有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
2月3日と言えば、毎年「節分(せつぶん)」という事で、豆まきをしたり、恵方巻きをその年の方角を向いて、食べる風習を連想する人も、多いかと存じます。
最近は、上の絵のように、鬼さんも「日本鬼子」辺りに萌え化されておりまして、なかなか豆まきで豆をぶつけるのも、憚られる人もいらっしゃるやもしれない、というのは言い過ぎでしょうか。
かと思えば、「追儺(ついな)」も可愛らしいお嬢さんの形に擬人化されています。
節分とは、豆まきやいわしの頭、恵方巻きをその年の方角を向いて、かじりつくという風習を連想しやすいものですが、そのエトス(風習や行為様式)を辿って行くと、なかなかに興味深いものが御座います。
節分とは何か、由来を紐解きながら、知っているようで知らない風習について、楽しく学ぶ事に致しましょう。
豆まきをしてから、恵方巻きや、いわしを食べた後、ちょっとした豆知識披露になって、楽しめることかと存じます。
尚、今回の「節分とは何か」という表題・テーマは、仏教とはあまり関連がありませんし、関連があるとすれば、鬼の辺りくらいでしょう。
しかし、この節分とは何か、由来や豆知識を学ばせて頂いたのが、禅僧の本だったりしますから、御縁の巡りは不可思議なもので御座います。
節分とは何か、由来を辿って見るとなかなかに興味深い
節分とは何か。子供と一緒に豆まきをしたり、節分の日を過ごす際、そう問われたら、あなたはどのように子供に伝えられるでしょうか。
風習・行事の伝承は大切とは言うものの、改めて問われると、説明しづらいのではありませんかね。
節分とは、本来は2月3日だけのことではなく、春夏秋冬の節目の日を言います。
以前は、立春・立夏・立秋・立冬の前日を「節分」と呼んでおりましたが、現在は2月3日の「立春」だけが、節分の日と言われるようにさすらいました。
これは、どちらかというと神道や祖霊信仰やアニミズムと言いますか、仏教とは違う宗教性を感じるところで御座います。
この「立春だけが節分として残った」事の背景には、実は言葉の問題と言いますか、語感も関係しております。
諸説有りますが、「冬」は「殖ゆ」とも呼ばれて、霊魂が静かに分割して殖えて、この世に生まれ変わるのが春であり、その分け目の行事が「節分」という説が御座います。
この辺り、霊魂の存在を重んじる宗教性を感じますね。
そうして、以前は四季の節分がありましたが、そこから生命の蘇りを意識させる立春だけが風習として残り、現在の節分に到ります。
節分とは、鬼やらい・追儺の風習や行事、豆まきばかりが目立ちますが、実はこういう由来なりいわれがあったのです。

節分とは豆まきだけではないが、やはり豆まきは外せない:豆まきの由来の豆知識
節分とは、由来を辿ると祖霊信仰的な要素であったり、霊魂にまつわる話が御座います。私は在家の仏教者としての自覚があり、霊魂だの幽霊だの、鬼だのを信仰してはおりません。
そもそも、幽霊や鬼というのは、人の業であったり在り方の譬え・方便だという頂き方ですからね。
だからといって、折角家族で楽しむ節分、それはそれとして楽しみたいものですから、水を差すことは申しませんが。
節分の日に、豆まきをして豆を食べて、恵方巻きにかじりついて、いわしの頭をつるして、いわしを食べるのも大いに結構。
それに、節分と言えば豆は外せない、というのも、情緒的に理解出来ますからね。
実はこの「豆まき」から、節分とは何かを知る由来まで辿る事が出来ます。
そもそも節分に豆まきをするのは、鬼を退治したり、追い返すといういわれがあるのは、ご存じでしょうか。
鬼を何とか追い返すこのエトス(行為様式・風習)を、「鬼やらい」と言います。
「鬼やらい」とは、「追儺(ついな)」の事であり、追儺は宮中の年中行事です。
古くは遣唐使によってもたらされた行為様式ですが、それが8世紀初頭の頃、大晦日に、鬼に扮した人を追いかける邪気払いの儀式として、行われておりました。
鬼は、疫病や自然の猛威に見立てられており、その厄除け的な意味合いが御座います。
宮中での儀式ですから、神道の行事なのでありましょう。
済みません、私は神道については詳しい事を存じませんで、下手なことが言えずに、曖昧な表現しか出来ません事、申し訳御座いません。
その上で、節分については、仏教と言うよりは、神道的な情緒なり感覚があるのは、恐らくその辺りにあるのでしょう。
天皇陛下は、神主・宮司の長という事で、宮中の行事に神道の雰囲気を感じるのは、この辺りに由来していそうです。
2月3日の節分の日に、豆まきをするという風習それ自体は、このような「追儺・鬼やらい」に由来があります。
「何で節分ってあるの?」と、お子さんや友人等に聞かれたら、ばしっとこのように答えられると、いわゆる「ハナタカさん」になれるかもしれません。
と、申し上げておきながら、ハナタカになって自慢気・得意気に話すのは、「知者の振るまい」であったり、「勝他(しょうた)」の煩悩によるものです。
この辺り、仏教者として、法然上人の御教えを日々歩ませて頂いている身としては、戒めるところであります。
仏教の話をあまりしない回ですから、ここくらいは仏教の話を盛り込ませて頂きましょう。
ちなみに、冒頭でお伝えした「追儺」ですが、「役追儺(えんのついな)」もしくは「日本鬼子、追儺」で検索すると、綺麗かつ可愛らしい「追儺」のイラストを見ることが出来ます。
何を持って、可愛いだとか綺麗というかは、おいておきます。
節分とは豆まきだけではないが、やはり豆まきは外せない:豆まきの由来の豆知識
節分とは何か、その由来を申し上げてきましたから、「豆まきには炒り豆を用いる事の由来」についても、お伝えしておきましょう。節分とは豆まきである、という連想をしやすいところですが、この豆まきの由来も、ご存じでしょうか。
これまた、禅僧の本で学んだ事ではありますが、なかなかに興味深い由来と意味が御座います。
豆まきをする際、すでに入り豆になったものをスーパーマーケットで購入して、豆まきをするという人が、大半かと存じます。
エンドウ豆を大量に購入して、茹でてから豆まきに使う人はいらっしゃらない可能性の方が、高いのではありませんかね。
もしも「節分にはエンドウ豆を使う」という地域が御座いましたら、ご一報頂けましたら嬉しゅう御座います。
炒り豆による豆まきの話に戻りますと。
一体、なぜ生の豆ではなく、炒り豆であるのか。
それは、これまた言霊信仰が根強く御座います日本の風土と言いますか、言葉に関連しております。
「まめ」と言うと、私達は「豆(まめ)」を連想しますが、「魔目(まめ)」とも書きます。
そして、「炒る(いる)」を「射る(いる)」として、言葉を連携させると、「魔目を射る」となります。
魔の象徴としている鬼の目を「魔目」とし、それを「射る」わけですね。
鬼にとってはたまったもんじゃない、目つぶしです。
これが、節分の豆まきで、炒り豆が使われる由来の一説です。
ここで私、仏教の慈悲を学んでいる者としては、一言申し上げておきたい。
この話を聞いたお子さんが、「鬼さん可哀想・・・」と、しょんぼりした場合、その情緒や感じ方を、大切に育んで頂きたいと、思うところで御座います。
だって、鬼とは言え、炒った豆で目つぶし攻撃するんですよ、たまったもんじゃありませんがな。
その情景をリアルに思い描き、「痛いだろうなあ・・・」と、鬼を慮る、心配する情緒に、私は優しさや慈悲の心を感じます。
そこは大切にしたい。
また、炒り豆を使う風習のヒントとして、佐渡島に伝わる民話も御座います。
詳しく話し出すと長くなるから、結論部分だけ申し上げますと。
民話によると、村に来ては暴れる鬼に、村人達が勝負を仕掛け、その勝負に負けた鬼達が、捨て台詞を吐きます。
その捨て台詞が「豆の芽吹く頃にまた来るぞ」です。
豆が芽吹いたら来るのなら、豆が芽吹かないようにすればよい、と言う事で、豆を炒って炒り豆にした、という話が御座います。
「魔目を射る」との語呂と言いますか、相性も良い、節分に炒り豆を使うようになった由来で御座います。
これらはあくまで説ではありますけれども、なかなかに興味深い、宗教性や情緒を感じる、民俗学的な学びもある、そのように思います。
子供達に「なんで節分って豆まきするの?」「節分とは何なの?」と聞かれたら、今回の話をばしっと、あなたの言葉に代えて、わかりやすく伝えてあげては如何でしょうか。

節分とは何か、その由来と共に作法も学ぶと尚よし
今回は、禅僧から学んだ「節分とは何か」という表題にて、その由来について色々とお伝えして参りました。どうでしょう、子供の頃から親しんでこられた方でしたら、改めて節分とは何かを考え、その由来を辿って見ると、以外と知らなかった事や、「へえ」と、感心する事もあったかと存じます。
私としては、この話を神道の関係者であったり、神主さんや宮司さんからではなく、禅の僧侶から学んだというところが、また面白い(興味深いという意味で)と感じるところで御座います。
節分とは、実はこの他にも、豆についての作法であったり、恵方巻きの豆知識も御座います。
それについて話始めたら、消化不良になるくらいに長くなりそうですから、ここいらで一旦お茶でも飲んで頂き、こちらの記事を学んで頂く事と致しましょう。
参照:「節分の豆知識|豆まきの作法と恵方巻きの歴史をご存じですか」
と、言うわけで、最後くらいは仏教の話に持っていきます。
一旦お茶でも、ということで。
喫茶去(きっさこ)。
合掌