有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
夏休みの宿題と言えば、自由研究なるものが御座いますね。
自由研究は、最近では東京ビッグサイトなどで「自由研究大作戦」といって、小学生や中学生の自由研究を手伝ってくれる企業も御座います。
以前お話し致しました、夏休みの宿題代行サービスも、自由研究を手伝ってくれるサービスも展開しているそうな。
私、こういう風景を観て「自由ってなんだろうなあ。自由研究の定義ってなんぞや。」なんて事をごちゃごちゃと考える次第であります。
自由研究のネタやテーマを考える前に「自由」について考えてみる
自由研究では、まず何を研究するか、ネタやテーマを考えるところから始まります。大抵が、朝顔の観察日記などの理化学的なもの、大抵は一つの対象物を時系列的に並べた記録をネタなりテーマにして勧める人が多いような気がします。
福山雅治さん主演の映画「真夏の方程式」で、小学生の子供とやった夏休みの自由研究も、理化学的な実験がネタでありテーマでしたね。
観た人なら分かると思いますが、海でペットボトルロケットを噴射する実験を繰り返していたシーンのことです。
また、その他には工作、主に「小学生・中学生用の夏休み自由研究キット」なるものを購入してこしらえるものです。
私は、そういうパッケージ物は一切使わず、自由研究は割り箸でマジックハンドを自作したりと、周囲から笑われるような事ばっかりやっていた記憶が御座います。
私の子供時代を振り返っても、現在においてもそうですが、自由研究のネタやテーマって、結構似通っていると言いますか、大抵は理科の実験か工作に落ち着く傾向があるように思えます。
そこで私はいつも「自由研究の自由から、大人も一緒に考える機会として捉えてはどうだろうか」というような事を、考えるに至るわけです。

「自由(じゆう)」とは「自らに由る」という仏教の言葉
「自由研究」の「自由(じゆう)」とは、そもそもなんでしょう。今回の表題について、URL、英語のタイトルを観て頂ければ、その鱗片がみえるかと思います。
私は、「自由」を英語では「selfish」と書きました。
自由と言えば、大抵が「freedom」「liberty」辺りを連想する人が多いのでは無いでしょうか。
少し話を逸らしますが、自己啓発セミナー講師の「私は、自由だー」とかいってダンスしている憐れな連中は、全然自由ではなく、むしろ不自由なものなのですがね。
それに気づいていないのが、まあ、なんとも憐れなり。
また、詐欺師がよく「経済的自由、人間関係の自由を手に入れるために稼ぎましょう、そのために私がお手伝いします、はい、50万円払って下さい」と言う時にも、「自由」が使われております。
仏教の言葉としては、ああいう自己啓発系ビジネスの講師や詐欺師なコンサルタントが宣う「自由」とは、全く別物です。
だいたい「人間関係の自由」とか言っておきながら、「人間関係」という概念に縛られて全然自由ではありませんし。
仏教語・仏教用語や禅語としての「自由」は、
:自らに由る(みずからによる)
という意味と解釈がなされます。
つまり、己に、自己に由るということですから、英訳すると「selfish」というのが、私としてはしっくりくるのです。
「自由=freedom」でしたら、なんだか自分勝手、わがままであると感じる感性が私には御座いまして。
ちなみに、仏教学者で大谷大学の先生もされた鈴木大拙さんは「自由」を「self-reliance」とされています。
「reliance」は「依存」という意味もありますが、「頼みとする人、よりどころ」という意味も御座います。
よりどころとする、ということですから、「自由=self-reliance」は、まさに「自らをよりどころとする」ということですね。
自由研究のネタやテーマを決める際、折角なら「自由」について、考えてからネタやテーマを決めることに着手してはどうだろうか、私はそのように提案させて頂く次第であります。
自らに由り研究するから「自由研究」
自由研究の話に戻りますと、確かに「自ら、朝顔を研究することにする」とか「工作することによって自分の心の動きを研究する」というのであれば、仏教的な意味における自由研究と言えるでしょう。流石に、小学生や中学生にそこまで要求するのは酷だと思う事も御座いますが。
ただ、「自由研究キットは楽そうだから。」「面倒だから皆がやっている理科の実験や研究にしておこう」というのは、果たして自由研究と言えるかどうか、ということです。
そのようなネタなりテーマの選定は、自分に由るものというよりは、外部・他の影響による色が濃いように、私には思えるのです。
そりゃ、「それを私が決めたから、私に由る」という方便を言われれば、そうなのですが、そうはいっても、です。
ましてや、夏休みの宿題代行サービスに、自由研究を丸投げするに至っては、最早言語道断、仏教が説く「自由」が御座いません。
参照:「夏休みの宿題代行サービスを仏教から観る」
業者に丸投げすれば、そりゃ現代的な意味での自由時間は手に入るでしょうけれども、「冷暖自知(れいだんじち)」という禅語と共に考えれば、全くもって「自らに由る」ではありませんからね。
そもそも、「研究」ではありませんし、そんなものは。
「研究」は、読んで字の如く、「研ぎ澄まし、究めること」を表す言葉であり、
:自らに由り研ぎ澄ませ究めること
が、自由研究の意味です。
自己観察、自分の心の動きを観察したり、瞑想をしたりするのも、私は立派な「自由研究」だと思うております。
他の人がやっているから、とか、夏休みの宿題代行サービスに自由研究を放り投げるならば、自己観察・自身を研究してはどうだろうか、と言う事さえ考える私であります。

自由研究のネタやテーマに、家や地域の歴史などあっても良いと思う
ここで、「じゃあ、自由研究のネタやテーマを、具体的にあげてみなよ」と思われる方もいらっしゃるでしょう。申し上げても良いのですが、それを言ってしまうと、私の意見に流されて、それこそ「自らに由る」から離れてしまいます。
折角「自由研究」を、仏教的に捉えたのに、それでは本末転倒です。
ただ、入り口やヒントとして、以下のことを上げておきますから、あくまで自由研究のネタやヒントとして、また、理化学的な事や工作に縛られている事からの解放として、役立てて頂ければ幸いです。
例えば、「自らに由る研究」というのであれば、自分の家のルーツ、歴史を辿るのも、自由研究のテーマなりネタになり得ます。
それと類似して、地域社会、あなたが済んでいる地域の歴史や伝説・伝統を研究するというのも、自由研究のネタやテーマとしてあり得るのではないでしょうか。
私は仏教者ゆえに、仏教の話を絡めてもう少し深掘りしますと、家の宗派や宗教を研究するのも、一つの自由研究の形です。
私ならば浄土宗ですから、浄土宗について研究したり、そこから更に絞って法然上人を研究するというのも、文化的な自由研究ではないかと存じます。
何も、朝顔を毎日観察するだけ、組み立てキットで工作するだけが自由研究ではありません。
民俗学的、社会的な事柄を自らに由り研ぎ澄ませて観察したり深掘りすることも、立派な自由研究です。
あくまで、私は仏教徒としての目から自由研究について話をしましたが、これらを入り口に、あなたがあなたに由る研究をされるのが、よろしいかと思います。
そういった家の歴史や地域社会の伝統を研究してレポートにまとめるのは、趣があると私には感じられるのですが、そのような自由研究も如何でしょうか。
合掌