有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
シンプルライフなミニマリスト生活というのは、物質的な側面を捉えると、物を持たない暮らしが垣間見られます。
物を持たない暮らしをしていると、掃除はしやすいし、物が乱雑になって部屋が「汚部屋」になりにくくなるしと、メリットが色々とみえてきます。
デメリットとしては、物が無い事による不便さを感じる事もある、と言ったところでしょうか。
ただ、それも物に極力頼らずに、体感覚を養う修行の一環という味わい方をすれば、デメリットがメリットになる、そのように私は頂いております。
シンプルライフや持たない暮らしは、メリットがどうのこうのと言う「損得勘定」ではかるものではないとは思うのですがね。
なんでも損得勘定で見てしまう「人間の物差しという眼」で見た場合をお伝えした方がわかりやすいであろうと、あえてそのように申し上げておきます。
持たない暮らしを実践するとシンプルライフに直結する
今回の表題(記事タイトル)は、:シンプルライフは持たない暮らし
としております。
シンプルライフもミニマリストも、物質的な側面を見ると、「持たない暮らし、物を買わない暮らし」に直結していると私は頂いております。
物を持たない暮らしというのは、物質的に部屋や家の中がごちゃごちゃとしなくなりますから、少なくとも部屋の見た目がシンプルになります。
人が暮らす部屋に、物がごちゃごちゃと溢れかえっていたり、机の上にも床にも衣類や雑誌が散りばめられている暮らしって、果たしてシンプルライフと言えるでしょうか。
床に物が散乱しているくらいに物を持っている部屋で暮らすと、足の踏み場を探さないといけませんし、いちいち物をどかさないといけなくなります。
その時点で、もうシンプルライフからはほど遠い事は明らかでしょう。
だって、足の踏み場を探すために、いちいち思考を巡らせないといかんのですから。
物を持たない暮らしをすれば、床に物が散乱しなくなり、机の上もすっきりするから、それらの手間が省けてシンプルライフに繋がります。
物を持たない暮らしが、シンプルライフやミニマリストの生活に直結するというのは、こういう状況を想像して頂ければおわかり頂けると存じます。
持たない暮らしによるシンプルライフの実例:服
持たない暮らしによって、シンプルライフが実現されるという実例として、服を題材としてお伝え致します。私の例で恐縮ですが、私は服を全然持っておりません。
私が着用する衣類は、夏用ハーフパンツが2着、冬服は厚手のお出かけ用ズボンが2着、内外兼用の作務衣が2着あります。
作務衣は春夏秋冬着用出来るものです。
その他は、冠婚葬祭用のスーツが2着、ロードワークなどの運動用ハーフパンツ1着と運動用長ズボンジャージ1着、これだけです。
後は、時々お下がりで頂く事が何度かありますが、一切着用しない場合は返却もしくは「見立て」によって、別の形にしたり譲らせて頂いております。
服はこれくらいしか持っておりませんから、出かけるときも全くと言って良い程、同じ格好です。
「あ、作務衣の人だ」と言われんばかりに。
このような服の着方との来し方をしているから、周囲からは「ワンパターンだ」とか「つまらない」と言われる事もしばしばありました。
私は、「ああ、また言われているなあ。」と認識はしておりましたが、さして気に障る事もなく、今もこの状態を維持しております。
ちなみに、私の作務衣が気に入ったのか、一人私と同じような作務衣姿が定着した友人がいます。
このような衣類事情ゆえに、私は外出するときも、衣服を選ぶことで迷うことが一切ありません。
このことについて、改めて「ああ、確かに」と思うエピソードを、川村妙慶さんの著書「持たない暮らしのすすめ」で味わわせて頂きました。
川村妙慶さんの「持たない暮らしのすすめ」は、まさに今回の表題と、このお堂(ブログ)で話してきたことにどんぴしゃりの題名ですね。
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服を持ちすぎて服に時間を取られる上に「もう着るものがない」という
川村妙慶さんは、真宗大谷派の僧侶で、アナウンサーの仕事もされている方です。KBS京都のラジオ番組もお持ちの方で、本も「持たない暮らしのすすめ」以外に幾つも出されていますよ。
東本願寺文庫で、私も何度か川村妙慶さんの本を読ませて頂きました。
釈徹宗さんとの対談があれば、聴聞させて頂きたいなあ、と思うております。
川村妙慶さんが出された「持たない暮らしのすすめ」に、服についてのエピソードや、そこから学ぶ「持たない暮らし」を教えて頂きました。
服を沢山持っていると、「今日は何を着ようかな?」と、迷いながら服を選ぶ楽しみがあるそうです。
私は、このような楽しみの感性を育んでこなかったので分かりかねますが、そのような楽しみ方もあるそうですよ。
ただ、それが行き過ぎると、出かけるときに着る服が決まらなかったり、そのあげくに「もう着る服がない」と言い出す人もいる、とのことです。
ビュッフェスタイルのレストランに行って、目の前に食べるものが沢山並んでいるのに「食べるものがない」と言っているようなものです。
これは、自分都合で物と接するあまり、服をそのような色眼鏡で見るあまり、服というものに振り回されている状態です。
これでは、全くもってシンプルライフとは言いがたいと私は思うのですが、あなたはどう思われるでしょう。
服を持つ事自体、悪い事ではありませんし、収集したいという欲求がある事は否定しませんし、それはそれで楽しむと良いと思います。
ただ、服を持ちすぎていて、服に執着している状態では、服を着ているのではなく「服に着られている」どころか、服に大切な時間まで支配されている状態です。
これは、以前お伝え致しました禅語、
:汝は十二時に使われ、 老僧は十二時を使い得たり
を思い出して欲しい話です。
参照:「シンプルライフなミニマリストの持ち物|服」
着る服を選ぶのに時間を取られて「服が悪いんだ!」という人の在り方は、果たして時間を有効活用していると言えるでしょうか?
その辺りを考えて見ると、自ずと「時間に使われているか、時間を有効活用しているか」がみえてきます。
服は、全く持たないのも現代社会を生きる上では実現が難しいのが現状です。
しかし、服を持ちすぎたり買いすぎる行為や在り方は、シンプルライフを妨げるし、時間も取られますし、お金もかかるばかりです。
服は、とりあえず最低限に絞り込んで、更にどうしても必要な場合に1着か2着だけ増やして、どこかで歯止めを掛ける。
このような塩梅が、シンプルライフな持たない暮らしを快適に実現する方法ではないかと、私は思うております。

持たない暮らしを実践する事で、シンプルライフが自ずと実現される
持たない暮らしを実践すると、自ずとミニマリストになっていきますし、シンプルライフも実現されていきます。物を持たない暮らしは、そのままシンプルライフが自ずと実現出来るという事は、服の例から観ても把握して頂けるかと存じます。
現在はレンタルサービスも充実しておりますし、物を持たなくても借りるという事で持たない暮らしも出来るようになってきました。
レンタルサービスは、本当に必要な物を吟味するという活用の仕方があります。
シンプルライフを目指す人にとって、持たない暮らしにより物質的なシンプルライフから始められるこれらのサービスは、有り難いですね。
私の友人も、本は出来るだけ近所の図書館を活用するか、近所の図書館に目当ての本が無ければ、いよいよ国会図書館に行くという方法を採っていると教えてくれました。
京都には学研都市に「関西館|国立国会図書館」がありまして、そのような環境のご縁を有り難く活用させて頂くのも、素晴らしい智慧だと私は頂いております。
持たない暮らしによってシンプルライフを実現させていく、そのために持たない暮らしでいられるための知恵を絞るのも、また仏教的・禅的な生き方である、そのような味わいがあると私は思うております。
合掌