無念とは|仏教用語としての意味と辞書には載っていない教養

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは「無念」という言葉を、どのような意味や文脈で用いられているでしょうか。
092090 現代的な意味でしたら、「無念です。」と言われると、「残念な様」という意味で捉えられるのではないかとお見受け致します。

「残念無念、また来週」という言葉も、流行った時期があったように思い出されますが、これは後悔の念が残るという意味で捉えられます。



無念とは仏教用語であり、仏教用語としての意味を改めて学んで観ると、今後あなたが「無念」という言葉の使い所が、がらりと変わるやもしれません。

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無念とは仏教用語で意味も現代とは全く違う

無念とは、現代では「残念無念」とあるように、とても念が残るという意味として使われる場面が多々あります。

政治家のインタビューなり記者会見、更にはスポーツの世界でも「この結果は、大変無念であります。」というように使われます。

このような使われ方を目撃されたとき、あなたは「素晴らしい事だ。」とは、思わないであろうとお見受け致しますが、如何でしょうか。

私は、このような使われ方を観ると「ああ、念が残っているんだな」という捉え方を致します。

大体の人が、誰かが「無念であります」と言うと、「ああ、この人は残念がっていたり、後悔していたりするんだろうな。」と思われるのではないかとお見受け致します。



無念とは、冒頭で申し上げました通り、仏教由来の言葉、仏教用語であります。

仏教用語としての無念とは、
:何の念慮も持たない状態、執着や汚れた妄念を滅している状態
を表します。

つまり、全くもって念が残っていない、念慮を持っていない状態の事であり、念が無いから「無念」なのであります。



仏教用語としての意味を踏まえた使い方は、こんな感じです。

「この仕事をついにやりきった、無念だ。よし。」
「あまり良い結果では無かったけれど、やるべき事を全てやっての結果だから悔いはない、無念です。」

仏教用語としての意味で使っているこれらの無念とは、なんともすっきりとして、物事をやりきった、悔いはないという意味の味わいが御座います。



現代的な意味でしか捉えない人にこのような言い方、使い方を言ったら、「ああ、結果が出なくて悔しいんだろうな。」と思われてしまうでしょう。

スッキリした表情で「無念だ」と元気よく言ったら、変に思われているような、そんな場面が容易に想像されます。
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残念無念から、無念とは残念であるという意味にさすらったのだろうか

現在は、無念とは「残念無念」というように、「残念」という言葉がくっついて使われる場面が多々あります。

「非常に残念無念であります」とか「残念無念、また来週」という、例の使われ方です。

恐らく、この「残念無念また来週」と、残念をくっつけて使い続けてきたがために、「無念」の意味もさすらったのでありましょう。



このことについては、臨済宗の禅僧であられる玄侑宗久さんも、仏教語・仏教用語の解説本で仰っていました。



この「残念無念」は、仏教用語として学ぶと、「どっちなんだ?」と、ちょいと混乱してしまう表現なのです。



無念とは、上でお伝え致しました通り、「念慮が無い、執着や妄念を滅している状態」という意味であります。

それなのに、「残念」と、念が残っている言葉とくっついているというのが、なんとも意味不明な状態であると感じるのです。



現在使われている「無念」の意味が、「悔いが残る」という意味で使われるようになったのは、この「残念無念」という言葉が使われるようになったからだと、私は推察しております。

そして、この「残念無念」の「残念」が強調されて、それゆえに後ろにくっついている「無念」も、「悔いが残る」というような意味として使われるようになったのでありましょう。



なんとも、無念という言葉は、現在の使われ方について「無念」であるか「残念」であるか、察するところで御座います。
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無念無想の意味

無念という言葉を取り上げる際、現代では「残念無念」がよく使われますが、「無念無想」という言葉も、仏教を学んでいる人ならば連想されるところでありましょうか。



無念無想とは、「無念」も「無想」も同じような意味の言葉であり、同義反復の言葉であります。

残念無念とは対極にある言葉の使われ方であり、言葉の組み合わせと言っても良いでしょう。



この無念無想とは、
:柔軟喝即応力あのある、清らかなる心の状態
という意味です。

妄念が全く無い状態という事で、この状態が仏教、とりわけ禅仏教の理想とされている、とのことです。



これから「無念」という言葉の意味を、仏教的に、仏教用語としての使い方を学んだり、実践するのであれば、この「無念無想」という言葉を同時に学んでおくと良いかと存じます。
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無念とは「ぶねん」と読むと、これまた意味が変わる

上でお伝えしてきた「無念」という言葉ですが、無念とは「むねん」と読み進められてきたことであると、お見受け致します。

残念無念は「ざんねんむねん」ですし、無念無想とは「むねんむそう」と読まれたことでありましょう。



実は、無念とは「むねん」の他に「ぶねん」という読み方が御座いまして、この「ぶねん」という読み方でしたら、意味が全く違うのです。

「ぶねん」という読み方にすると、まさに「残念」に繋がる意味となります。



「ぶねん」と読む無念とは、
:入念ではない、うかつであること
という意味です。



準備を入念にしておらず、うかつな様相で事にあたった、という意味であります。

つまり「丹念に行っていない、念が入っていない」という意味で、読んで字の如く「無念(ぶねん)」ということです。

念を入れていないという事は、きっちりと意識して行っていない、心ここにあらずで丁寧に事を為していないという意味で、すなわち「念が無い」わけですから、確かに是も「無念」です。



この「ぶねん」という仏教用語としての意味を用いれば、残念無念の捉え方も、変わってきそうな気が致します。

「きちんと念を入れていないから、後悔するような結果となり、あの時に念入りに、入念にしておけば、という念が残る」という意味で「残念無念」を捉えたら、どうでしょうか。



私は、「無念(ぶねん)」という読み方と、その意味を知ってからは、「残念無念」はそのような味わいと頂き方をするようになりました。

残念無念とは「ぶねん」と読む、無念無想とは「むねん」と読む、この読み方と使い方が、仏教用語としての意味が保たれている、仏教的な頂き方だと思うのですが、如何でしょうか。
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無念という仏教用語と意味のさすらいから考える日本語の変遷

今回の話は、実は先日「池上彰のニュースそうだったのか」で、間違えやすい日本語という表題で、池上彰さんが話を進められていた番組を視聴して、記そうと思うた事であります。



現在、私が意地になって「無念とは、本来は残念という意味じゃないんだぞ、念が無い清らかな心の事だぞ、だから正しく使いなさい」と叫んでも、「ふーん」とか、そのくらいにしか思われない可能性が高いかと存じます。

その背景には、池上彰さんが「言葉は多数決という要素もあり、意味や使い方は変わっていくし、辞書にも複数の意味が記載されるようになっていく」と仰った通りだと、私も頂いております。



言葉は生き物とはよく言ったものであり、故に「言葉はさすらう」というのも、頷ける話であります。



ゆえに、私は「正しい日本語」や「間違った日本語」という言い方に、言いたいことはわからんでもないが・・・という、複雑な心境で御座います。

私としては、正しいだとか間違いではなく「旧来的な意味と使われ方か、さすらった後の意味と使われ方」という言い方で、言葉を捉えており、味わっております。

注意深く読まれている方なら気づかれたかも知れませんが、私は今回の表題である「無念」についても、正しいとか間違ったとか、申しておりません。

あくまでも「現代的な意味と使われ方」「仏教用語としての、仏教的な意味と使い方、味わい方」と申しておる通りで御座います。



もちろん、現代社会における「正しい」とされている意味と使い方を学んでおくことは、それはそれで大切です。

ただ、もしも相手が「間違った」とされている言葉の使い方や意味の捉え方をした場合、目くじらを立て乗るのでは無くて、そっと「正しい」とされている意味と使い方を伝える在り方が望ましい、私はそのように思います。



言葉の意味と使い方に正しさを求めるか、言葉のさすらいを味わった上で、旧来的な使い方と現代的な使い方を共に学ぶか。



この事を念頭に置いておくことで、「残念」となるか「無念」となるか、分かれるのでは無いかと思慮致します今日この頃に御座います。



合掌

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