有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは、慢心とはどのような心で、どのような連想・イメージをお持ちでしょうか。
慢心について少し調べると、何かの作品のキャラクター・登場人物が、「慢心せずして何が王か」という台詞を発するそうです。
丁度、上の猫の絵が、それを表現してくれているのではないかと存じます。
私は、王様や権力を握っている人物が「慢心せずして何が王か」と言うと、盛者必衰の理を知っておいた方がよいかと、お節介なことを思う次第で御座います。
「慢心せずして何が王か」よりも、「さらば慢心」「慢心、ダメ、絶対」という標語の方が、仏道を歩む、また人生という娑婆世界で生きる道標になるような、そんな気が致します。
とにもかくにも、慢心とは、あまり宜しいイメージではない言葉であり概念である、と言うのが、現代社会における共通認識では無かろうかと存じます。
慢心とは、誰しもが持つ人の性(さが)と心得る
慢心とは何か。いきなり結論から申し上げますと、慢心とは「誰しもが持つであろう人の性質」であると、私は考えております。
「いやいや、私は慢心なんてこれっぽっちもありませんよ。」「私は謙虚です、慢心とは無縁です」と、仰る方もいらっしゃるやもしれません。
そう思いたいのも人の性(さが)であり、釈尊(お釈迦様)が仰るように「誰しもが自分が一番可愛い」という教えに照らし合わせれば、自ずとそのように思いたくなる心の芽生えも、頷けます。
しかし、そこに水を差すような話を繰り返しますが、私は「慢心とは、人である以上、大なり小なり誰しもが持ち合わせている心の性質」と、捉えております。
もちろん、本当に謙虚で、慢心が表立って全く見えない人もいらっしゃることでありましょう。
そのような人の場合は、慢心を表に出していないだけで、上手くコントロールしていたり、安全装置を上手につ買われているから、という見方をしております。
実際に、何十年もお坊さんとして生きていらっしゃる方から伺った話でも、「この年になっても、慢心からは逃れられない、気づかされるばかりです。」と、教えて頂いた事が御座います。
私から観たら、凄く謙虚で物腰が穏やかなお坊さんだったのですがね。
そのお坊さんは、恐らく「慢心とは逃れられない人の性(さが)」という事を自覚して、その事に日々気づかれて戒められているという事なのだと、頂くに到りました。
修行をして仏道を歩み続け、衆生に仏法を届けて下さる、高僧と呼ばれるお坊さん・僧侶でも、このように慢心という事に対して、自覚をお持ちです。
浄土宗の御宗祖様であられる法然上人も、真宗の御開山聖人であられる親鸞聖人も、御言葉からそのような自覚のお味わいを頂く事も御座います。
親鸞聖人は「一念多念文意」にて、
「凡夫というふは、無明、煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、瞋り腹だちそねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで、とどまらず、きえず、たえずと」
と記して下さっています。
また、「正信念仏偈」には、「邪見驕慢悪衆生」と、「驕慢(きょうまん)」が慢心と同じ意味ですから、凡夫の性質を言い表されています。
仏道を歩み、仏法を説かれる高僧でさえ慢心の自覚を持たれているのです、いわんや我々凡夫は、といったところであります。
「慢心とは、人であるなら誰しもが持ち合わせる性質であり凡夫の煩悩である」
「慢心とはなんぞや」という問いを頂く事と、このような自覚をしてをしておくことは、慢心の毒に当てられない、支配されない一歩目ではないか、私はそのように思うております。
慢心とは肥大化する
慢心とは何か、それは「人ならば誰しもが持ち合わせる性質」と、私は解釈しております、と申し上げました。そして、この誰もが持ち合わせているであろう慢心とは、ある特徴を持っている、と、考えております。
それは、「慢心とは肥大化する煩悩である」ということです。
心が「慢心」という状態に陥ったとき、それに気づかずに放置してしまうと、どんどんと肥大化してしまう、という特徴があるというのが、私の考えです。
典型的なのが、よくあるなんちゃらビジネス、インターネットビジネス関連の業界でよく観られる現象ですが、どんどんと収益が上がっていることを、聞かれてもいないのにブログなどで報告し続けている輩です。
プロフィールを読むと、「いついつには何万円達成、いついつに何十万円達成」など、あのような事をやらかしている輩です。
これらは、お年玉の金額を自慢するレベルの、可愛い慢心とも思えなくもありません。
厄介なのは、お客様に賜った金銭であるのに、「自分の力だけで稼いだ金だ、自力で稼ぐ力が俺様はこんなにあるのだ」というひけらかし方です。
これは、お客様が見えていない状態で、亡者の眼になってしまっています。
まさに、慢心という煩悩に蝕まれた状態と言えましょう。
少なくとも、餓鬼道には堕ちている状態です。
このような状態を放置してしまうと、どんどんと肥大化した慢心に毒されて、戻って来る事が出来なくなります。
「慢心とは、肥大化する厄介な煩悩である」という事を、肝に銘じて置くことが肝要です。
慢心した亡者の実例
上の事例でお伝えした、慢心に毒された亡者の実例は、現在はインターネット上で沢山見つかります。もちろん、それらは笑いものにしたり馬鹿にするのではなく、反面教師として頂き、自分事として捉え、自己研鑽や自己の戒め、現在の自己の慢心度合いを確認するために使わせて頂くのが、仏教的な味わいかと存じます。
そこで、反面教師という材料にして、戒める一助となれますように、慢心した亡者の具体例を、私が観てきた中から一つだけ例をお伝え致します。
今から話す事は、インターネットビジネスだとか、なんちゃらビジネスのコンサルタントを名乗る輩の話です。
学生時代に、運良くお金と御縁があり、それで大学を中退してコンサルタントを名乗るに到った我利我利亡者の事例ですが、最終的に詐欺をやらかして呪われた亡者の実例です。
そやつは、メールマガジンやら何やらで、「僕は稼がせるのが得意です」と、宣っていました。
私は「この自信は慢心による過信か否か」を知りたくて、そやつの連れを知っていた関係で、何食わぬ顔をして潜入捜査員を気取って、ちょいと潜入して観ました。
結論から申し上げますと、学生気分でコンサルティング業をやっている、言うなれば「コンサルごっこ」をやってしまっていた、痛々しい憐れな我利我利亡者であることが判明致しました。
約束の時間に遅刻は1時間以上するわ、それに大して反省は無い上にまた遅刻するわ、コンサルすると良いながら教える気が全く無いわ、段々と対応が雑になるわ。
挙げ句の果てには、お金を全て回収し終わった途端「もう辞めたら?」と、言ってくる始末です。
要するに「実力も無いのに、集金のためだけに大きな事を宣っている、肥大化した慢心の塊」です。
仏教の戒めから観ても、この時点ですでに妄語(もうご)と綺語(きご)の戒めを破っております。
そもそもとして「稼がせる」という表現を平気でやらかしている事がいかなることか、に気がついていない時点で、人様から財を賜る、お金を頂いてはいけない事を物語っておりあす。
他にも「自分は稼がせる天才」とか宣っている輩もおりますが、大体こんな事を宣っている我利我利亡者は、肥大化した慢心に毒された、単なる自信過剰のナルシストです。
このような輩を見かけたときは他人事と思わずに、自分も縁が調えばこうなってしまいかねない、だから戒めねば、と、己の慢心に毒されぬ智慧を身につけておくことが大切です。

慢心の毒にやられない方法と注意点:己の慢心に気づく
慢心という煩悩に毒されないためには、毒されない智慧となる方法を学び、実践する事が大切です。同時に、その方法にも注意が必要ですから、その辺りの事をお伝え致します。
慢心という煩悩に毒されぬ方法で、私が実践しているエトス(行為様式)は、
:己を顧みる安全装置やブレーキとなるエトスを、毎日何処かにセットしておく
ということです。
私の場合でしたら、これは毎朝と毎夕・夜の「勤行」です。
お仏壇の前で、浄土宗の勤行・お勤めを毎日させて頂いておるのですが、その中に、自己を問い調える偈文や御経さんが盛り込まれております。
浄土宗の場合でしたら、法然上人が書き残して下さった御言葉が、「己の慢心とは何か、慢心に毒されておらぬか」という自己点検・自己観察をさせて頂けることに御座います。
また、真宗・浄土真宗ですと、歎異抄や真宗教義に、そのようなエッセンスがあるという事を、浄土真宗本願寺派の僧侶であられる釈徹宗さんが教えて下さいました。
参照:「釈徹宗さんの情報まとめ」
釈徹宗さんが仰るには、社会活動などで善い事とされることをしている時、真宗教義や歎異抄が「自分が良いことをしていると思うなよ」「それは自分都合でやっているだけに過ぎないのでは無いのか?」という、問いとなるささやきを実感している、という事だそうです。
善い事をしていると、時々「自分はよいことをしている善人である」と思い、そこから慢心に火がついて、どんどんと肥大化してしまいます。
そうならない教えが、仏教の各宗派にはあり、それが安全装置やブレーキとなって下さいます。
他には、「慢心とは何か」という仏教的な問い方をところどころでしておく事も、安全装置と働く智慧の一つです。
社会的に善いと思われる事に従事しているときや、何かが上手く言って有頂天になっているとき、そのような時は慢心が肥大化する危険がある状態です。
その事に気づける智慧を、具体的な方法として身につけていくことは、謙虚に生きる事にも繋がり、よき智慧ではないかとお見受け致します。
ただ、注意点も御座います。
己の慢心を問いただし、毒されぬ智慧と方法を身につけたとしても、その後に「自分はこの方法を毎日やっているから大丈夫だ」というのも、これまた慢心に繋がります。
仕事を上手にするために、仕事に関するセミナーに行って、習った事を実践するのはよいけれども、その事を自慢しているのも、やはり慢心と言えるでしょう。
「これをしているから大丈夫」だとか「自分は悪人の自覚があるから大丈夫」という在り方・考え方も、これまた慢心である、ということです。
「自分の慢心に気づいている自分は偉い」と思わずに、ただ淡々と戒め続ける事、これが慢心という煩悩に毒されない智慧であろうかと存じます。
慢心とは何か、を考える際、慢心と似たような心理や在り方については、このお堂(ブログ)でも何度かお伝えしております。
参照:「自己顕示欲の意味と抑える方法を仏教から学ぶ」
参照2:「自己顕示欲とは|「うざい」と嫌われないために学ぶべき事」
参照3:「自己顕示欲の強い人の心理|嫌われないために学ぶ仏教の智慧」
自己顕示欲が満たされたら、慢心も肥大化することで御座いましょう。
また、嬉しい事があって有頂天になった場合も、要注意です。
参照:「有頂天の意味|増上慢の罠にご注意を」
有頂天の状態を満喫するのは結構ですが、それは少しだけにして、慢心が肥大化する前には戻ってきたいもので御座います。
合掌