愚かであること=愚痴」であるのです。
そう思うと、愚痴をこぼす人は愚痴が表装している状態であると考えると、一概に的外れな言葉の使い方と意味のさすらい方ではないと、私は味おうております。

娑婆世界に生きていれば、確かに愚痴を言いたくなるときはある
現代的な意味としての「愚痴」を考えて見ると、グチグチと愚痴を言う姿は、みっともないとも捉えられますし、度が過ぎると周囲から「うざい奴」というレッテルも貼られることで御座いましょう。「飲み会に行くと、決まってあの人はいつも愚痴ばっかり」と、揶揄される使われ方をするのも、現代社会においてはありがちなものです。
しかし、そうは言っても「忍土(にんど)」であるこの娑婆世界は、時々は愚痴をこぼしていないと、とても堪え忍びきれない、という声も、また聞こえてきそうです。
私も、確かにそういう場合は御座いますし、どんなに気をつけていても、自覚してはいても「そうはいっても」と思いたくなるときだってあります。
それゆえに、法然上人や親鸞聖人は、そのような愚痴の煩悩はどうしても持っているのが人間で、逃れられないと見抜かれ、自覚的に生きられたのではないか、という頂き方をするわけですが。
娑婆世界に生きていれば、どうしたって環境や場面によっては、愚痴を言いたくなるときがある。
このことは、まずは一旦、仏教的に「諦める」事、明らかにしておくことが大切です。
そして、その上で、日暮らしの何処かで、例えば「土曜日のこの時この場所だけでは、愚痴を言いまくることを許す」というように設定する、というのも、「愚痴」という煩悩と付き合い、現代的な愚痴とも上手に付き合う一つの方法ではないかと存じます。
もしも、共通する考えを持っていたり、共感性の強い結びつきがある友人がいらっしゃれば、その場を共有して「愚痴っぱなしの時空間」を共有するのも、一つの方法です。
注意したい事は、それで言い合いになったり喧嘩にならないためのルール・決まり事を設定しておく事です。
その上で、愚痴という煩悩が燃え尽きるまで燃やしてしまうのです。
端から見れば、みっともない集団になりかねませんから、交代制で誰かの自宅に集合し、「宅飲み」と呼ばれるような集まりにして、サクッとやってしまう、これくらいの塩梅が宜しいかと存じます。
出来れば、愚痴を言い合わなくて済む方法や在り方を模索し、それを実践出来るように修行するのが、仏道を歩む、あるいは仏教的な在り方ではあるのですがね。
娑婆世界を生きる上での在家の処世術として、こういう俗世的な方法もあるにはある、と言う事を紹介させて頂きます。
愚痴の意味を改めて学び、己に備わっていると自覚することが大切である
今回は、「愚痴」という言葉の意味を、仏教用語と英語という視点から、今一度学びなおす機会とさせて頂きました。このように、偉そうにいうておりますが、私も愚痴を備えている、煩悩燃えさかる煩悩具足の凡夫の身に御座います。
ゆえに、私への戒めとして、愚痴の意味を忘れず自覚するためでも御座います。
現代的な意味では、「非生産的な事柄をごちゃごちゃとのたまう」という「愚痴をこぼす」という使われ方を致します。
しかし、「愚痴をこぼす」その大元には、仏教が説く三毒の愚痴があるのだ、と、その都度気づいて、自己を調える一助にしていきたいもので御座います。
合掌