慢心の意味と類語|仏教用語と共に学び戒める

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

前回は、「慢心とは何か」という事について、毒されぬための仏教的な智慧と共にお伝え致しました。
480760 慢心とは何か、という、「~はそもそも何ぞや」と仏教的な問いを発し、慢心の意味についても、把握して頂けたかと存じます。

慢心に関する事柄は、仏教では戒めるべき事として、関連する言葉が幾つもあり、意味もそれぞれに御座います。

慢心の意味を、より深く理解して戒めていくには、仏教用語としても知られている、慢心に関連する言葉と意味を頂くのも、一つの方法であり、仏法に触れて智慧を頂ける機会でも御座います。

また、それに関連して、類語を学ぶことも、なかなかに宜しい意味の学び方であると、私は考えております。



今回は、慢心の意味をより深く理解して、日々の暮らしに落とし込む一助として、類語と仏教用語からも学ぶ時と致します。

スポンサーリンク

慢心の意味

慢心の意味を、より深く味わいつつ理解を深め、戒める事につなげるために、まずは慢心の意味をおさらい致しましょう。



慢心の意味は、国語辞典的な解答をするならば、
:心の中で自分を自慢する事、おごり高ぶった心
です。



自慢する心や、実際に自慢している有り様をまき散らしている姿や心の様相が、慢心の意味するところに御座います。

要するに「自慢の心、おごり高ぶりの心」です。



そして、前回もお伝え致しました通り、これは褒められたりすると嬉しくなるという性質を持っている人間であれば、誰しもが持ち合わせている心模様であると、私は頂いております。

慢心が完全に無い、欠落しているという人は、探せばいらっしゃるかもしれませんが、多くは無いだろうと言うのが私の感覚です。

慢心の意味を頂く際、私ならば「誰しもが持ち合わせている驕り高ぶりや自慢の心」と、付け加えます。



ただ、誰しもが持ち合わせているとしても、修行により、慢心を小さくしていくことは出来るかもしれません。

人は、何らかの御縁によって、価値観ががらりと変わることにより、まさに「人が変わったような」という変化を体験する事も御座います。

仏教・仏法では「回心(えしん)」と表現する事がありますが、まさにそれが性格が変わったり、慢心などの心が極限まで小さくなる、あるいは慢心からは逃れられずとも、きちんと気づいて表装させない智慧が備わるきっかけとなり得ます。



このことについては、真言宗の僧侶であられる名取芳彦さんが、「ためない練習」という本で、伝えて下さっています。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

ためない練習 [ 名取芳彦 ]
価格:637円(税込、送料無料) (2016/10/20時点)





この本の「自分の性格はどうにでも変えられる」という項目にて、ある医師から
「性格はなおるでしょ、それを仏教で修行と言うのではありませんか。」
と言われたエピソードを紹介して下さっています。



慢心という煩悩燃えさかるような生き方をしていて、そのような性格を肥大化させていたとしても、きちんと「慢心とは何か」という問いを頂き、意味もきちんと考え抜く。

その上で、慢心から離れる、あるいは小さくしていく修行なり日暮らしに励む。



その事が、一つの修行にもなりましょうし、慢心を表装させない智慧に繋がるのではないか、このような味わいを私は頂くに到っております。
092757

慢心の類語から意味を深める

慢心の意味を、より深めて行くときに助けとなるのが、類語からの接近・アプローチです。

類語を学ぶと言う事は、表現の幅を広めると共に、その言葉が意味することや文脈の理解を深める一助となりましょう。

また、一つの事柄を角度を変えて伝える時にも、類語を知っているか否かで変わってくるものです。

この人には鋭角気味に伝えた方がよい、この人はやや鈍角気味に、というのは、関連する事柄や類語、言うなれば「ボキャブラリーの豊富さ、多様性」が深く関連していることは確かであろうかと存じます。



と、言うわけで、慢心の意味を深く理解し、戒める一助とするためにも、類語を巡る旅を少しばかり共にしてましょう。



慢心の類語として、真っ先に連想するのが、「過信(かしん)」「自惚れ」「驕り・傲り・おごり」でありましょうか。

「過信」と関連して「自信過剰」「思い上がり」も、慢心の類語として列挙しても宜しいかと存じます。

「得意気、自慢、自慢気」というのも、慢心の類語と言われても、違和感なく頂けると思うております。

得意、得手であるということは事実としてあっても、それを鼻に掛けたり自慢する事は「得意気」という、慢心の類語になるという事です。

四字熟語でしたら「自画自賛(じがじさん)」も、慢心によるもの、慢心のなせる業として、類語として認識しております。



仏教とも関連のある言葉を用いた慢心の類語として、私は「驕心(きょうしん)」という言葉を紹介致します。

「驕心」とは、「驕り(おごり)の心」という意味で、慢心の類語・同義語です。



「驕」は、馬の部分が立心偏である漢字もあり、立心偏の方は「正信念仏偈」にも記されている言葉です。

機種依存文字と言いますか、コンピューターの環境いかんによって、表示出来ないという事も有りまして、ここでは「驕」という文字で表記しております。



このお堂(ブログ)でも、何度か正信念仏偈の「邪見驕慢悪衆生」とお伝えしておりますが、この「驕」が正信念仏偈では立心偏の漢字が使われている、ということです。

正信念仏偈の「驕慢」または「邪見驕慢」も、慢心の類語ですね。

そもそもとして、「驕」の立心偏にした言葉そのものが、仏教においては煩悩の一つとして説かれているのです。

このことは、類語として頂く仏教用語のところで、更にお伝え致します。



慢心と意味が似ている、またはほぼ同等の意味である慢心の類語は、このようなところでありましょうか。
スポンサーリンク

慢心の意味を仏教用語から深める

慢心の意味を、より深めていく一助としまして、今度は仏教用語と言いますか、仏教が説く「慢(まん)」の話に移行すると致しましょう。



「慢」と宗教につきましては、以前に「傲慢(ごうまん)」の表題にて、お伝えした事が御座います。

参照:「傲慢の意味を宗教から学ぶ|嫌な奴にならないための注意と智慧」

参照2:「傲慢な人から謙虚な人になるエトス」



「傲慢」や「高慢」は、キリスト教でも戒める罪として説かれていることであり、仏教でも「慢」は戒める煩悩として、説かれております。

解説書や宗教全般を取り扱う本、説明する人にとっては、「キリスト教の傲慢に当たるのが、仏教の慢」と解説される方もいらっしゃるようです。



仏教が説く「慢」は、慢心の事であるとも言えますし、慢心から慢の煩悩が燃えさかって肥大化していく、という捉え方も出来ます。

そして仏教においては、この「慢」について、更に細かく分類して説かれております。

唯識や仏教の基礎的な部分を学んだ人でしたら、その辺りについては、復習的に読んで頂ければ幸いです。



仏教が説く「慢」の意味は、
:自らを高くし、他を軽視する自己中心的な心の在り方・心情
です。



まさにこれは「慢心」の意味を説明しているとも言えますし、「慢心とは?」と問われたら、このまま伝えても伝わるかと存じます。

そして、この「慢」の煩悩は、「三慢」「七慢」、あるいは「九慢」という具合に分類されます。

これらを細かく見ていく事も出来ますが、それを始めてしまうと、あまりにも長くなってしまいますから、ここでは代表的な事柄だけお伝えするに留めます。



仏教が説く「慢」において、最も有名な慢の分類は「七慢」であろうかと、私は認識しております。

「七慢」の分類は、列挙すると「1:慢・2:過慢・3:慢過慢・4:我慢・5:増上慢・6:卑慢・7:邪慢」が御座います。



「我慢」と「増上慢」、特に我慢は、日常的によく見聞きする慢の言葉でありましょう。



「我慢」は「忍耐・忍辱」と混同されて説明されたり、覚えられることもあるでしょうが、実は「慢」の煩悩なのです。

「我慢している俺って偉い!」というのは慢心を産みだしますし、我慢から始まる自己陶酔も御座います。

「我慢ではなく堪え忍ぶ」と言う事が、本来的目指したいと思える在り方であろうかと存じます。



「増上慢」とは、悟ってもいないのに、「自分は悟った」と思念しておごり高ぶった慢心の事です。

これもまた、現代社会では見かける事がたやすい在り方で御座いましょう。

「俺は正しいやり方を知っている」「俺はこんな事が出来ている、だから俺に素直に従え、素直さが大切だ」と、ご高説垂れている我利我利亡者は、まさに増上慢の権化です。

これも反面教師として頂き、「これが増上慢か、自分にも宿っていることで、表装しないように戒めないと」と、自己研鑽に使わせて頂くのが、宜しいかと思います。



類語のところでも少し触れましたが、類語に関連する「慢」の煩悩に、「驕(きょう)」が御座います。

これは、上で説明しました通り、立心偏が本来の文字ですが、機種依存文字と言う事で、「驕」と書かせて頂きますことを、ご勘弁願うところであります。



上でお伝えしました通り、「正信念仏偈」「邪見驕慢悪衆生」という言葉にも観られる事で、凡夫、つまり我々人の性(さが)として、説かれております。

この「驕」は、慢の煩悩の中では、「随煩悩(ずいぼんのう)」「小随煩悩」に分類される慢で、意味は「驕り高ぶり」です。

慢心の類語として「驕慢」や「驕心」を伝えさせて頂いた事には、このような仏法に由来します。



あまり長く語りすぎると、収拾が付かなくて消化不良になりますが故に、この辺りで留めて置きますが、慢の煩悩を細かく観ていくと、いかに「人」という生き物は、慢の煩悩があるかということがわかってきます。

それらをきちんと学び、自分事として頂く事が、そのまま謙虚に奥ゆかしく生きる智慧というのが、私の味わい方であり、頂き方で御座います。
302704

慢心の意味の理解を深めて、自分事として謙虚に生きる

慢心の意味を、類語と仏教用語と共に学び、味わいを頂いて参りました。



慢心した人は、特にインターネットビジネス業界を見渡してみれば、沢山見つかります。

ブログやメールマガジン、あるいはSNSの類いを使って情報発信しているという特徴から、見付けやすいというのも要因でありましょう。

観る人が観れば、「ああ、増上慢に毒されているな。」「邪見にて驕慢に陥っている」「覆(ふく)と慳(けん)で暴利を貪ろうとしているな」等々、感じ取れるものです。

ネットビジネス系、自己啓発系ビジネスや、その業界にいる自称コンサルタントや高額塾、セミナー講師の類いなる我利我利亡者は、大体が「覆、慳、驕、誑」辺りの慢に毒されております。



大切な事は、それら我利我利亡者や詐欺師を小馬鹿にすることではなく、自分にも起こり得る事として自覚し、そこから戒める事です。



小馬鹿にして安心しているのは、それこそ「慢心」であり、慢の煩悩にやられていることに繋がります。

人の振り見て我が振り直せ、とはよくいったものです。

人の振り見て己を戒め、調えていくことが、仏教的な智慧であろうと、私は頂く次第で御座います。



尚、今回の話に関連して、前回の話と有頂天の罠なども、合わせて学ぶ事により、より気づく機会として頂けるかと存じます。

参照:「慢心とは人の性|毒されないための方法と注意点」

参照2:「有頂天の意味|増上慢の罠にご注意を」



慢心に毒されぬ道を歩んで頂ける一助となりましたら、嬉しく思います今日この頃です。



合掌

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加