有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
私は、昔からよく「君は真面目だね」と、言われてきたものであります。
真面目な事が揶揄される事もある昨今の世の中において、「真面目で面白くない奴だ」とも、しばしば言われておりました。
私は私に対して、真面目な人だとはなかなか思えず、そもそも「真面目とは何ぞや」と、問うておる次第で御座います。
現在は、何やら「真面目系クズ」という概念があり、特徴も色々と羅列して説明されております。
真面目系クズの特徴を読む限りにおいては、私にもろに当てはまるなあ、と、味わいを頂いておるものです。
真面目系クズとやらの特徴を大まかに
真面目系クズとは、要約すれば「一見真面目だけれども、中身がクズである事」だそうです。人の言う事、親や先生、目上の人と呼ばれる存在の言う事はきちんと聞くから、一見真面目そうに見えるけれども、努力家であったり熱心に動くような人ではない、という意味があるそうな。
私も、そのような性質・もちまえが御座いますから、概要の時点ですでに当てはまると、頂いております。
そして、真面目系クズの特徴を一度調べて読んでみたのですが、これまた項目が多いこと。
まず、
:眼鏡をかけている
というのが、真面目系クズの特徴だそうです。
眼鏡を掛けている人は、この娑婆世界に一体どれだけいるんだ、と、思わず突っ込んでしまった項目であります。
また、
:よくわからん微妙な髪型で黒髪
というのも、なんとも抽象的でわかりにくい特徴であります。
一つの髪型について、人によっては素敵な黒髪であるかと思えば、格好悪い髪型と捉える人もいらっしゃるでしょうに。
それに、黒髪に限定しているのが、また解せません。
:いろんなものに偏見を持っている
:口論になると絶対に勝てない
というのも、真面目系クズの特徴だそうで、これも私に当てはまっております。
東本願寺の御法話に赴いたとき、最初に正信念仏偈をお勤めさせて頂く事がありますが、そこに「邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」とあります。
「まさに私のことである、では邪見驕慢な私は、どう人間を生きるか」と、いつも問いを頂き問わせて頂いております。
この「邪見(じゃけん)」は仏教用語・仏教の言葉であり、偏見も含まれています。
人はどうしたって、何らかの価値観や固定観念が備わっていき、それが偏見へと繋がります。
価値観や固定観念そのものが、邪見と言い換えても過言では御座いません。
このように頂くと、「いろいろなものに偏見を持っている」のは、全人類当てはまるような気が致します。
また、私は口論になると、絶対かどうかは分かりませんが、大概勝てません。
と、言いますか、そもそも議論・ディベートの類いは増えてであります。
私の場合、そもそもが議論する気も無ければ勝つ気もありませんし、相手が「なるほどなあ。」と頷ける事を発言して下さったら、有り難く味わい、頂くような生き物です。
これって、真面目系クズの特徴なのでしょうかね。
他にも、真面目系クズの特徴と呼ばれる特徴は多々あり、一つも当てはまらない人はいないのではないか、と考えさせられる概念で御座います。

真面目系クズの特徴は誰しもが一つは持っているのではないか
真面目系クズの特徴を色々と読んでおりますと、どうも「誰しもが、一つは当てはまるのではなかろうか、大なり小なり幅はあるけれども、人の性質やパトス(精神性)ではなかろうか」と、私には思えてきます。そして、その根源と言いますか、根本的なパトスの有り様は、仏教においてはこの話で、学ぶ事が出来ます。
これは、「サンユッタ・ニカーヤ」にて、釈尊がコーサラ国の国王夫妻に説いた話として記されており、人の性質・もちまえと、それゆえの戒や己を律する教えを説いて下さっています。
「サンユッタ・ニカーヤ」にて、国王夫妻は「自分が可愛いと思う」と、自分可愛さ、自己は自己を大切い思い、自分以上に愛せる人はいない」という事を思います。
そこで、その考えは間違っているのでは無かろうかと、釈尊に尋ねに行きます。
そうすると釈尊は、
「人は自分が一番愛おしく思い、他人にとってもそれぞれの自分が愛おしいと思うものです。」
と、説かれたのです。
その後に、「故に、自分のために他人を害してはいけません。」と説かれ、アヒンサー(不殺生)に繋がっていきます。
真面目系クズの特徴に話を戻しますと、真面目系クズの特徴に、
:自分のことを物語の主人公のように思っている
とあります。
これはまさに、「この世で自分が一番可愛い」という事の現れと捉えてもよろしいかと存じます。
最近は、「誰もが主人公になりたいなんて思っちゃいませんよ。」という主人公と言いますか、ヒロインが冒頭で登場する漫画もありますがね。
娑婆世界・忍土に生まれた人というのは、どうあっても自己や自我があり、自分を自分史という物語(ナラティブ)の主人公として世界を観る性質からは、逃れられないという側面があるような気が致します。
哲学的な解釈なり捉え方に、議論の余地はありましょうが、幅はあれど自己の可愛さというのは、何かしらの形で持ち合わせている、それが人の性ではないかと、現時点での私は頂いておる次第です。
このような事を踏まえ、真面目系クズの特徴を一つ一つ、つぶさに精査していけば、必ずや何らかの特徴を自分も持ち合わせている、そのように考えられます。
そもそも真面目とは何かを仏教の言葉として考え直す
真面目系クズの特徴を色々と観てきましたが、ここで一旦、「真面目とはなんぞや」と、真面目という言葉について考えて見ることと致しましょう。真面目とは、現代社会においては、「まじめ」と読み、「律儀な人、不正をしない人、きっちりしている人」など、そのような意味で使われます。
「あの人は真面目だね。」と言うと、なんだか信頼たり得る人物という語感を覚える人もいらっしゃるかと存じます。
また、私が経験したように、「真面目で面白くない奴」と、無個性を批判する際の悪口に使う人もいます。
仏教では、「真面目」は「しんめんもく」と読みます。
禅語に「柳は緑、花は紅、真面目」が御座いますが、この場合も「しんめんもく」と読みます。
出典は、宋時代の詩人である蘇東坡という人が詠ったとあり、「柳は柳の緑のまま、花は紅の花のまま、あるがままに、そのままの姿で」という解釈と解説が為される禅語です。
また、仏教では「面目」は「めんもく」と読み、禅宗では「本来の面目」といって、大切な語として説かれます。
臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師の「夜船閑話」の内観の秘法には、
:総に是自己本来の面目
と御座います。
このように、仏教において真面目とは本来の面目であり、「本来の自己、本来有るべき姿、ありのままの姿や様相」という意味が御座います。
華厳宗の明恵上人の御言葉を借りれば「あるべきよう」でありましょうか。
真面目とは、本来のあるべき自己の有り様や人の姿の事であり、決して「真面目系クズ」などと、揶揄する意味は御座いません。
この「真面目」や「面目(めんもく)」も、さすらいを感じずにはいられない言葉であります。

真面目系クズの特徴は我々煩悩具足の凡夫の性質なり
現在は、真面目そうに見えるけれども、実は真面目では無かったり、本性は頂けないと観られる人を、真面目系クズと言い、特徴を持ってして揶揄される傾向に御座います。しかし、私はこの「真面目系クズの特徴」とは、そもそも人がどうしても離れられない煩悩の現れ方の一つであり、我々煩悩具足の凡夫が持ち合わせている性質だと頂いております。
「お前、真面目系クズだよね。」と言われたら、「そういうお前もな。」と、泥沼にはまりそうなものです。
大体において、真面目系クズの特徴をどれ一つ持っていないと、胸を張って言える人はどれだけいらっしゃるでしょう。
「俺は真面目系クズの特徴は一つも無い」と言った途端、その時点で何らかの真面目系クズの特徴に当てはまるのではないかとお見受け致します。
仏教においては、「自分は大丈夫」だとか「自分は悪い奴では無い」といううぬぼれを戒める教えが御座います。
同時に「俺は悪人だ」という自覚を持ったとしても、悪人であると言う自覚がある自分は偉い、と思う事も、これまた戒めるのが仏教・仏法です。
「俺は不真面目だから大丈夫」などと言うのも、これまた問題であることは、歎異抄第十三条を読めば把握出来るかと存じます。
真面目系クズの特徴は、そのような我々煩悩具足の凡夫であり悪人なる一人一人に、突きつけられる話ではなかろうか、そのように頂いております。
他人を真面目系クズと揶揄するのではなく、自身の凡夫性の自覚として頂く。
真面目系クズの特徴は、「これは私のことである」と頂き、己を戒め自己を調える手立てとすることが、仏教的な学び方であり、自他共に良い方向へ進めると、私は味わう次第で御座います。
合掌