有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
以前に、彼岸花(ヒガンバナ)という、お彼岸の季節に観られる花の話を致しましたが、その中で別名が沢山在るともお伝え致しております。
私が連想する仏教的な響きを感じる彼岸花の別名は「曼珠沙華」です。
「曼珠沙華」は、読み方を「まんじゅしゃげ」と言いまして、仏教的な響や情緒、風情を感じるのです。
曼珠沙華にまつわる話を紐解いて行くと、仏教にまつわる話や意味が御座いまして、仏教的味わいがあるのも頷いて頂けるものかと存じます。
また、彼岸花・曼珠沙華の花言葉やその意味にも、仏法を学べるものが御座います。
曼珠沙華の意味
曼珠沙華は、「妙法蓮華経(法華経)」を読んだ事がある人や、読む宗派の人でしたら、その意味をご存じかと思われます。曼珠沙華とは、その意味やまつわる話が、法華経に登場するのです。
曼珠沙華の意味は、
:天界の花・天上の花
です。
言葉そのものの意味としては、曼珠沙華のサンスクリット語での発音「マンジュシャカ」は、「赤い」という意味です。
彼岸花は赤い花ですから、色との関係で、彼岸花の別名に、曼珠沙華も使われるようになったのであろうと頂いております。
つまり、地上のお墓・墓地に咲いている、我々が通常「彼岸花」として認識している花とは、風情が違った神々しさと言いますか、雰囲気がある言葉であり、意味であります。
さらに由来をお伝え致しますと、法華経の第一序品には、「蔓陀羅華、摩訶曼陀羅華、蔓殊沙華、摩訶蔓殊沙華、而散仏上」という一節が御座います。
これは、仏様、つまり釈尊(ゴーダマ・ブッダ)が説法中に、華が頭上から降り注いできた、という場面です。
「大小の白い蔓陀羅華と、大小の赤い曼珠沙華という、四華が仏様の上に降り注いだ」という風景を表したのが、この法華経に御座います一文です。
「摩訶(まか)」というのは、摩訶不思議などの摩訶で、「大きな・大きい」という意味の言葉です。
つまり、大きな曼珠沙華もふっているという風景を言語化したものであります。
ちなみに、「曼荼羅華」というのは、白い蓮(はす)の事です。
曼珠沙華は赤い蓮の事であり、曼荼羅華と曼珠沙華という大小紅白の蓮が降り注いでいる、そのような美しさを感じる情景描写であります。
そして、「赤い」という意味の「マンジュシャカ」が、東へ伝わり「曼珠沙華」という音写がなされ、いつしか「まんじゅしゃげ」という読み方と相まって、今に到ります。
この辺り、どのような経緯を経て、天界の花という意味がある曼珠沙華が、彼岸花の別名となったのか、定かでは御座いません。
ただ、僧侶や辞典の説を読んでみると、日本に伝わっていく内に、土着の信仰や宗教などと絡み合い、赤い彼岸花の別名となっていったのであろう、という事で御座います。
天界の花という意味もある曼珠沙華が、「赤い」というサンスクリットの意味との結びつきもあったのでしょう、それが毒性のある救荒植物の彼岸花の別名となるとは、さすらいの摩訶不思議さを感じます。
曼珠沙華の読み方と文字の意味にも仏教的な味わいがある
私は、「曼珠沙華」の読み方である「まんじゅしゃげ」にも、仏教的な味わいを頂いております。サンスクリット語で「マンジュシャカ」は「赤い」という意味で、「まんじゅしゃか」という読み方は、山口百恵さんの詩「曼珠沙華」の歌詞にも登場するそうですね。
この辺り、私は山口百恵さんの年代では御座いませんから把握しかねますが、「確かに」と頷かれた人かどうかで、年代がわかりそうな気が致します。
この「まんじゅしゃげ」という読み方に、何故仏教的な味わいを私が感じているのか。
まず、「まんじゅしゃげ」の「げ」ですが、これを「か」と読まずに、「げ」と読む事にポイントが御座います。
例えば、仏教とも深い関わりを感じる花に「蓮華(れんげ)」があります。
その他に「華(げ)」という読み方の例として、禅語に「拈華微笑(ねんげみしょう)」という言葉があるのですが、これも読み方は「げ」です。
「華」を「げ」と読むのは、このような言葉を知るご縁を頂いたという事もあり、私は仏教的な響を感じるのであります。
また、「曼珠沙華」を音写した文字にも、仏教の趣を味わっております。
「曼珠沙華」の文字全てが、仏教の経典や偈文、まつわる話を知っていたら、観る言葉でありますがゆえに、仏教的な味わいを頂いておるのです。
「曼」は、「長引く、長く跡を引く」という意味の言葉ですが、「曼荼羅(まんだら)」を連想させて頂ける文字であり言葉です。
「珠」も、浄土宗ではお念仏の数を数えるために必要な「数珠」にも使われている文字です。
「沙」は、「沙羅双樹」や「恒河沙」など、これまた仏教に縁を感じる文字で御座います。
「華」は、上でお伝えした通り、蓮の華を連想させてくれる言葉であります。
「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」という漢字の意味と読み方それ自体が、私にとっては仏教的な味わいを頂ける言葉であるのです。
これだけ、仏教的な味わいを含んでいる「曼珠沙華」を、彼岸花の別名という説明だけで終わらせるのは、なんだか勿体ない気がするのは、私の煩悩でありましょうか。

曼珠沙華・彼岸花の花言葉の意味も、仏教的に味わう
曼珠沙華の花言葉、つまり彼岸花の花言葉でも御座いますが、花言葉の意味にも、仏教的な味わいを頂いております。現在、日本では曼珠沙華より彼岸花という呼び方が一般的で、花言葉も彼岸花に感じるパトス(精神性)に準じていると思うておりました。
しかし、いざ蓋を開けてみますと、曼珠沙華、つまり彼岸花の花言葉は、
:あきらめ、再開、転生、また会う日を楽しみに
などが御座います。
暗い印象の花言葉には、「悲しい思い出」というのもあるのですが、意外や意外、なかなかに仏法を学ばせて頂ける花言葉があったものです。
ちなみに、仏教において「転生」は、「女神転生」のように「てんせい」という読み方以外に、「てんしょう」という読み方もあります。
「後生の一大事」の「後生」を「ごしょう」と読む事を思い出して頂ければ、おわかり頂けるかと存じます。
この花言葉を知られて、もしかしたらあなたは、「あきらめって、悲しい方面のことばじゃないか。」と、思われたやもしれません。
しかし仏教において、「あきらめ、あきらめる」は「事柄を明らかにする」という意味が御座いまして、「お手上げ状態」という、現代的な意味とは違う意味合いがあります。
また、彼岸花の咲く場所に墓地が多いと言う事から、その事に繋がるパトス(精神性)もあったのでしょう。
「転生、また会う日を楽しみに、再開」というのは、浄土仏教徒・念仏者であり在家仏教者の私としましては、御浄土での再開を連想させて頂ける味わいが御座います。
そして、これは「法華経」で表現されていた「曼珠沙華・摩訶曼珠沙華」をも思わせて頂ける美しさも思わせて頂けます。
浄土教において、極楽浄土へ往生した時、生まれ出でる場所は「蓮の台」です。
以前もお伝え致しました通り、蓮の台にまつわる美しい表現も御座います。
参照:「一蓮托生の意味と使い方」
また、仏教において、「生」の字は「せい」と「しょう」という読み方を使い分けております。
それを踏まえて、「転生」を「てんしょう」と読むと、「再開、また会う日を楽しみに」とも繋がっていきます。
彼岸花の別名として認識されている曼珠沙華ですが、それが法華経で使われている意味の曼珠沙華に読み替えたら、「浄土で蓮の台で再開を楽しみに」という意味に、捉えなおす事も出来るのではないでしょうか。
これはあくまで、私の勝手な解釈による味わい方と頂き方ではありますが、このような味わい方の方が、何となく明るさがあると思うておりますが、如何で御座いましょうか。

花の意味や花言葉を味わう楽しみを
今回は、曼珠沙華の意味と花言葉について、彼岸花の別名だけでは終わらない味わいを共に致しました。私の場合は、仏教的な味わいを頂き、仏法をそこから学ばせて頂くという味わい方を紹介させて頂きました。
今回の表題は、曼珠沙華と彼岸花ではありましたが、この話をきっかけとして、各々が色々な花の意味と花言葉を、味わって頂ければ嬉しゅう御座います。
それに関連する事柄を、こちらにも記載しております。
参照:「蓮の花言葉の意味と仏教用語」
参照2:「紫陽花(あじさい)の花言葉に学ぶ仏法」
花の味わいを深める一助となり、あなたの人生が華やかになりましたら、幸いで御座います。
合掌