億劫の意味と由来

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは「億劫になる」という事がありますでしょうか?
166103 億劫になる、という言葉の意味は、現代では良い意味で使われる事がなかなか御座いません。



この「億劫」という言葉は、仏教由来の言葉であり、気分やご機嫌を表す意味の言葉ではありません。

仏教由来の言葉としての「億劫」とは、どのような意味なのか、それを今回の表題とさせて頂きます。

億劫になることなく、一緒に学んで頂ければ幸いに御座います。

スポンサーリンク

億劫という仏教語・仏教用語の意味と由来

「億劫」とは仏教語・仏教用語が由来であり、「億劫になる」というような使われ方をする言葉ではありません。



では、そもそも「億劫」とはなんでしょうか?

この場合、「億」「劫」に分けて意味と由来を考える必要が御座います。



「億」は、「百千万億那由多」など、単位を表す言葉です。



「劫」は「こう」と読みまして、元々はサンスクリット語の「kalpa(カルパ)」の訳語であり、時間の単位を表す言葉です。

発音は「おっこう」と読むのですが、それが訛って「億劫(おっくう)」と発音するようになりました。

そして、有り難い事にこの「劫(こう)」はどれくらいの時間かについて、「大智度論」「雑阿言経」に記されております。



およそ14㎞四方の岩、四十里という表現もなされますが、その岩に百年に一度、天女が降りてきて、身につけている羽衣でそっと撫でることを繰り返します。

そして、その羽衣と岩の摩擦によって岩がなくなったくらい、あるいはそれでも到達しないくらいの時間を「一劫」と表します。



羽衣が岩に擦れて傷つくのに、なんでまたわざわざ天女さんは岩を撫でるのか、その辺り私は不可思議だなあ、と思うたりします。

また、なんで100年に一度、そんなことをされるのでしょうかね。



ちなみに、天女の羽衣が、男の白氈(はくもう)になっている話もありますけれども、私がお坊さんから教えて貰ったのは、天女版です。

紀元から考えると、天女さんは20回、岩を羽衣でさっと撫でたことになります。(紀元から2016年の時間が経過していますがゆえに、2000年÷100年=20年)



しかしまあ、どういう事情がおありで天女さんはそんな事なさってるのか存じませんが、それこそ天女さんは「億劫どすなあ」といって、「億劫になる」とか思われているやも知れない、と妄想します。
Šî–{ CMYK

億劫の「劫」の意味と由来、つまり時間の単位

億劫の「劫」は、恐ろしく長い年月であることは、想像して頂けたのではないかと存じます。

では、天女が岩を完全に羽衣の摩擦だけで消す程の時間「一劫」とは、具体的数値としてどれくらいなのか。

それこそ「億劫になる」ような計算だと思うのですが、計算してくれた有り難い話が御座います。



その計算によると、
:一劫=約40億年
だそうです。

大体、40億年くらいで一劫です。



地球時間に換算致しますと、地球は138億年、ですから、三劫と半分くらい経過している事になりますね。

天女さんは、岩を3つほどその羽衣で消し去り、4つ目を半分くらいまで削ったところ、という計算になります。



なんとも、考えるだけでも「億劫になる」事を、お疲れ様と申し上げたいところで御座います。

スポンサーリンク

億劫と阿弥陀如来の話

億劫という言葉の意味と由来を辿ったところで、ここで一つ浄土教・浄土仏教にまつわる話を紹介させて頂きます。



浄土宗や真宗・浄土真宗では、ご本尊は阿弥陀如来です。

この阿弥陀如来、阿弥陀仏という仏様は、一切衆生を救うて下さるために、五劫もの時間、思い考えて下さった仏様です。

その事を「五劫思惟」という言葉で表されており、正信念仏偈には
:五劫思惟之摂受(五劫に之を思惟し摂受したまう)
と記されております。



また、歎異抄では、親鸞聖人が「ひとえに親鸞一人がためなりけり」という言葉の前に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば」とあり、阿弥陀仏の五劫思惟が説かれています。

一劫でも途方も無い時間なのに、その5倍もの時間、一切衆生を救うために思い考えて下さったと言う話は、なんとも有り難い話であると、私は味わい頂いております。



ちなみに、「寿限無」の冒頭に出てくる「寿限無寿限無五劫のすり切れ」は、この話に由来します。
237068

億劫の由来から意味と言葉の使い方のさすらいを考える

何はともあれ、とにかく仏教語・仏教用語の「億劫」の意味と由来を紐解いて行くと、人智の及ばぬ程の時間単位であることは感じ取れるのではないでしょうか。

「億劫」という言葉は、仏教用語としての意味と由来を考えると、人の感情を表した言葉ではないことは、おわかり頂けたのでは無いかと思います。



しかし、「一劫」が40億年ほどで、更にその億倍ですからね、考えるだけでも気が遠くなりますし、そりゃ「億劫になる」というさすらい方をするのも頷けます。



「億劫になる」というと、「レポートの提出日が迫っていて、億劫になるなあ。」「次の会議の事を考えると億劫になる。」と、なんだか気が滅入っている状態を表す意味に聞こえます。

何とも、時間の単位を表すという言葉が、あれよあれよと転じていったものです。

このことについて、どのように意味が仏教由来の言葉から流転したか、これは私も考えた事で、お坊さんからも話を聞いたり、僧侶の本を読んで学ばせて頂きました。

そのような経緯を経て、言葉の流転・さすらいを思うと、確かになあ、と考えさせられる話が御座います。



例えば、何かを成し遂げようとする場合、天女さんが岩を消し去るという由来を踏まえれば、そのさすらいの様子が想像出来るのではないかと存じます。

だって、「天女さん天女さん、ちょいと14キロ平方メートルの岩を、100年に一度、その羽衣で一回だけ撫でるという条件で、消して頂戴。」なんて言われたら、天女さんはどう思われるでしょうか。

そりゃ、天女さんがどう思われるか、本当のお気持ちはわかりかねますが、「冗談じゃありませんわよ!」と、思われた可能性は否定出来ません。

でも、天女さんに上司がいて、上司の言う事は効かないと行けない状況でしたら、やらんわけにはいきません。

そうした場合、天女さんも岩が消えるまでの事を考えたら、気が滅入っても仕方ないなあ、と思うこともあるでしょう。

もしもそれを「それを億回やっておいてね。」なんて言われた日には、そりゃ「億劫もこんな事をする事を思うと気が滅入る→億劫になる」のも頷けます。



この話は私の妄想も多分に入っておりますが、「億劫になる=気が滅入る、気分が落ち込む」という意味へと「億劫」がさすらったのも、何となくわかる気が致します。
098249

「億劫」に観る現代人の時間感覚

億劫から「億劫になる」という言葉について、仏教語・仏教用語としての意味と由来から、その流転・さすらいを辿って見ました。



私は、この「億劫」という言葉は、現在は時間の単位や時間的な感覚を表す言葉からは、随分離れたものだなあ、と感じております。

それと同時に、この「億劫」という言葉から、現代社会における時間的感覚を、改めて考える事もしばしば御座います。



私は、浄土宗の毎日のお勤め・勤行にて、
:仏説感無量寿第九眞身観文
を称えさせて頂いております。

その中には、
「六十万億那由多恒河沙」
とあります。

那由多も恒河沙も数の単位であり、五劫思惟といい、仏教の時間単位には途方も無いと感じ入る次第であります。



その上で、私はこの長い時間の表現を観るにつけ、特に現代社会で生きる者として思う事が御座います。



現代社会では、「より早く、より速く」が、良い事とされており、「早く効率的に稼ぐ事」という概念が、成功の定義の一つとしてあります。

ただ、この「より早く、より速く」は、現代では行きすぎているのでは無いか、そのような事もたびたび思う事があるのです。



そりゃ、より速い乗り物があれば、より早く遠くに行けますし時間効率も良いしと、有り難い事であります。

それは否定しませんし、私もその恩恵を有り難く感謝して使わせて頂いております。



しかし一方で、あまりにもその気持ちが強く、セカセカと急く人や、待つ事が苦手であったり、ちょっとした待ち時間もそわそわしやすくなっているのではないか、そのような事も感じるのです。



時間効率を考えて、「より早く、より速く」を実現する事は、それはそれで大切な場面もあります。

一方で、それだけに囚われること、仏教の言葉で言うならば「執着(しゅうじゃく)」し始めると、途端に心の余裕が無くなり、トラブルやストレスの原因となってしまいます。



時間効率ばかり考えて、ゆっくり歩くという事を、現代社会に生きる我々は忘れてはおらんでしょうか?



こうして「億劫」という言葉の意味と由来に出会ったならば、一度、「より早く、より速く」に囚われていないか、自己を見つめるきっかけにして頂ければ、嬉しゅう御座います。

どうか、そのような内観や思索を「億劫になる」と思わずに。



合掌

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加