有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは、何もしたくないと思った日や、何もしたくないという感覚に覆われた経験をお持ちでしょうか。
私は、睡眠障害やうつ病などの状態が酷い場合は、「何もしたくない」ということすらなかった、という状態を経験した事があります。
何かをしなければいけないのに、心と体がついていかず、それで「何もしたくない」ではなく、そういう概念すら吹っ飛んだ状態です。
そういう状態を経て、今でも時々、「何もしたくない」や、体が思うように動かない状態を経験することは御座いますが、だいぶ改善はされてきました。
また、そのような状態に陥っても、上手くやり過ごす智慧と方法も、少しずつですが身については来ております。
私の場合は、それが薬の力では無く、仏教との再会であったり仏法という光、そしてエトス(行為様式)のお陰様であったり致します。
何もしたくない心の状態で、何もしていないと沸いてくる罪悪感
何もしたくない、という心の状態で、実際に体も心も上手く動かない状態。私は、睡眠障害やうつ病などの症状が酷い場合は、このような状態が続いていたものです。
最も酷かった時は体が動かなかったのですが、体が少し動くようになってきた時には、このような事を思い始めます。
「きちんと体が動くし、食事も何とか出来ている。なのに、何もしたくないというのは怠け心だ、自分は悪人だ、無価値だ・・・。」
このような事が続くと、一時は本当に、魔が差し掛けた事もあったものです。
ただ、今思えば、その経験があったからこそ、突発的な症状「魔が差す」という現象を、体で、肌感覚で知るに到ったのですが、当時はそのような事を顧みる余裕さえありませんでした。
この症状は、うつ病などの症状と共に歩むことになる前は活動的であったり、自己責任論を自己に課している人や、生真面目な人は、より覚える罪悪感が強烈になるのではないか、という感覚が御座います。
実際に私も、悪い意味でのエコノミックアニマルであったり、自己責任論寄りの人間で、「全部自分が悪いんだ、だから自分が努力すれば解決するんだ」という考え方で生きておりました。
だから、睡眠障害やうつ病等の症状も、全て自分だけが悪いと考え、何もしたくないという事は怠け心だと強く感じて、罪悪感に苛まれていたものです。
そしてそれは、「どうしたってふつふつと内側から湧いてくる事である、沸いてくる罪悪感を力尽くや正論でどうにか出来るものではない」と言う事も、経験から学ばせて頂いたもので御座います。
むしろ、正論は症状を悪化させますからね、経験した人でないと、この感覚は共有出来ないのでは無いか、と思うております。

何もしたくない状態で何もしていない時の罪悪感を覚える理由
何もしたくない心や、そのような状態で体が上手く機能しない時、私のように強烈な罪悪感に覆われる人も、うつ病を経験している人や経験した人の中にいらっしゃるかと存じます。最も多いと思われる、私も経験した心の動きとしては、「経済活動をしていない事への罪悪感」ではなかろうかと、存じ上げます。
要するに「働いていない自分への罪悪感」です。
現代社会では、人は何かしら経済活動をする事、仕事をしてお金を稼ぐことを求められている風潮が御座います。
それ故に、「働きもしないで」という言葉が、揶揄される言葉として使われるのでありましょう。
そして、これがうつ病等で苦しむ人、何もしたくないという心に苛まれている人にとって、罪悪感を覚えるに到る刃となるのです。
私も、「気の持ちようだろ、そんなの」「どうせ人のせいにして逃げているだけだろ、最低だなあんた」とか、そのような言葉を投げつけられて、更に悪化した経験が御座います。
そして、私は生来が生真面目な性格もあり、「そうだ、私が悪いんだ、罪だ、無価値だ・・・」と、強烈な罪悪感に苛まれたものです。
幸い、魔が差し掛けても戻って来る事が出来ましたが、一線を越えてしまう人がいる事も、経験から学ぶに到りました。
何もしたくない、という心の状態で、罪悪感を覚えるというのは、このような理由があるからだろうと、私は考えております。
また、活動的である事が推奨される、忙しない現代社会から取り残されているという孤独感・孤立感も、罪悪感の理由としてあげられましょう。
何もしたくない心の状態で、何も出来なくて何もしていない状態に罪悪感を覚える。
現代の娑婆世界の環境が、うつ病などの状態で、どうしようもなく何も出来ない、何もしたくないという心の状態になった時に、罪悪感がふつふつと湧いてきてしまう要素であるのは、否めないと、私の経験から言える事で御座います。
何もしたくない心の状態で動けない事に罪悪感を感じるあなたに知って欲しい事
「何もしたくない」という心の状態で、実際に動けない事に、罪悪感を覚える事は、現代社会の価値観や社会通念からすると、どうしても沸いてしまうものであるかと、体験からも感じておるところに御座います。何かをしなければならないのに、心も体もどうしようもなく動けずにいる状態というのは、本当にしんどいものです。
そのような状態の人に、鞭打ったり正論でまくし立てたところで、動けるようになるかというと、そんなに簡単な話ではありません。
それで何とかなるならば、心療内科や精神科、カウンセリングも、そして恐らく仏教・仏法も必要無い事でありましょう。
何とかならないから、それらの力が大切であるのです。
何もしたくない、と一口に言いましても、私は「何もしたくない状態」は、「何も出来ない状態」の事であると、考えております。
何もしたくないのではありません、何かしたいけれども、何も出来ないのです。
何も出来ないし、動けないのです、本当に。
よくある例え話として、骨折した脚であるのに、気力ややる気、気の持ちようで走れ、なんていっても、出来ないだろう、というのがありますが、その心版だと考えれば、確かにわかりやすいでしょう。
動けない心と体の状態であるのに、動くことが出来ないのです。
しかし、それを何も知らない、経験が無い人からすれば、「自分はこんなに頑張っているのに、働いているのに、動いているのに、あいつは怠けてる」と、観られる事もあります。
もっとも、これはまさに「慢」の煩悩にやられてしまっている、煩悩全開の在り方であり考え方なのですがね。
その人は、自分が出来ない事、それこそ物理的に不可能である事さえも、気力や気の持ちよう、あるいは自己責任で何とか出来るとでも、思っていらっしゃるのでしょうか。
そう思っているのであれば、思い上がりも甚だしい、増上慢に毒されている状態です。
うつ病などで苦しんでいる人の「何もしたくない」というのは、正確には「何も出来ない、動けない状態」です。
「何もしたくない」という表現になったのは、自責の念や罪悪感、生真面目さからくるものではないか、と、私の経験から思うところに御座います。
この自責の念や罪悪感は、仏教で言うところの「自縄自縛(じじゅうじばく)」という状態です。
現代的な言葉を用いるならば、「ダブルバインド」にも相当するでしょう。
ダブルバインドとは、二つの地点から縛られていたり引っ張られている状態を表す言葉で、これが統合失調症の原因となったり、悪化させる要素となります。
動けないのに「動かなければ」という思いと、動かないことは悪だとする現代社会の通念が、ダブルバインドとなっているのです。
動きたくても動けない事に、自責の念や罪悪感を覚えている人は、私はとても真面目な人であるし、社会貢献しようとか、慈悲の精神を持っている人だと考えております。
本当に慈悲の精神が無かったり、優しさを失った心の無い者であるなら、罪悪感を抱く事すら御座いません。
罪悪感を持てるという事は、少なくとも己の今を観察する眼をお持ちである、と言う事です。
その事に気づけば、今の苦しみや罪悪感もきちんと観察して、寛解へ向かって進める力を、あなた自身が宿していることにも、気づいていけるかと存じます。
罪悪感や自責の念を持っているあなたは、今はとてもお辛いでしょうし、苦しみの待った中におわします事でありましょう。
だからこそ、私は伝えたい。
「その慈悲心を宿すあなたは、悪くない」

何もしたくない状態は怠けていると罪悪感を感じているあなたへ:あなたは悪くない
うつ病等の症状により、何もしたくない状態であったり、心も体も動かない状態は、「何もしたくない」のではなく、「何も出来ない、動けない状態」です。ここで無理をすれば、症状や状況が悪化してしまいかねません。
生真面目な人は、このように申し上げても、やはりどうしたって、内側から罪悪感なり自責の念が、ふつふつと沸き上がってくる事かと存じます。
上で申し上げました通り、正論なり「それは仕方の無い事です、普通の事ですよ」と申し上げても、沸き上がってくる感情なり情念は、どうしようもなく沸き上がってくるものです。
「自分を許す事が大切です」と言われたところで、許せない事もありましょうし、だから自責の念が沸いてくるのでありましょう。
これは、あくまで私の経験則や、私が仏法から学んだ事であり、私独自の対処法ですが、もしかしたらこれで良い方向に向かう人がいて下さるかも知れないから、お伝えしておきます。
このような時は、無理に動く必要も無く、何もしたくないのならば何もしたくない、という状態のままで過ごす事です。
寝てしまっても構いません。
むしろ、何もかも放り出して、眠ってしまった方が良いくらいです。
目が冴えて眠れないならば、ぼーっとしていれば良いのです。
怠けて結構、「怠」という字は、学術的には全く違うかもしれませんが、「心の上に台(うてな)が乗っかっている」という、顛倒した状態です。
台の上に心が乗っかるまで、怠けてしまったり寝てやり過ごす事も、時には必要です。
本末転倒な状態であるのに、無理に動けるはずもありません。
「何もしたくない」というのは、心や体からの「何もするな、今、君は動けない状態なのだ」という、大切なサインかもしれません。
そのサインをきちんと受け取り、思い切って、心と台がきちんとあるべき位置に調うまで、しっかりと休む事が望ましいでしょう。
現代社会では、どうしても動くこと、積極性であったり活動的であったり、ポジティブであることが推奨されます。
忙しい世の中だと感じるものです。
そりゃ、そこについて行けない、でも真面目についていこうとする人は、心や体を壊して、その反動で「何もしたくない」という状態に陥るのも理解出来ます。
かつての私が、そうでした。
そして、真面目であるが故に、その状態に陥った自己に対して、罪悪感や自責の念を持たれるからこそ、辛く苦しむ事になります。
ただ、確かに是は、本当にしんどいし、苦しいことなのですが、一方で、私は仏法を頂くようになってからは、その罪悪感なり自責の念は、大切な安全装置を有している証であろうとも、考えるようになりました。
浄土仏教的な安全装置、という見方をしております。
浄土宗の法然上人も、真宗・浄土真宗の親鸞聖人も、お二人ともご自身の煩悩や凡夫の性を見逃さず、一生涯誤魔化さずに生きられた方です。
日本浄土仏教においては、高僧と呼ばれるお二方なのですが、私はこの誤魔化さずに生き抜かれたという事こそが、高僧と呼ばれる所以だという味わいを頂いております。
お二人は、比叡山で20年単位の年月をかけて、厳しい修行をなさった方ですが、修行をすればするほど、罪悪深重の凡夫性や、悟る事に到達しないどころか、煩悩に気づかされるばかりであると、悩まれたお坊さんです。
これは私の勝手な想像ですが、いくら修行をしても煩悩が消えないご自身に、もしかしたら僧侶としての罪悪感や自責の念を持たれていた可能性もあるのではないか、とも思うのです。
私は高僧のお話しから、罪悪感や自責の念に苦しみながらも生きていらっしゃる方は、ふつふつと沸き起こるどうしようもなさときちんと向き合われている、と思うのです。
無かった事に出来たり、誤魔化せるならば、そこまで苦しむ事もないはずです。
ふつふつと沸き上がる情念に、きちんと向き合われているからこそ、誤魔化さないからこそ、辛くて苦しまれているのだと、私には思えるのです。
そこに、誤魔化さない強さと慈悲を、私は見出しております。
そして何より、罪悪感や自責の念を持たれていると言う事は、「何とかしなければならない、何とかしたい」という能動性や、改善しようという意思も、同時に持たれているからではないかと存じます。
その事に気づかれたならば、改善したいというご自身の種に気づく事に到れば、一歩を踏み出せるきっかけとなりましょう。
そもそも、罪悪感を持つ事は、悪い事ではありません。
字面から、何となく悪いイメージを持たれる人も多いでしょうが、適切な罪悪感というのは、社会的にも宗教的にも、安全装置となり得ます。
そしてそれは、奥ゆかしさや謙虚さにも繋がります。
うつ病や「何もしたくない」という状態から立ち直った後に、傲慢になって暴走せずにいられる大切な要素でもあるのです。
何もしたくない状態で、罪悪感や自責の念が、内側からふつふつと沸いてしまうあなたは、決して悪くありません。
むしろ、奥ゆかしく謙虚に生きるための大切な要素をお持ちの、優しさや慈悲をお持ちの人なのです。
だから、正論めいたことを言っても苦しいだけだ、ということは十二分に承知しておりますが、それでも、私には伝えさせて頂きたい事が御座います。
あなたに何度だって言わせて頂きます。
「今、そこで苦しむあなたは、決して悪くない」
合掌