有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
このお堂(ブログ)では、何度か高揚感や高揚するという言葉の意味、その危険性について、お伝えしております。
先日、知人と話をしているときに、「意識の高揚を図る」という言葉を教えて頂き、どういうこっちゃと思うたものです。
高揚とは、以前もお伝えしました通り、気分なり精神性を表す意味の言葉であると、私も学び直したものです。
精神ではなく意識の高揚を図るとはどういう意味なのか、気になりましたので、また改めて調べたり学び直した事を報告致します。
そこから、仏教的な学びや智慧を共有出来ましたら、嬉しゅう御座います。
高揚の意味をおさらい
「意識の高揚を図る」という意味を考える前に、まずは「高揚とは何か」という事を復習しておきます。高揚とは、「気分が高まる、精神が興奮状態になったり昂ぶっている状態」という意味の言葉です。
高揚感とは、そのような状態を感じている事を意味しております。
以前から何度も警鐘を鳴らしております通り、この精神が高揚した状態や、高揚感を覚えている状態というのは、大変厄介なものであります。
なぜならば、高揚している状態や、高揚感全開という状態では、冷静な判断なり対処が出来なくなっている可能性が大きいのです。
仏教・仏法においては、このような興奮状態や、精神が高揚している状態は、刺激にまみれている状態と観ます。
仏教は、刺激に支配されてしまったり、高揚しているという刺激に囚われることを戒めます。
特に禅宗では、そのような刺激や興奮している状態に虎罠無い事を説きます。
高揚している状態や、高揚感というパトス(精神性・情緒)とは、付き合い方を間違えないでありたいものです。
瞑想法など、仏教には高揚している状態、高揚感を上手くやり過ごしたり、上手に付き合う方法もあります。
参照:「マインドフルネス瞑想とは何か意味を考える」
参照2:「マインドフルネスと瞑想の本3冊」
高揚という言葉の意味を学ぶと共に、それらの事柄も学んでおくと、高揚による失敗も防ぎやすい事でありましょう。

意識の高揚を図るとはどういう意味か
高揚や、高揚感の意味を学び直したところで、次に私が耳慣れない状態で聞いた「意識の高揚を図る」という事についてです。「意識の高揚を図る」という言葉の意味は、どうやら
:物事を、より重要視すること、重要度を高く位置づけること
ということのようです。
「ことのようです」と、曖昧な表現をしているのは、色々な事物を読んだり、使われている言葉の雰囲気や文脈から、そのように解釈したから、という私の色眼鏡も入っている事に、ご注意頂ければと思います。
要するに「これは重要である」と認識する事を、「意識の高揚を図る」と言う言葉で表現されているのです。
もっと短く一言でまとめるならば「啓発」の事であろうと、私は解釈しております。
この意味を学んだときに、もしかしたら「意識高い系」と、なんとなく目標を高く持って邁進する人や、目的・目標達成意識の高い人の事を揶揄した言葉に、対抗したのかなあ、と邪推したりも致しました。
自己啓発に嵌まっている人は、まさに「意識高い系」と揶揄される事が御座いますし。
恐らく、これは私の妄想でしょうがね。
「意識の高揚を図る」という言葉を使われた場合は、ある事柄の重要度を高く認識する、このような意味で捉えるのが妥当なところであろうと、私は頂いております。
意識の高揚を図るという言葉は、意味はわからんでもないが・・・
意識の高揚を図る、という言い回しについて、意味を把握することは出来ました。ただ、なんだかまどろっこしいと言いますか、ちょっとわかりにくい表現だな、と言うのが、最初にこの言葉を聞いたときの率直な印象であります。
現代社会においては、この「意識の高揚を図る」という言葉は、どのように使われているのかを観れば、何となく私が「わざわざこんな表現にせんでも」と、思う一端が垣間見て頂けるかと思われます。
例えば、「安全意識の高揚を図る」「環境意識の高揚を図る」など、そのように使われる事が御座います。
このような使われ方から、意味も何となく推察出来るかと存じます。
「安全意識の高揚を図る」というのは、安全意識を高める、という意味で捉えても、問題無いことでありましょう。
「環境意識の高揚を図る」は、環境に関する意識を高める、という意味と解釈出来ます。
私はこのような使い方を読ませて頂いたときに、「安全意識の向上」とした方が、よりわかりやすい気が致します。
わざわざ「意識の高揚を図る」とするよりも、なんだかスッキリ致します。
一体、どうしてこのような表現が生まれたのか、その事を色々と考えると、このような説を思いつきました。
本来、「高揚」というのはパトス(精神性・情緒)の変化を表す言葉であり、意味もそのような意味や文脈で使われます。
高揚するのは精神であって、意識ではありません。
しかし、「昂ぶる、高める」というその意味だけが抜き出されて、意識の向上は意識が高まる事であり、したがって「意識の高揚」や、それを図るという使われ方をするようにさすらった、そのような事を考え出した次第であります。
それに、意識が向上すれば、それについての精神性も高まる事も御座いましょう。
故に、「意識の高揚を図る」という表現は、まんざら間違いでもなさそうだ、そのような解釈に現段階では至っております。
ただ、私のように聞き慣れていない人であったり、「なんのこっちゃ」と言われるようであれば、安全意識などを語る場合には、「安全意識の向上」と、素直に言えば良い気が致します。

意識の高揚を図る意味はわかるが、執着にならぬように
意識の高揚を図るという言葉の意味や使い方の例から、どのような文脈で語られるかも観てきました。意識の高揚を図るということそれ自体には、良いも悪いも無く、むしろ安全意識を高めるなどの意味で使われる場合は、共有すべき事でもあるように思えます。
ただ、私は「意識の高揚を図る」のは結構ですが、その事によって、高揚を図る対象である事柄について、意識と精神を囚われないようにする注意も必要であろうと考えております。
意識を集中する、意識を高めると言う事は、時には大切な事であります。
何か問題に出くわした場合に、問題解決に意識を集中したり、問題意識を持ち、それを高める事は問題解決の大切な要素にもなりましょう。
しかし注意すべきは、その意識に集中しすぎるあまり、精神まで囚われてしまい、何度もお伝えしている「危険な高揚」に結びつかないようにする事であります。
「そうはいっても、やはり安全意識などは高揚すべきであろう」「環境意識の高揚を図る事は大切だ」という反論も御座いましょう。
それについては、私も同感でありますし、「意識の高揚を図る」ことそれ自体が悪ではないと考えております。
私が言いたいのは、意識の高揚を図り、集中する事も大切だが、それに囚われすぎないことも大切である、ということです。
要するに、「意識の高揚を図る事」と「それに囚われない事」のバランスを取る事が大切なのです。
仏教には、先ほどもお伝え致しました通り、物事への執着、意識や精神が囚われることを戒める教えが御座います。
禅宗には「放下着(ほうげじゃく)」という言葉もある通りです。
一方で、物事に集中する事、「三昧(ざんまい)」も大切な教えであり、集中する事、没入することの大切さも説いています。
そして、このバランスの取り方を一言で表して下さる仏法が「中道(ちゅうどう)」です。
意識の高揚を図る事、そしてそれによって生み出されるやる気などの精神性も大切にしながら、同時に囚われぬようにするバランスも調える事。
これが、「意識の高揚を図る」上で、大切な智慧ではないか、そのように思います。
尚、今回の話と関連して、「高揚」や「高揚感」の復習をもう一度される事で、より捗るかと存じます。
参照:「高揚の意味と毒されぬ智慧」
参照2:「高揚感の意味と使い方の例文から学ぶべきこと」
高揚の功罪をきちんと把握し捉える事は、自己を調える事に繋がる、私はそのように味わいを頂いております。
合掌