有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは、織姫と彦星の七夕伝説をご存じでしょうか?
恐らく、子供の頃に幼稚園から小中学校の七夕祭りなり学校行事、また童話や絵本でご存じの事かと思われます。
お子さんがいらっしゃる方なら、七夕の時期にお子さんに織姫と彦星の恋愛話や七夕伝説を伝承されているやもしれませんね。
織姫と彦星は、1年に1度しか会えない事から、悲恋ものの七夕伝説っぽく語られる事もあります。
それゆえに、7月に降る雨が「催涙雨(さいるいう、洒涙雨とも書く)」という情緒的で風流な言葉も生まれたのでしょう。
ただ、これをただの悲恋なラブストーリーと思うだけでは勿体ない。
実はこの七夕伝説は、色々な角度から観る事によって、違う学びや見方があることを、ある人のコラムから見出しました。
太田光さんによる織姫と彦星の七夕伝説コラム
七夕伝説にまつわる話で、私が思わず笑ってしまうと同時に「確かに、なるほどなあ。」と、関心した話があります。現在は、更にそこから仏教・仏法の智慧を拝借して、己を知るための手がかりにも活用出来る話だなあ、と感じている話です。
以前お伝え致しました、釈徹宗さんが大谷大学で「真宗とエトス」という表題でお話し下さった、蒟蒻問答と感覚的に近い捉え方です。
参照:「釈徹宗さんの講演in大谷大学「真宗とエトス」」
かなり以前の話で、正確な年月日は忘れてしまいましたが、以前に爆笑問題の太田光さんが、番組の最後にコラム的な話をするというコーナーがあった番組がありました。
そこで、七夕の時期に、太田光さんがこのようなコラム的な話を展開されていたのです。
話の内容は、こんな感じです。
(わかりやすくするために、カッコ内は私が勝手に追加した話ですが、内容そのものは変えておりません。)
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地球が誕生して46億年、その内の半分が雨や曇りでも、織姫と彦星は23億回、会っています。
(宇宙誕生138億年、およそ140億年とすれば、70億回、4分の1しか晴れてなくても、35億回ですね。)
一方で、人間が80歳まで生きたとして、毎日同じ人に会うとしても、およそ3万回しか会うことが出来ません。
(わかりやすく100歳まで生きたとしても、36500回と閏年の日をプラスした回数にしかなりません。)
だから、織姫と彦星は「可哀想なのは、お前達人間の方だ。」と言っているかもしれません。
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これが、太田光さんの「太田コラム」で話された、七夕伝説についてのコラムです。
私、この話を聞いて、当時の私は笑える話でありながら「なる程なあ」と、興味深く聞いたものです。
現在、太田光さんは田中裕二さんと共に、爆笑問題として「ぶっちゃけ寺」のMCで、仏教と関わる仕事をされています。
しかし、番組で「太田コラム」を担当されている時期に、仏教的な話をされていたり、その意図は定かではありません。
でも、私はここから仏教的に考えたり、仏教の智慧をお借りして、私たちが学べる事があると見出しております。
織姫と彦星の七夕伝説コラムから学ぶ事1:何を基準にするか
太田さんによる織姫と彦星の七夕伝説のコラムから学ぶべき事の一つ目は、:何を基準として物語を観るか
です。
七夕伝説の織姫と彦星って、大体がその悲恋のストーリー、1年に1度しか会えないという悲劇的な物語ばかりに目が行きがちです。
物語としては、確かにその方がドラマティックでしょうから、わからんでもありません。
でも、ここで太田光さんが、宇宙規模で物事を捉え、具体的な「会っている数値・エンカウントの回数」で七夕伝説を捉えなおされた事が、実に見事だと私は感じております。
そしてこのことから「何を基準とするかによって、物事の見方が変わってくる」という事が学べます。
確かに、地球誕生をベースとしたら、仮に4分の1が曇りや雨であっても、回数だけで観ると10億回以上会っている事になります。
(46億÷4=11.5億)
人間が100年間、毎日同じ人と会う回数よりも、全くもって桁が違います。
ちなみに仏教の数字の話をすれば、46億という数字は、1劫を超えています。
(1劫は43億2000万年、「五劫のすり切れ」の五劫はその5倍の時間)
このように、単純に数字だけ比較すると、むしろ織姫と彦星の方が、人間よりも同一人物と会っている回数それ自体は、文字通り桁違いに多い事が分かります。
天体にまつわる伝説ですから、やはり数値も天体規模、宇宙規模なのだろうとなあ、と、勝手に味わっております。
人類学的に観ても、ヒト科の動物は1700万年程前に、原人は200万年前程前の話ですから、原人基準にしても10万年単位の規模になり、織姫と彦星の方が遭遇回数は上回ります。
ネアンデルタール人、旧人類で30万年から50万年程前ですから、かなり近づきましたが、まだ彼らの方が上回ります。
人類学の視点から観ても、及びません。
ただ、ここで「じゃあ、少ない回数しか会えない人間の方が、七夕伝説の織姫と彦星より可哀想なんだ。」と結論づけるのは、早計です。
織姫と彦星の七夕伝説コラムから学ぶ事2:1年に1度という制約と時間的感覚を考える
確かに、回数だけ観れば、宇宙規模と人類学的な視点から観ると、織姫と彦星の七夕伝説の方が、圧倒的に再会する回数は桁違いに多いでしょう。でも、本当にそれで「人間の方が可哀想」なんて言ってられるでしょうか?
そこで、太田さんによる織姫と彦星の七夕伝説のコラムから学ぶべき事の二つ目は、
:1年に1度という制約と時間的感覚を考える
です。
尚、時間の感覚に人間と織姫と彦星に違いがある事だって考えられますし、一概に言えないという事は、予め断っておきます。
また、地球から観た天の川伝説や七夕伝説に由来する話で、地球の外からだと会える、という事は、今回度外視致します。
今回は度外視しておりますが、こういう視点を持つことも大切だと思いますし、それが仏教的要素・仏教的な考え方・在り方であると私は頂いております。
確かに、遭遇回数・エンカウント回数それ自体は、織姫と彦星に対して、人間の寿命では到底及びません。
でも、織姫と彦星は、1年に1度しか会えないという制約があります。
しかも地球側から観たら、10年連続雨や曇りだったら、七夕伝説の上では10回もお預けをくらいます。
10年間、会いたくても会えない状態が続くのです。
これが、地球の環境によっては100年規模、1000年規模の氷河期などの気象状況だったら、どうでしょう?
100年、1000年単位で、会えない日が続きます。
時間的感覚が違うと仮定しても、人間の時間的感覚だったら、一生会えないレベルの時間、あるいはそれ以上の時間、お預けを食らうのです。
「1年しか会えない、しかも場合によっては何年も会えない事もある」と考えると、一方的に人間の方が可哀想だの悲しいだのとは言えなくなります。
「じゃあ、やっぱり織姫と彦星の方が・・・」で、着地できるかというと、またそうでもありません。
私は、この「なかなか着地できずに、思考を深めていく」というのも、仏教の魅力であると味わいを頂いています。
そして、その「なかなか着地できないからこそ、思考を更に深める」という事が、大切であります。
織姫と彦星の七夕伝説は、まさにそれをさせて頂ける訓練になり得ます。

織姫と彦星の七夕伝説コラムから学ぶ事3:出会いの密度を学ぶ
太田さんによる織姫と彦星の七夕伝説のコラムから学ぶべき事の三つ目は、:出会いの密度を学び、我々の日常や生き方、ご縁として捉えなおす
です。
特に、諸行無常(しょぎょうむじょう)を感じにくい現代社会においては、これは日常や人生を見直す良い機会です。
織姫と彦星は「来年も会えるとは限らない」と知っていて、だからこそ1年に1度の再会中、お互いにもの凄く濃密な過ごし方をしているのではないかと思われます。
まあ、妄想でしょうけれども。
でも、会いたいのに制約だらけで会えないから、ダラダラ過ごすとは考えにくいですし、凄く密度のある過ごし方をしている事は、容易に想像出来ます。
一方、我々人間はどうでしょうか?
「また同じ感じの明日がやって来る」と、原理的に同じ時空間は2度と来ないのに、日常を疎かに過ごしているのではないでしょうか。
出会いについても、「また明日、彼と会える、彼女と会える」と、一時一時の出会いを、疎かにしていませんか?
禅語の「一期一会(いちごいちえ)」や、仏教の根本的な教え「諸行無常(しょぎょうむじょう)」は、特に現代社会では忘れられがちです。
そこで、今回お伝え致しました織姫と七夕伝説の太田光さんのコラムから、
:出会いのご縁、そしてご縁を大切にして生きる生き方や在り方
を考える機会にしてみては如何でしょうか。
このように提案させて頂き、今回の法話を締めくくらせて頂きます。
なお、もっと七夕について知りたい方には、こちらも御座います。
参照1:「七夕の由来と様々な風習の意味と仏教」
参照2:「七夕で願い事を短冊に書く作法 」
参照3:「断捨離のコツと効果|七夕とお盆編 」
合わせて読んで頂き、日常に応用して頂けましたら、嬉しゅう御座います。
合掌