有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
10月と言えば、色々な秋が世間を賑わせる時期であろうかと存じます。
10月の第二月曜日は、現在は体育の日という国民の祝日であり、体育の日にちなんだイベントやサービスが色々とあるようです。
体育の日のイベントというと、スポーツ施設が割引料金になったり無料になったり、参加型のスポーツイベントなど、その辺りでしょうか。
体育の日には、このように何かスポーツイベントに参加するなどして、スポーツを楽しんだり運動をしたりと、何やら活発な印象を持っております。
それはそれでわかるのですが、私としては「そもそも体育の日とは何か、体育とは何か」という事を考える次第で御座います。
このような在り方は仏教的な在り方でありまして、ここは一つ、体育の日を仏教的に紐解いて生き、仏教的な過ごし方を考える事を試みます。
体育の日の由来と、2016年の体育の日はいつであるかをおさらい
体育の日について、恐らく巷の気になるところは、今年の体育の日はいつか、という事でありましょう。参考までに、2016年の体育の日は、新暦10月10日の月曜日です。
2000年から体育の日は、ハッピーマンデー法によって定められておりますから、それ以前に学生だった経験がおありの方でしたら、少々違和感を持っていた時期もあったやもしれません。
体育の日の由来は、1966年に、その2年前の1964年10月10日に、東京オリンピックが開催された事にちなんで、とのことです。
偶然と言いますか、2016年も10月10日が体育の日となるのは、由来となる日程田同じと言う事で、不可思議なご縁を感じるところに御座います。
体育の日の由来だけでは、話題としては寂しいでしょうから、日本の情緒在る話を少々。
新暦の暦では、体育の日辺りの日、10月8日から13日までの期間にまつわる、二十四節気や七十二候を覚えておかれると、風流ではないかと存じます。
10月8日は二十四節気ですと「寒露(かんろ)」であり、七十二候では「鴻雁来(こうがんきたる)」と言います。
現代ですと体育の日辺りでは、まだ暖かさもあるかもしれませんけれども、朝夕は肌寒さも感じて、秋の到来を感じる頃合いでありましょうか。
朝夕は寒くて、露が見えたり、地域によっては露が凍りそうな気配を感じる、なんとも日本の秋を感じたり、秋の季節を感じられる風流な言葉である、と私は味わっております。
鴻雁来(こうがんきたる)も、丁度こんな季節か、と自然の営みから秋を感じられる、視覚的な秋の訪れを味わえる表現であり、風流な趣を感じるところで御座います。
体育の日には由来と共に、このような日本的情緒を感じる事が出来る話をすると、「お!」と思って貰えたりしないものでしょうかね。

体育の日の「体育」を改めて考えて観る
体育の日は、各地域で、各種スポーツイベントが色々と催される事でありましょう。それはそれで、確かに体育の日らしくはありますし、不断動かさない身体を動かす、とても良い機会であると私は頂いております。
私の場合、リハビリも兼ねて歩いたり筋肉細胞を破壊したりしておりますし、後ほどお話し致しますが、厳密に言えば毎日が体育の日であります。
現代社会においては、なかなか毎日運動する、スポーツに親しむと言う事が難しい人も多いことでありましょう。
1964年の東京オリンピック由来である体育の日が、こうして現在も続けられていることは、身体を動かす大切な機会でありますし、スポーツイベントに家族で興じるのも良いかと存じます。
ただ、折角ですから、私なりに仏教者として提示手出来る事柄を、それも仏教的な視点やアプローチにて、付け加えたいと思うております。
そもそもとして、体育の日とは何か、というのは、由来のところでお伝えした通りです。
それでは、もっと細分化して「体育」とは、なんでありましょうか?
体育の定義としては、国語辞典的な解説を致しますと、「心身の健やかな成長」「身体の仕組みを学ぶ」といった活動の事です。
要するに「身体のことを知って、身体を動かして健やかな身体を作る、そうして健やかに成長する」という事です。
現在は、学校教育の現場で使われる用語のような印象がありますが、本来は体育というのは、心身共に健やかであり、身体のことを学ぶという概念であります。
何も、スポーツをする事だけが体育ではありません。
スポーツをすること、身体を動かすことも含むけれども、身体の仕組みを学ぶという座学や、健やかな肉体作りに励むこと全てが、体育なのです。
故に、体育の日は、スポーツイベントに参加することも結構ですが、身体の仕組みを学び直すなども、体育の日らしい過ごし方と言えましょう。
体育の日はスポーツをするもよし、安静にしたり養生するもよし
上で話した事を踏まえて、私は体育の日は「養生する事」も、視野に入れてみては如何でしょうか、という提案を持っております。確かに、スポーツイベントに参加して、心身共に健やかに成長させる、活力を得るというのも、素晴らしい体育の日の過ごし方です。
一方で、体育の日だからこそ、肉体の養生について考える、心身共に健やかであるために、あえて肉体の超えを静かに聞くという過ごし方も、体育の日の過ごし方として理に適っていると思うております。
例えば、スポーツ選手は毎日激しい運動をして、競技で好成績を出すための鍛錬なり修練に励まれます。
スポーツ選手ではなく、普段からスポーツ愛好家や素人のスポーツサークル活動に励んでいる方は、体育の日には「静の日」とするのも、体育の日の過ごし方として一つの智慧であると考えております。
激しいスポーツをしていたり、ついつい踏ん張って力んでトレーニングに励んでいる人は、特に体育の日を肉体休養日や養生の日とするのは、如何でしょうか。
身体は、適切な休養があってこそ進化成長するものです。
ゆえに、時には回復期や養生する期間も必要であります。
「でも、体育の日に、ただごろごろしてるのはなあ。」と、気が引ける方もいらっしゃるかもしれません。
そのような時は、身体は休めつつ、心と意識は肉体の声に真摯な姿勢で聞くため、坐禅を組みに禅寺に行ったり、栄養の事を学ぶ事も、体育と言えます。
例えば、私も毎日朝と夜に坐禅を組ませて頂いておるのですが、臨済宗の和尚さんに教わったり、玄侑宗久さんの本で学んだ、呼吸を意識する、呼吸に集中するという坐禅をさせて頂いております。
呼吸を意識するとき、「数息観(すそくかん)」という方法がありまして、息を吐くときに「ひとー・・・つ」と数えていきます。
そして、「十(とう)」まで数えたら、また「ひとー・・・つ」と戻ります。
この時に、吸い込んだ息が、今身体のどこを走っているか、吐くときも息・空気の移動を意識する事は、身体を意識する事に繋がります。
言葉ではなかなか伝えにくいのですが、一度、呼吸に全神経を集中させて、身体を通る空気の流れを意識すると、なんとなく感じて頂けるかと存じます。
これは一つの例ですが、こうやって身体の声に耳を傾ける日とするのも、体育の日の有意義な過ごし方では無いかと思います。
肉体養生にも繋がる話ですし、自分の身体を学ぶという意味で「体育」を実践する過ごし方でありましょう。
養生しながら、同時にスポーツ的な活動も、と言うのであれば、ヨーガ(ヨガ)も良いかも知れませんね。

体育の日に、身体性を改めて考える日としたい
私は、現代社会に、そして現在まで体育の日が続いていることに、有り難さを感じている節が御座います。そう申しますのも、これは武術研究家であられる甲野善紀さんの本で「身体性が失われていく事」に対する危惧を読んだ事が御座います。
現代社会は、確かに便利に成りはしましたが、そのために日本的・日本人的な身体性が失われつつある、と言われるのも、頷ける話であります。
昨今は、日本人的な身体性はもとより、人類が持つ身体性その者が失われているような、そんな懸念もあるように思えます。
これも、甲野善紀さんの本で読んだのですが、「本気で走る・全力疾走する」という事が出来ない子供がいた、との事です。
力加減が分からなかったり、自身の身体がどれだけの限界値であるか、という事を、感覚的に理解出来ない、という現象がみられたそうです。
「流石に、それはまさか」とは思いたいのですが、身体性を必要としないほどの利便性が高い現代社会では、身体を使う場面が減少しているのは明らかであります。
雑巾のしぼり方が分からなかったり、全然しぼる力が無い子供もいる、という話を、禅僧の本で読んだこともありますから、そういう自体が観られるようになってきているのでしょう。
このように、身体を使う機会が減少し、身体性が失われかねない現代社会だからこそ、体育の日くらいはスポーツイベントに参加するなりして、運動する一歩目を歩み出すというのは、意味のある過ごし方であると、私は頂く次第で御座います。
その場合、改めて「体育とは何か、身体とは何か」も学び、身体性を呼び起こす日として過ごしたい、そのように思います。

体育の日2016年版としたわけ
最後に、私が「体育の日の過ごし方」という表題に、わざわざ2016年版と記した理由を、お伝えしておきます。これには、仏教が説く基本的な事柄である「諸行無常(しょぎょうむじょう)」が関係しています。
先日に浄土真宗本願寺派の住職にも教えて頂いた話ですが、人の身体も「諸行無常」であります。
物事は全て諸行無常の理の中にありまして、人体もその理からは外れる事が無い、と言うのが諸行無常の説くところです。
それを踏まえると、2016年10月10日、つまり2016年における体育の日当日の身体と、2017年の体育の日の身体は、同じではありません。
筋肉の付き方や質と量、当日の健康状態等、色々と違っているはずです。
40歳と41歳の時、20歳と21歳の時など、それまでどのように過ごしたかで、その年々の体育の日はどのような身体か、違うという理屈です。
故に、その事を言語化して示すため「体育の日の過ごし方2016年版」と記した次第に御座います。
2016年は2016年の、2017年は2017年の、それぞれの身体と相談した体育の日の過ごし方にて、充実した一日を送られましたら、嬉しゅう御座います。
合掌