猫も杓子も(ねこもしゃくしも)の意味と由来

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは、「猫も杓子も(ねこもしゃくしも)」という言葉と、その意味と由来をご存じでしょうか。
327928 猫はわかる人も多いでしょうが、特に現代の若い人達は、杓子というものをご存じないかもしれません。

杓子とは、汁物をすくうときに使うしゃもじの事です。



この、「猫も杓子も(ねこもしゃくしも)」という言葉ですが、意味はともかく由来の一節を知ったのは、私はつい最近の事で御座います。

そして、由来や語源を紐解いて見ると、実は仏教の話にも通じることが御座います。

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猫も杓子も(ねこもしゃくしも)の意味

猫も杓子も(ねこもしゃくしも)と言う言葉の意味は、現在でしたら国語辞典や熟語辞典、故事成語辞典を紐解けば、その意味を学ぶ事が出来ます。

そして、わざわざ「猫も杓子も(ねこもしゃくしも)」と、平仮名をうっている事には、意味や由来とも関係しております。



まずは、現代的な「猫も杓子も(ねこもしゃくしも)」の意味を読み解いていきましょう。



「猫も杓子も」の、現代的な意味は、
:多くのものが、誰も彼も
です。



「誰も彼も」は、「たそがれ」を連想する言葉であり、これもまた仏教的な話がある言葉と意味があるのですが、これについては省略致します。

「誰彼、黄昏時」は、私が好きな映画「君の名は。」でも出て来た言葉ですから、話したいのはやまやまですがね。

ちなみに私、新海誠監督の作品は、「星の声」「雲の向こう、約束の場所」の時代から大好きです。



「猫も杓子も(ねこもしゃくしも)」と言う言葉の意味は、「誰も彼も」という事ですから、使い方の例はこんな感じです。

「現在は、猫も杓子もポケモンGOをやっている。」

このように、使い方としては、主にブームとなっている現象が、いかに流行っているかを説明する時に使われます。
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猫も杓子も(ねこもしゃくしも)の由来や語源

猫も杓子も(ねこもしゃくしも)という言葉ですが、出所・由来や語源はどこにあるのか。



それは、江戸時代の一休さん説話集「一休咄」に、「猫も杓子も(ねこもしゃくしも)」の由来説・語源説が御座います。

これは、一休さんを伝説化した話を収録したものであり、アニメ版「一休さん」の原作とも言えるものです。



この一休咄の中に「生まれては、死ぬるなりけりおしなべて、釈迦も達磨も猫も杓子も」と御座います。



一休さんが本当に言ったかどうかまではわかりかねますが、一休さんなら言いかねない言葉だと、私は感じております。

一休さんの道歌には、このような歌も御座います。



「釈迦という、いたずらものが世にいでて、おおくの人をまよわするかな」
「女をば、法(のり)の御蔵(みくら)と言うぞ実(げ)に、釈迦も達磨も出づる玉門」



釈尊や達磨大師と、猫と杓子を並べる歌を作られていたとしても、なんとなく頷けるものであります。

概念や分別する事に囚われない「無執着」を説く禅の教えを生きる、禅僧らしいと言えば禅僧らしい、そんな感じを頂けるもので御座います。



そして、この出所・由来を踏まえた上で、更にその語源についてですが、語源については諸説あります。

私は仏教者であり、禅僧であられる一休宗純さんの話から、有力であると勝手に思うておる語源説があるのですが、あくまで有力と言う事であり、確定ではありませんからご注意をば。



私が有力と勝手に思う語源説は、
:猫→禰子(ねこ)
:杓子→釈子(しゃくし)
です。

禰子(ねこ)とは「神道の信者」や神主さんの事であり、釈子は「仏教徒・僧侶」の事です。

真宗・浄土真宗の僧侶が、苗字の部分に「釈」とつけられる辺りに、その事を見て取ることが出来ます。



この「禰子」「釈子」が語源であるならば、日本的と言いますか、日本で独自に出て来た言い回しであるだろうと、私は観ております。

神道は日本の古来から伝わっている宗教ですからね。
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「ねこもしゃくしも」の由来と語源から頂く意味の味わい「猫も杓子も」

これを踏まえると、「釈迦も達磨も、猫も杓子も」というのは、このような味わいや頂き方が出来るかと思います。

まずは「猫も杓子も(ねこもしゃくしも)」で観ていくと致しましょう。



生老病死生死(しょうじ)の一大事は、悟られた釈尊や、禅の祖であられる高僧・達磨大師であっても、そこら辺にいる猫であっても、また杓子であっても、逃れられません。

この世は「諸行無常」でありますから、それは誰にでも、何にでも適用されている、逃れられない法です。

それは高僧であっても逃れられず、人ではない猫という動物であろうが、杓子という物であろうが、必ず始まりと終わりを迎えなければなりません。

「杓子って死ぬの?」という疑問があるかと思われますが、杓子も壊れたり風化したりと、その役目を終えるものであります。

「形在るものは、いつかは無くなる」と言うのは、諸行無常を表した言い回しであり、それは杓子であっても逃れられません。



一休咄の歌全体からは、まさに「諸行無常は誰も彼も逃れることが出来ない」という事を、私達に教えて下さっている、そのような味わいを頂けるもので御座います。
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「ねこもしゃくしも」の由来と語源から頂く意味の味わい「禰子も釈子も」

お次は、「禰子も釈子も」という、由来と語源から意味を味わって、仏教的な学びも頂きましょう。



語源説の一つ「禰子も釈子も」には、私はとても日本的な味わいを感じ取っております。

「禰子」というのは、神主や神道の信者を現す言葉であり、その時点ですでに日本的であり、日本の宗教性を私は観ております。

そして、「釈子」というからには、すでに日本に仏教が伝来された事でありましょうから、この辺りから、一休咄が世に出る前から、仏教伝来語の日本という時代を感じるもので御座います。

生死の理は、例え禰子であろうが釈子であろうが、逃れることが出来ない諸行無常の理である、その事を教えて下さっているという味わいを、私は頂いております。



そして、ここから私は「生きる事と臨終に際する時の宗教」を、考えさせて頂いております。



人は、臨終を意識する時節となると、不安になったり焦燥感であったり、何らかの不安定さを抱える事になります。

私は、この不安定さは大切であると考えるようになりました。

私も、うつ病等でどうしようも無い時に、魔が差してしまいそうになった経験があります。

その時に、臨終の不安や焦燥感などは、ある種のブレーキになり得るのでは無いか、そのような事を経験・体験から頂くようになっております。



人は臨終を意識するようになった時節では、大なり小なり不安を抱えるものでありましょう。

しかし、どんなに叫んでも不安になっても、どうしようもなくこの世は「諸行無常」であり、いつかはその時を迎えるものであります。

そのような時に、宗教は何が出来るのか、宗教者や仏教徒は何が出来るのか、私はこの「ねこもしゃくしも」から、そのような事を考えるに到ったもので御座います。



宗教は、諸行無常を消し去ったり、理をねじ曲げる事は出来ません。

それは「猫にも杓子にも、禰子にも釈子にも」出来ない事であります。

同時に「猫も杓子も、禰子も釈子も」どうしようもなく訪れる事であります。



仏教、宗教に出来る事があるとすれば、理をねじ曲げる事ではなく、いかに引き受けて行くか、その引き受け方を迷いながらも頂いていくことではなかろうか、そのような事を考えております。



未だに結論が出ず、私もこのことについては、未だに悶々と立ちすくんでいる事でありますが、この道歌や「猫にも杓子にも、禰子も釈子も」が、考えるきっかけとなって下さったご縁には、感謝しております。



合掌

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