マインドフルネス瞑想の注意点

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

本日、偶然「ためしてガッテン!」という番組を視聴する機会が御座いまして、表題・テーマが「瞑想」ということで、視聴しておりました。
092757 現在は、Google社やYahoo!Japanのような有名企業も、マインドフルネスや瞑想を取り入れられている企業も多く、Googleのマインドフルネスに到っては、本にもなっております。

私も、大垣書店の棚で、その類いの本を見たことであります。



「ためしてガッテン!」では、瞑想・マインドフルネス瞑想について、本当に入り口や概念的なこと、ちょっとした科学的なアプローチなり紹介で終わっておりました。

マインドフルネス瞑想や、坐禅、仏教的な瞑想に興味を持つ人も、この番組を通していらっしゃる事かと存じます。

スポンサーリンク

テレビ番組でマインドフルネス瞑想なり仏教の瞑想術について注意がある

瞑想というと、仏教を連想する人がいたり、坐禅を思い浮かべる方も、多いかと存じます。

私も、仏教と再会するまでは、そのようなイメージを持っておりました。

現在の私は、坐禅会に参加させて頂いたり、お寺で坐禅指導を受けるなどして、独学ではなく修行をされたお坊さんから教わった坐禅の仕方で、毎日させて頂いております。



また、プラユキ・ナラテボーさんや小池龍之介さんといった、原始仏教サイドから独自の瞑想を編み出したり、伝統的な原始仏教の瞑想を教えてくれる人もいらっしゃいます。

最近のマインドフルネス瞑想は、それらの瞑想を体系的に学び、そして実践出来るように、ある程度デフォルメ・簡略化されたという印象を持っております。



このようなさすらいを経て、一般的に広まっているマインドフルネス瞑想、仏教的な瞑想では御座いますが、注意点も御座います。



今回は、マインドフルネス瞑想を学ぶ前であったり、仏教の瞑想や坐禅に興味を持って、やってみたいと思う人に知っておいて欲しい注意点を、3つにしぼってお伝え致します。



これは、私が実際に教わったことや、学んで「これは注意した方が良いだろう」という、体験・経験に基づくもので、万人に必要な注意では無いかも知れません。

ただ、注意点もあると言う認識がある方が、今後あなたのマインドフルネス瞑想や、仏教的瞑想の役に立つかと存じます。
257412

瞑想・マインドフルネス瞑想の注意点1:瞑想に拘ったり囚われすぎない

仏教的な瞑想・マインドフルネス瞑想の一つ目は、
:瞑想に拘りすぎたり、囚われすぎない事
です。



一言で言えば「瞑想することに執着しない」という事であります。



坐禅や仏教的な瞑想、あるいはマインドフルネス瞑想にしてもそうですが、共通する事柄に「執着しない、囚われない、拘らない」という事を主眼と置いております。

人は思考する生き物と言われており、「ためしてガッテン!」でも、18万回だか20万回ほど、人は1日の内で思考を巡らしている、と解説されております。

どのように計測したか、その大元を知りたいところではありますが、人は思考する生き物であるというのは、何年も人として生きていれば、体感的に把握できる事でありましょう。

「人間は考える葦である」とは、なかなかに上手いこと言われたなあ、と、思います。



思考から解き放たれる、考えている状態に囚われている自我を解放する、と言うのが、マインドフルネス瞑想を始めとした、各々の瞑想が持つ一つの目的と言えましょう。



しかし、それを意識すると、今度は「マインドフルネス瞑想をしなきゃ、執着しないようにしなきゃ」と、その考えが浮かんできて、それに固執したり執着してしまうことが御座います。

「放下着(ほうげじゃく:すててしまえ!)」という禅語から、それを教わるところに御座います。

手放す事さえ手放す、という、禅問答らしい禅語だなあ、と、私は味わいを頂いております。



マインドフルネス瞑想、仏教的な瞑想に興じるのは結構ですが、それに囚われすぎない事、執着しない事も、念頭に置いた方が良いであろうと、私は頂いております。

スポンサーリンク

瞑想・マインドフルネス瞑想の注意点2:やってるからって、偉くないし自慢することではない

仏教的な瞑想・マインドフルネス瞑想の注意点二つ目は、
:瞑想のやり方を知っていたり、マインドフルネス瞑想をしている事による「勝他」
です。



どういうことかと言いますと、「勝他(しょうた)」という事からお伝え致します。



「勝他(しょうた)」は、浄土宗、あるいは真宗・浄土真宗を詳しく学んだ人ならば、ご存じの方もいらっしゃるやと存じます。

「三つの髻(もとどり)」という話で、法然上人がお弟子さんの聖光坊に説かれた教えの一つが、この「勝他」です。



「勝他」とは、字面から把握出来ます通り「他より勝る事」です。

他より勝り、その事で優越感に浸ったり、その事を自慢するという、自己顕示欲や承認欲求、自分は凄いと思われたい、また自分で思いたいという煩悩の一つです。



今回の話と照らし合わせますと、「マインドフルネス瞑想を、毎日やっている俺は偉い」と、錯覚する事であります。

「マインドフルネス瞑想を毎日やっている」のは事実ですが、それが偉いかどうかは別です。

こういう煩悩は、瞑想の話題から「実は自分は、毎日瞑想してる」と言いたくなって、ついついそれを言い放ち、「凄いね」と言われたら、褒められて嬉しくて、有頂天になる場面を想像して頂ければ、わかりやすいかと存じます。



周囲にいませんか、そういう「勝他」の煩悩全開の人。

また、他人事ではなく、現在の自分自身の事ではないか、という内省や自覚が、自己を調える一つのきっかけになります。



瞑想は、苦を和らげたり、自己を調える仏教的な手法であります。

自慢することや、他より勝っている、自己が調えられた自分を誇るために行うものではありません。

その事を忘れると、「マインドフルネス瞑想をしている自分は偉い」と思い、やっていない人を見下してしまう可能性も御座います。



こういう落とし穴に堕ちないように、自己を調えるように注意したいものであります。
057955

瞑想・マインドフルネス瞑想の注意点3:

仏教的な瞑想・マインドフルネス瞑想の注意点三つ目は、
:神秘体験の目的化や、作用に執着しない事
です。



一般的に、瞑想は仏教の修行の一つでもあり、その事から、ある種の宗教性を帯びていたり、宗教的な営みや体験を思う人もいらっしゃることでありましょう。

現代では科学的な要素も取り入れられて、マインドフルネス瞑想など、宗教色が薄められた状態で広まった事もあり、それが瞑想に親しみやすく、一般化した方法も次々と生まれてきた事の背景にあるかと思います。

ただ、それでもやはり「瞑想」という響には、何となく仏教由来の宗教的な味わいや色を見出す人も、まだまだ多いかと存じます。



そのためか、瞑想の目的は「自己を調うることなり」ではなく、何らかの神秘体験・宗教体験を得る事が目的として始める人や続ける人もいるのではないか、と私には思えるのです。



確かに、肉体を使う瞑想なり修行というのは、そういった神秘体験や宗教体験を経験する可能性は御座います。

しかし、その落とし穴に嵌まってしまったり、その神秘体験を目的化してしまい、それに執着すると、それこそ現実離れしてしまいかねません。

その典型的な恐ろしい事例が、某宗教団体の事件でありましょう。



そのような落とし穴に嵌まったり、錯覚に執着しないために、禅宗では坐禅で神秘的な体験をしたと言われても、「それはよかったですね」とか「忘れなさい」で、おしまいです。

褒めるでもなく、卑下することもなく、ただそのまま、流して下さいます。



伝道教団や、古来より培われてきた教義には、このような形で、神秘体験や宗教体験に執着したり、錯覚に陥らぬ安全装置やブレーキがきちんと御座います。

何故、そのような安全装置があるのかは、これまでの話の流れから、把握して頂けるかと存じます。

それは、神秘体験や宗教体験、瞑想・マインドフルネス瞑想による「気持ち良い」といった何らかの体験に、執着してしまわないためです。

瞑想をするにしたがい、「あの気持ち良く心地よい体験を、何度でも味わいたい」と思うようになったら、一度、自分と瞑想との関係性を、考え直す事が望ましいでしょう。



仏教的な瞑想、マインドフルネス瞑想は、自己を調えるための一つの方法であり、それに執着しない、これが良い距離感であり、良い塩梅であると、私は頂いております。
142916

仏教の瞑想やマインドフルネス瞑想など、一度は必ず指導者に直接指導を受けておきたい

今回は、仏教が伝える色々な瞑想、マインドフルネス瞑想などに共通する注意点について、お伝え致しました。



こうして、私も体験した事や、お坊さん達から直接教わったり、更に本等で学ばせて頂いた事をお伝えしてはおります。

お伝えしてはおりますが、やはり文字だけでは、どうしても言い損ねていたり、伝え着れていなかったり、伝え損ねている部分も多々御座います。



理想としては、やはりテレビや動画、本で読んだり聞きかじった知識で、独学で独りよがりな瞑想をするのではなく、一度は必ず指導者に直接指導を仰ぐ事が望ましいでしょう。



最近では、色々な場所で瞑想の講座や、マインドフルネス瞑想を教えてくれるセミナーも御座います。

また、京都に限らず、禅寺を始めとしたお寺さんで、坐禅や瞑想について指導して下さるところも御座います。

2016年9月の段階で総理大臣職に就かれている、安倍晋三総理大臣も、山岡鉄舟さんと言う武士縁のお寺さんで、定期的に坐禅を組まれております。

安倍晋三さんも、坐禅を組む時は、きちんとお坊さんに指導して頂いているわけですね。

ちなみに、そのお寺は臨済宗国泰寺派で、中宗根元総理も坐禅を組まれていたそうです。



坐禅も瞑想も、マインドフルネス瞑想も、必ず一度は指導者に直接指導をして頂き、注意点もきちんと聞いておくこと。

そうすることで、自己を調えるはずの瞑想が「迷走」になってしまわぬ道標を頂けるだろうと、私は思うております。



尚、マインドフルネス瞑想については、以前もこのお堂(ブログ)でお伝え致しております。

参照:「マインドフルネス瞑想とは何か意味を考える」

参照2:「マインドフルネスと瞑想の本3冊」

参照3:「小池龍之介さんの瞑想は丁寧な暮らしの智慧」



情報は示しておきますが、やはり一度は、お寺や瞑想講座なりセミナーで、直接学んでいたく事が望ましく思います。

坐禅をお寺で教わる場合、仏法に触れる良い機会でもあります。



合掌

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加