自信がない事は悪い事ではない

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは、常に自信満々で生きている人でしょうか、それとも、自信がない、自信が持てないという悩みをお持ちの方でしょうか。
092090 私はと申しますと、恐らく自信がない側に分類されることでありましょう。

優柔不断ですし、「本当に是で大丈夫かな?」と、いつも判断や決断に迷いながら日暮らしをしていることに御座います。



そもそもとして私は「自信がないとは言うけれど、自信とは何ぞや」という問いに到達しておるために、今では自信がないのかあるのか、その根本的な問いを発しております。

現代社会において、自信がないという悩みの人もいらっしゃるでしょうし、「自信を持つ事が大切」と言われ続けて、洗脳されている人も多いかと存じます。



今回は、自信がないとは何ぞや、そもそも自信とはなんぞや、という仏教的な問いかけをしながら、探ってみようと思います。

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自信がないとは言うけれど、そもそも「自信」と「自信がない」を定義できているか

現代社会では、「自信がない」という事は、なんだか悪と言いますか、好ましくない在り方であったり、心の状態であるという風潮を感じます。

「自信がないのはよくない、自信を持ちなさい」と、お説教食らった人もいらっしゃるやもしれません。

励ますつもりで「自分に自信を持って」と、言われた人もいらっしゃるかと存じます。



軽々しく「自信を持て」「自信を持つ事が大切」と言われる世の中ですが、では、そもそも「自信」とは何でしょう、「自信がない」とはどういう事でありましょうか。

こうして「そもそも何ぞや」を考えていくのも、哲学的であり、また仏教的なアプローチであります。



「自信」とは、国語辞典的な解答をするならば「自分に自信を持つこと、自己を信頼する気質」です。

当たり前だろう、と言われるかもしれませんが、当たり前を問うのも仏教的な深め方です。



では、そこから「自信がない」という事についてですが、自信がない人は、どういう状態であるか。



自信がない、という自覚のある人は、恐らくは、あらゆる「やることなすこと」、つまり行動するときに躊躇する、という状態ではないかとお見受け致します。

現代では、「行動しましょう、行動が大切」という事が、自己啓発系ビジネスに限らず、社会のあらゆる現場で言われています。

そこから、「行動を躊躇する自信がない事は悪だ」と、勝手に連想されている事もあるかと存じます。

こう考えていくと導き出されるのが、「行動を起こす自信がない」という心理状況です。



では、何故「行動を起こす自信がない」かと申しますと、行動したことによって生じる事象を、背負う事を躊躇う、背負えないという自覚なり気持ちがあるからではないかと思われます。

こう考えていくと「自信がない」という事柄は、
:行動したことに対する事象や発生した御縁を背負う責任能力が自分にあると信じられない
と定義することが出来るのではないかと、私は考えております。



要するに、「行動して起こる事に対する責任能力が、自分にあるとは思えない」という言えましょう。

自分が関わる事、決断したことによって生じた事象なり御縁を、果たして自分が背負えるか、責任を取れるかどうか、という怖さを感じ易い人が「自分に自信がない」という自覚となっているのであろうというのが、私が考えるところに御座います。
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自信を取り出せますか?

ここで少し、「自信」の実体についてのお話しをば。

これは、「不安」についても言える事です。



あなたは、「達磨安心(だるまあんじん)」という禅語をご存じでしょうか。

このお堂(ブログ)でも、何度か例として取り上げた禅語です。

参照:「やる気を出す方法と仏教・禅の智慧」

参照2:「モチベーションとは頼ると危険な刺激である」



次の会話は、禅宗の開祖であられる達磨大師に、禅宗の二祖であられる慧可さん(正宗普覚大師)との不安にまつわる会話です。

「師匠、私は未だに不安です。どうか安心させて頂けませんか。」

「では、その不安とやらをここへ持っておいでなさい。」

慧可さんは不安を探しますが、どうしても見つかりません。

「師匠、必至で不安の心を探しましたが、見つかりませんでした。」

「ほら、君を安心させてる事が出来ましたよ。」

かなり柔らかく現代語訳すると、このような感じです。



頂き方や解釈は、人によりけりで、なかなか頓智の効いた禅らしい会話であると感じる事に御座います。



今回の話と照らし合わせてみると、「不安」には実体がありませんし、取り出せません。

では「自信」は、どうでしょう。

「自信」って、取り出して差し出す事や、実体化する事って出来ますでしょうか。

概念としての自信は理解出来るかもしれませんが、実体化して「これが自信だ」とは、なかなか出来んもんです。



そりゃ、前衛美術などの分野でしたら、抽象的な事柄や、実体化できないことを、あえて実体化して作品とする、というのはありましょうがね。

でも、だったら「自信」を、美術でも書でも、その他の芸能でも、学問でもよいでしょう、哲学者のように言語化するなどして、表現してみればよいのです。

それが完成すれば「自信がない」から「自信を持つ」を、便宜上は物質的に出来た事になるでしょうし、出来なければ「自信がない」と言う事です。



では、自信を美術作品などにして物質化してみたからといって、あなたの「自信がない」は、完全に解決出来ることでありましょうか。

そして、何とかそれを作品として形にしても、それをどんぴしゃり、ずばり「自信だ」と、どうやって証明するのでしょう。

観る人によっては、「何が自信だよ、この作品を観ていたら、不安全開になるよ・・・」と、感じられるかも知れません。



自信とは、「達磨安心」から観ると、概念としては確かにありましょうが、不安のように実体がなく、結局は自分が勝手に創り出した独りよがりな価値観や先入観で、右往左往させられる要素でもあるわけです。



「自信を自己から取り出すことが出来るような事であるか」

その事を問うてみる事は、「自信がない」という事を考えて深め、振り回されぬ智慧に出会うきっかけとなりましょう。
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自信がない人の自覚は、実はきちんと自己を省みている証拠

自信がない事や自信がない人というのは、現代社会においては、あまり宜しくない印象を持たれたり、場合によっては悪だとか、悪いイメージを持たれる事も御座います。



確かに、全く自信がない、自信がなさ過ぎるというのも、バランスとしては考えものではありましょう。

「全く自信がない、あるいは自信がなさ過ぎる」というのは、「何事においても、自分が責任を取れると信じられない」と言う意味も含みます。

このことが行き過ぎますと、何をしても「実は自分は詐欺をしているのではないか」という、「詐欺師症候群」と呼ばれる心理状態に陥りかねません。

参照:「詐欺師症候群の特徴と謙虚な人」



また、そこからうつ病になってしまったり、自信の実存・存在にもかかわる病を患うに到る事も御座います。

かつて、うつ病であった私の場合は、「うつ病になり、あまりにも自信がない状態に陥る」という事を経験致しました。

世間で言うところの「自分が信じられない」という事も含んだ状態です。

自信がないからうつ病になった、という事例もありましょうが、私の場合はその逆だったようです。

このように、病的な状態になるまでに到るのは、私の経験からも、確かに気をつけたいものだと思います。

もっとも、内側からふつふつと沸いて出たり、突然爆発する事もありますから、気をつけようがないというのも、経験しておりますから、なかなかに難儀なことはあります。



ただ、私は「自分は自信がないなあ。」と自覚をしている人は、少なくとも自己分析を幾許かしている、という捉え方も出来ます。

そしてこれは、バランス良く「自信はないけれども、最低限の自信はきちんと備えてある」という状態にまで持って行ける希望でもあるのです。



だって、「自分に自信がない」と自覚されているのは、少なくとも自己を省みる、自己分析なり自己解析をされたが故の自覚でありましょう。

「自己を覚る、自己の感じていることを覚える:自己感覚」は、きちんと己を顧みたからこそ見えるもので御座います。

少なくとも、やれ「根拠のない自信が大切だ」と吹聴している人よりも、己を顧みる、「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」に触れるくらいの事はされていると、私には思えるのです。



このことに気づかせて頂けたのは、お坊さんが衆生の悩みに答えて下さる掲示板サイト「hasunoha(はすのは)」に御座います「自信がない」関連の投稿です。



自分に自信がない、と自覚をされて質問されている方の質問状を幾つも読みましたが、それらを拝読した限りでは、少なくとも皆さん、きちんと「自分に自信がない」と自覚されるまでの自己解析はなさっていることが読み取れました。

根拠のない自信に毒されて、自信過剰な人ならば、こうはならんでしょう。



そもそもとして、そのような悩みも含めて、自己の悩みに気づける人は、自己を省みる力をお持ちの方である、ということです。

ゆえに、なんだかパラドックス・逆説に陥りそうですが、
「自分に自信がない、と自覚している人は、自己を省みて自覚出来る事に自信を持つ」
という一歩目がある、申し上げたいところであります。



自己を顧みる事は、自己に気づく事に通じます。

無理に自分に自信を持つ方法を実践せずとも、その事に気づけただけでも、自信を持っても宜しいのではなかろうかと存じます。



どうでしょう、少しは自分に自信を持って頂けましたかな。
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自信がないという自覚がある事は悪じゃない

「自分に自信がない」「自信がない事に悩んでいる」と、思われている方は、結構いらっしゃるのではないかと存じます。

そうでなければ、色々なお悩み掲示板で、「自分に自信が持てません」「自信がない自分に悩んでいます」とったお悩み相談は、持ちかけられないはずです。



自己啓発セミナーや自己啓発本、ビジネス書の類いに、「自分に自信を持つ方法」という表題・タイトルの本が多い事からも、そのような悩みが沢山あり、需要がある事が窺えます。

自己啓発セミナーが盛況なのは、根拠のない自信を持つことが善い事で、自信がない事が悪い事、というイメージや風潮が出来上がっているからではないかと存じます。

「自分に自信がない事に困っております、なんとか自信を持つ方法はありませんか?」というお悩み相談が、その表象の一つだと、頂く次第で御座います。



私は、「自分に自信がない」という概念そのものに、善悪はないと考えております。



そもそもとして「自信」という概念それ自体が、良いか悪いかは御座いません。

「自信がない事が悪い」「自信を持つ事がよいことだ」というのは、個々の勝手な判断なり、分別に過ぎません。

また、場面場面で自信がない事が悪い方向に作用したりする、という程度のものでありましょう。

自信満々で事を推し進めたがために、最悪の事態を招いた、なんてことも、娑婆世界ではあり得る話ですから、決して自信を持つ事が正しいとは限りません。



「自信を持つこと、自信がないこと、どちらも環境や場面、また人によって良くも悪くも作用する」

私はこのような頂き方をしております。



そして、繰り返しになるますが、「自分に自信がない」とお悩みの方は、少なくとも、その事を自覚されている時点で、自己を観察されている事であります。

自分に自信がないという自覚は、自己を観察されて到達した自覚であります。



ゆえに、「自分には自信がない」という自覚を持たれていた事自体は、悪い事ではありません。

大切な事は、そこからどうするか、どう生きるか、です。



「自分に自信がない」という事を自覚された観察眼に自信を持つことから始めるのも、一つの「自信を持つ方法」ではなかろうか、そのような事を思います今日この頃に御座います。



合掌

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