有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは最近「お陰様で」とか「おかげさまで何々出来ました」など、「おかげさま」という言葉を使われた事があるでしょうか。
現代社会では、「おかげさま」と言いますと、他人からの恩恵を受けたときに、感謝や謙遜、奥ゆかしさを表す言葉として使われる傾向に御座います。
かと思えば「あいつのおかげで酷い目に合った。」と、マイナスの意味でも使われる事があり、「おかげさまで」という言葉も随分とさすらったものであります。
私は、この「お陰様で(おかげさまで)」というように使われる「おかげさま」という言葉は、ロゴス(言語)もパトス(精神性)も、継承していきたい、そのように考えております。
「おかげさま」の現代的な意味
「おかげさま」は、現代は日常語として使われておりますが、日常語ゆえに、その意味を深く考えたことが無い人もいらっしゃることでありましょう。「おかげさま」を、仏教用語として観る人もいますが、これは「おかげさまとは何様か?」と深めたときに、仏教用語として観る人がいるであろう事が読み解けます。
この「おかげさま」の現代的な意味は、
:他人から受ける恵みや擁護のこと
と、語源辞典には記されておりました。
恐らくどの国語辞典にも、そのようなニュアンス・語感や言葉の意味が書かれている事でありましょう。
「おかげさま」は、「お陰様」とも書き、大抵が「お陰様で・おかげさまで」と「で」がくっついた形で使われる言葉であります。
使い方の例としては、こんな感じでありましょうか。
「上手く言ったね。」「はい、おかげさまで。」
「優勝おめでとう。」「お陰様で、有難う御座います。」
このような感じで、「おかげさま」や「お陰様で」とは、お世話になった人に対して感謝を表す言葉として使われます。

「お陰」ではなく「お陰様・おかげさま」と様がつく意味
現代社会においては、「お陰様で、おかげさまで」という使われ方がする「おかげさま」ですが、「御陰・お陰」と、「様」をとっぱらった使い方もなされます。私は「おかげさま」と、「様」を付ける使い方のままに、言葉と意味を継承していきたいと考えております。
と言いますのも、この「様」が付いている事に、私は趣や味わいを頂いておるからです。
一体、何故「様」と、わざわざくっつけているのか。
それは、本来「おかげさま」というのは、神仏であったり、神仏のご加護を意味しているからであります。
「おかげさまでご縁を頂く事が出来ました。」というのは「仏様のおかげで、ご縁を頂戴致しました。」とも読み替えることが出来るわけです。
現代社会において、例えば仕事が上手く言ったときにには、「部長のお陰様で」とか「先輩のおかげさまで」と、あくまで他人を対象に使われます。
それも、目の前の相手や、目の前にいなくても関わった特定の人に対して「おかげさま」と使われる言葉とさすらいました。
それはそれで間違った使い方ではありませんが、本来的な「神仏、またそのご加護」という意味が「おかげさま」には含まれております。
私は、直接お世話になった人への感謝として「おかげさまで」と使うのも大切ですが、一歩深めて「おかげさま」を味わいたいものである、そのように頂いております。
おかげさまから「諸法無我」を頂ける大切な意味がある
普段から、何気なく使っていて、「とりあえず、おかげさまで、と言っておけば良いや。」なんて、使い方をしている人も、多いのではないかと、私は勝手に想像しております。昨今は、「おかげさま」という言葉を大切にするどころか、使わなくなったり知らんふりする事も多いのではないか、そのような風潮を感じる事も御座います。
私は、この「おかげさま」という言葉は、仏教が説く「諸法無我(しょほうむが)」を教えて下さる、大切な言葉であり、そのような意味があると頂いております。
「諸法無我(しょほうむが)」とは、平たく言えば「世の中のものは全て単独で存在しているのではなく、関わりの中で生きている」という意味です。
人間は「にんげん」とも読みますが、仏教では「じんかん」と読み、人は関わりによって、間柄を持つ事によって「人間」になる、と言う事を教えてくれます。
私が私として存在できるのは、まさに他者の「おかげさま」という事です。
現代社会は「個の時代」と言われており、個別性が大切にされております。
それはそれで大切な事ではあるでしょうが、現在は特に「個」に偏重しすぎており、自己完結の思想なり思考が強すぎないか、そのような懸念が御座います。
典型的なのが、我利我利亡者や有財餓鬼の自慢ブログなりサイトで観られる「自分の力で稼ぐ」とか「稼いだ金額自慢」でありましょう。
特に、個人的に酷いと思うことが、「自分の力で稼いだ」と錯覚している上に、旅行自慢や買い物自慢をしている姿です。
あれはなんとも、自己顕示欲という煩悩の塊、みっともないし情けない姿でありましょうか。
もしも「おかげさま」という言葉と意味を知っており、謙虚で奥ゆかしさがあれば、あのような事は出来ません。
あのような自慢にもならない事を自慢するような事が出来るのは、財を賜って下さったお客様をはじめとした、数多のご縁による「おかげさま」があるからです。
細かく観ていけば、お客様のおかげさまでもありますし、旅行先で持て成して下さる方々のお陰様でもあります。
この世にご縁を頂けたという事など、「無始の御縁の働き」も御座いましょう。
それらの「おかげさま」が見えている、もしくは観ようとしているのであれば、あのような自慢は出来ません。
「おかげさま」が見えていなくても、感じていたり奥ゆかしさがあれば、出来ない事で御座います。
まさに「おかげさま」に気づく事すら無い、憐れな我利我利亡者・有財餓鬼の姿であります。
我々は、あのような姿を見たら、反面教師として戒めるために活用する事が大切であり、あのような我利我利亡者・有財餓鬼に「財・金」という餌を与えないように注意したいものです。
仏教から離れた、現代的な自力思想の暴走は、「おかげさま」を見直す余裕がありません。
そして、「利己主義」から「我利主義」へどんどん嵌まっていき、傲慢な亡者となってしまいます。
「おかげさま」は、このような暴走に歯止めを掛けてくれる、美しい言葉であり意味のある響だと、私は味わいを頂いております。

「おかげさま」の意味を学び、有り難さを感じ伝えていきたい
「おかげさま」という言葉と意味・概念は、とても日本的で奥ゆかしさのある響だと、私は味わわせて頂いております。現代社会においては「俺が俺が、私が私が」と、自己主張が強くなりすぎていて、暴走気味の自力思想が見受けられます。
そうなると、競争が激化して争い事に発展し、ギスギスした世の中であるという事が硬直化しかねません。
現代社会は、個性という名で着飾った自己中心性が強い世ではないかと、私は考えております。
このような、自己中心性が強く他者意識が薄れている昨今の娑婆世界において、「おかげさま」は光明の一つである、私はそのように思えるのです。
私は、この「おかげさま」を、日常的に意識する智慧に、「いただきます」と「ごちそうさま」だと頂いております。
その中でも、禅宗の「五観の偈(ごかんのげ)」という、食前の挨拶として称えさせて頂く偈文の最初の一文は、まさに「おかげさま」の教えと智慧が詰まっております。
最初の一文は「 一つには、功の多少を計り、彼の来処を量る」とあるのですが、これは、食事が調うまでの人々の働き、つまり御縁への感謝を表す言葉です。
また、浄土宗の食前の言葉も、「我ここに食を受く、つつしみて天地の恵みと人々の労を謝し奉る」と御座います。
真宗大谷派では「み光のもとに、我今幸いにこの浄き食を受く」とあり、「み光」が、御仏のご加護や、数多の御縁と頂く事が出来ます。
「おかげさま」を大切にするなら、エトス(行為様式)として、まずは毎日頂く食事の前に「いただきます」をすることから、ここにあると私は味わいを頂いております。
個人主義偏重の時代、利己主義が行き過ぎて「我利主義」になりがちな現代社会において、改めて「おかげさま」の意味と有り難さを味わいたい、そのように思う今日この頃で御座います。
尚、今回の話は、「いただきます」と「ごちそうさま」と、謙虚なエトス(行為様式)も、合わせて学んで頂ければ、嬉しゅう御座います。
参照:「「いただきます」と「ごちそうさま」を言わない時代?」
参照2:「「いただきます」で謙虚な人の心を育む食育の智慧」
参照3:「傲慢な人から謙虚な人になるエトス」
謙虚さと奥ゆかしさを養う一助となれば、幸いに存じます。
合掌