「させていただく」と「おかげさま」の功徳

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

このお堂(ブログ)では、たびたび「させていただく」や「おかげさま」について、お伝えしております。
135181 「させていただく」という言い回しは、私は近江商人を連想する表現だと味わわせて頂いております。

東西の本願寺で御法話を聴聞している時も、お坊さんが「させていただきます」「~味わわせて頂いております」という表現をされています。

私もこのお堂(ブログ)にて「味わいを頂いております」と申し上げる事が多々御座いますが、それはその影響です。

そして、この「させていただく」という表現には、仏教的な温かみを感じる「おかげさま・お陰様」という言葉や概念も連想する次第であります。

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「させていただく」と「おかげさま」に共通すること

私は、常日頃から「させていただく」と「おかげさま」という言葉や、考え方をするように致しております。

例えば、朝夕の勤行時も、御経を称えさせて頂いているのではなく、「御経さんを称えさせていただく」という趣であります。

そして、その御経を上げさせて頂いているのは、仏法と出会わせて頂いた御縁のお陰様であり、法然上人・浄土宗の御教えに出会わせて頂いた御縁の「おかげさま」である、という味わいを頂いております。



このことは「歎異抄」をご存じの方や、真宗・浄土真宗の教義に詳しい人なら、詳しいのではないかと存じ上げます。

「歎異抄・後序」には、法然上人が「私の信心も、善信房(親鸞聖人のこと)の信心も、如来より賜りし信心です」と、おっしゃっていたという記述が御座います。

このことから、法然上人も信心とは、自身で起こした心ではなく、如来から賜った信心である、という頂き方をされていると、私は解釈しております。

ゆえに、毎日の勤行をさせていただくという御縁は、如来より賜りし信心のおかげさまの御縁による、と、私は味わいを頂いております。



これらの事から私は、「させていただく」と「おかげさま」には、大いなるお導きなりお力と言った、人智では計り知れない御縁の味わいがある、そのような共通点を見出しております。



また、「させていただく」と「おかげさま」には「他者の恩恵、他者性」が御座います。

何かをさせていただくのも、相手・他者が存在しての事ですし、「おかげさま」も、他者との御縁によるものです。

そして、「させていただく」も「おかげさま」も、人が間柄を持ってして「人間(じんかん)」となるという事に通じております。



この二つの言葉には、他者の存在を意識させてくれる、自分一人だけで生きているのでは無いと言う事を教えてくれる、有り難く尊い言葉と概念である、そのように私は味わっております。
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「させていただく」と「おかげさま」の功徳1:謙虚さを育む素養である

私は、この「させていただく」と「おかげさま」に共通する「他者の存在」から、私はこの二つの言葉には共通する功徳があると考えております。

私は「無功徳」という禅語を大切にしてはおりますが、それでもやっぱり功徳を求めてしまう煩悩具足の凡夫であります。

そして、現代社会では現世利益や功徳があった方が、やはりわかりやすいですし、学びたくなる要素でもありましょう。



そこでここでは、あえて「させていただく」と「おかげさま」に、私が個人的に感じており、味わっている功徳を二つにしぼってお伝え致します。



「させていただく」と「おかげさま」の功徳その1は、
:謙虚さを育む素養となる
という事です。



例えば、何かの仕事を頼むとき、能力が同じ人が二人いた場合、どちらの人にお願いしやすいでしょうか。



一人目は、「俺様がやってやるよ、してやるよ。」
二人目は、「喜んで、させていただきます。」



私なら、二人目の方にお願いしたいところであります。



残念ながら、能力があると思い上がっていたり、傲慢な輩は、大体が一人目のようになってふんぞり返った態度になりがちであるような気が致します。

それよりも、二人目の人の方が、私は謙虚さを感じますし、次もお願いしたくなる在り方です。



残念な事に、現在は特にインターネット関連のビジネス、コンサルタントを自称する詐欺師や自己啓発系ビジネスの我利我利亡者・有財餓鬼共は、金銭を貰っていながら偉そうにふんぞり返っている輩がおります。

お金を貰っておきながら「教えてやっているんだ」というぞんざいで傲慢な態度で、最低限の責任さえ取りはしない始末です。

お客様の「おかげさま」で、生活出来ていると言う事も見えていない、邪見驕慢の典型であります。



「させていただく」と「おかげさま」には、そうならぬための戒めやブレーキ、安全装置となる功徳があります。

お客様が、他者がいて下さるから、その御縁のおかげさまによって、仕事など色々な事をさせていただけるのであります。



謙虚さを育む素養として、この二つの言葉と概念を大切にしたいものです。
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「させていただく」と「おかげさま」の功徳2:個人主義的な時代の安全装置となりうる

「させていただく」と「おかげさま」の功徳の二つ目は、
:個人主義・利己主義的な時代の安全装置
となり得ることであります。

これは、その1とも共通する事柄です。



現代社会では、特に個性だとか個人主義的な働き方が目に付きます。

確かに、SOHOや個人事業主の形体も見受けられますし、会社組織でも一人一人が役割を持って、一人で仕事をする時もあるでしょう。

しかし、私はどのような仕事においても、どのような作業においても、必ず何らかの「御縁」なり、人との関わりが大なり小なりある、そのように考えております。



例えば、一人で黙々と机に向かって、手作業なり何らかの仕事をしていると致しましょう。

確かに、端から見れば一人で仕事をして、一人で完結しているように見えます。



でも、その手作業にて創り上げるものは、材料が必要です。

その材料を作ってくれたり育ててくれている人の御縁や、その材料を運んでくれる人達の御縁の「おかげさま」が、そこにはあることに気がつかれるかと思います。



また、更にその材料の種になる事や、その種を運ぶ人等々。

更に、その手作業で創り上げた物を、卸売業者や小売業に運んでくれる人、陳列してくれる人、販売してくれる人、そして手にとって購入して下さるお客様の御縁も御座います。

それらの御縁の「おかげさま」によって、その手作業が意味あるものになり、生活の糧となり得るのです。



個人プレーに見える仕事でも、数多の御縁の「おかげさま」がある、私はそのように味わいを頂いております。

ゆえに、どのような仕事も、私は「させていただく」という在り方でいよう、そのように考え、大切にしております。



このように考えると、どのような仕事も、数多の御縁の「おかげさま」に支えられており、おいそれと雑に出来ず、「させていただく」という趣になるのではないかと思いますが、如何でしょうか。
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「させていただく」と「おかげさま」から、他者を大切にする精神性を育みたい

現代社会では、特にチームプレーで仕事をしていても、ついつい個人プレーになったり、我を通そうとしてギクシャクすることが御座います。

現代の娑婆世界は、個人主義的な雰囲気と、自己主張を強める傾向にあるような、そんな気配さえあります。

自己主張があまりなく、相手に強く出られたら、一歩も二歩も下がる私のような気弱な輩には、幾許かの生きにくさを感じるものであります。



そういった言い訳からというのもありましょうが、私は「させていただく」と「おかげさま」という在り方は、現代社会こそ大切にして育んでいきたい、そのように思うのです。



確かに、自己主張前回で、ガンガン行こうぜと押しを強めたら、短期的にはそれなりに財も成せましょう。

でも、それは他者を大切にしている行為であるかどうか、今一度考えて欲しいものであります。



流れの速い現代社会では、他者を見ている余裕すら無いやも知れません。

しかし、それだと我利我利と自我・自己主張を推し進めるあまり、最終的に人間関係が破綻したり、最悪の場合は、命に関わる事さえあると、私は思うところも御座います。

それが行き過ぎた故に、世間を騒がせるほどの大きな事件も御座いました。



私は、自己主張が強く利己的にやりやすい現代社会において「おかげさまでさせていただく」というこの在り方は、一つのキーワードであり、安全装置だと考えております。



「おかげさま」も「させていただく」も、他者が介在しております。

そこから、他者を大切にする精神性も育む素養がある、私はそのような味わいと温かみを、この二つの言葉に感じておるのです。



御縁のおかげさまで、あらゆる事をさせていただく、そのことにおって他者意識を大切にして生きる。

そうして、「人間(じんかん)」と成す、そうありたいと私は思うております。



尚、過去にもお伝えしてきました、「させていただく」「おかげさま」という事については、こちらで復習して頂けます。

参照:「「させていただく」は正しいか間違いか」

参照2:「させていただく症候群と正しい敬語についての話」

参照3:「おかげさまの意味を学び大切にしたい」



「させていただく」「おかげさま」という言葉の意味を改めて味わい、そして大切に育んで行く事で、他者意識を大切に保ちたい、そのように考える今日この頃に御座います。



合掌

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