敬老の日のメッセージ|2016年版

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

9月には、「敬老の日」と呼ばれる祝日が御座います。
246666 2016年の敬老の日はいつかと申しますと、9月の第3月曜日ですから、2016年9月19日ですね。

敬老の日が近づくにつれて、「今年の敬老の日はいつだっけ?」とか、おじいちゃんおばあちゃんへのプレゼントなりメッセージを届ける事を考える人もいらっしゃることでありましょう。



私としては、おじいちゃんやおばあちゃん、祖父母へのプレゼントなり贈り物というのは、共に時空間を共有することそれ自体だと思うものであります。

私は、結構なおばあちゃん子で、どうも年を重ねられた人に可愛がって頂ける性質を持っているためか、敬老の日には敬老思想が結構根付いていることを、毎年確認させて頂ける日でもあります。

スポンサーリンク

敬老の日に考える「老人」の定義

敬老の日は、幼稚園なり学校などで、敬老の日にはおじいちゃんやおばあちゃんに、何かプレゼントなりメッセージを贈るための行事もあるやもしれません。

私も、子供の頃はそのような場合に、メッセージカードをこしらえて、贈らせて頂いたものであります。

現在は、私からのメッセージやプレゼントなどよりも、祖父母から頂いたこの世でのご縁に、有り難さと尊さを感じるところで御座います。



敬老の日の発祥の地とされている、兵庫県の八千代町、現在の多可町八千代区ですが、そこでは地域の小中学生が、ご近所のお年を召した方々に、メッセージを書いた手紙を作成するという課題があったそうです。

40歳からは「初老」と呼ばれる年齢と定義されておりますけれども、長寿大国となった現代社会においては、この辺りはなんだか複雑な感じが致します。

70歳でも若々しくて、「まだ老人ではない!」と言い張る人もいますからね。

かと思えば、「わしは年寄りだ。」と、自覚がある人もいて、なんとも複雑です。



このような事を考え出すと、「老人の定義とは」という事を思うわけで御座います。



そもそも老人とは、社会的な定義や、「初老は40歳から」とありますけれども、社会情勢や寿命の長短によって、変わってきます。



例えば、真宗大谷派のお坊さんから伺ったのですが、親鸞聖人が娑婆世界におられた時代の平均年齢は、30代そこそこだったそうです。

これは諸説在りますし、考察の余地はありますけれども、仮にその当時が30代そこそこが本当に平均寿命であれば、親鸞聖人が90歳まで生きられたのは、驚異的でありましょう。

法然上人も80歳まで、蓮如上人も83歳か84歳か、それくらいまで生きられたというのですから、当時としてはかなりのご高齢と言える年齢です。



ちなみに、蓮如上人は80歳を過ぎてからも、お子さんとのご縁を持たれています。

80歳を過ぎて、27人目の子供まで作られましたからね、少なくとも肉体的には若々しかったのであろうとお見受け致します。

そういえば、蓮如上人と仲の良かった禅僧の一休和尚も、70過ぎてから森女さんと、ご関係があったそうです。

現在の「草食男子」と呼ばれる人とは、全くもって真逆に思えるのは、私の勝手な妄想であります。

一休和尚や蓮如上人のお姿から、老人の定義がますます分からなくなる人がいても、不思議では御座いません。



敬老の日は、便宜上であったり社会的な価値観・かりそめの定義によって、老人とする人に敬意を表す日と言う事が出来そうです。

その時に、改めて「老人」の定義を考えて観るのも、生老病死という四苦を考えるきっかけとなり、仏道・仏法との接点となり得るのではないか、そのような事を思います。
087482

敬老の日のメッセージ1:仏教における老人や老いの話

私は、まだまだ若造であり、煩悩燃えさかる煩悩具足の凡夫であり、老いについてあれこれと偉そうなことを申し上げられる者では御座いません。



ただ、こうしている間にも、人は老いるというご縁を賜っている存在であり、逃れられないものであります。

私も、老いについては幾度も考えた事があり、各宗派のお坊さんにも、色々と老いに関する話を頂きました。



そのような経験から、私なりに、敬老の日を老い・老いる事を考えるという機縁と致しまして、メッセージと言うとおこがましいのですが、機会を共有出来ればと思います。



敬老の日の、仏教者からのメッセージとして、「法句経(ほっくきょう)」に記されている、老人についての話をお伝えしとう御座います。

「法句経」は「ダンマパダ」のことです。



その「法句経・ダンマパダ260」には、
「頭の毛が白い、白髪頭だからといって、長老にあらず。ただ年を重ねた者は、空しく老いた者である。」
とあります。

その続き、「ダンマパダ261」には
「真理、道理、不害、自制調御があるならば、彼こそ汚れを吐き出し捨てた長老・賢老である。」
と記されております。



私は、この時に「261の、賢い老人とは、まさに俺の事だ。」と言う人を、善人であり己の愚かさや凡夫の性に気づいていない、無明なる罪人だと認識致します。

善人とは、「善い人」ではなく、己の悪人性に気づかず、内観による内省が無い、傲慢な人と言う事です。

「自分こそ261の老人」と宣う人ほど、注意してみる必要がありそうです。



ダンマパダから学びますと、善き老人、いわゆる「賢老」「長老」とも呼ばれる方であり、まさに「敬老の日」には敬老の対象となり得る方でありましょう。

ただ年を重ねただけで、偉そうにふんぞり返っている人の事を言うのでは無いと、この辺りで頂ける事柄であります。



なんだか、私はお年を召された方を敬う者ではありますが、辛辣なことを申し上げて参りました。

ただ、これは「自覚の問題・課題」であると、私は考えております。

単に年を重ねた、空しく老いた者になる可能性は、自分にもあるからこそ、賢老になるような在り方と生き方を実践する事。

この自覚が、大切ではなかろうか、そのように味わい頂いております。
スポンサーリンク

敬老の日のメッセージ2:素敵な老いの姿

敬老の日のメッセージとして、二つ目に申し上げたい事は、上のダンマパダの言葉を踏まえた話です。



「じゃあ、賢老になるにはどうすれば良いのか」という事が、気になってくることで御座いましょう。

言うなれば「素敵に老いる、素敵な老いの姿」です。

それには、禅に素敵な禅語が御座います。



それは、
:閑古錐(かんこすい)
という禅語です。



「閑古錐(かんこすい)」とは、使い古された錐(きり)の事です。

錐とは、穴を開ける尖った道具であり、それを長年使っていると、先端はどうしても丸くなって、穴を開けられなくなります。

錐としての用途は、最早無きに等しいのですが、逆の見方をすると、人肌を傷つけにくくなっている状態である事が読み取れます。

俗に言う「丸くなった状態」です。



現代社会では、五木寛之さんの本の題名にもありましたが、「賢老(けんろう)」ならぬ「嫌老(けんろう)」という言われ方も致します。

商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。お買い物される際には、必ず商品ページの情報を確認いただきますようお願いいたします。また商品ページが削除された場合は、「最新の情報が表示できませんでした」と表示されます。

嫌老社会を超えて [ 五木寛之 ]
価格:1296円(税込、送料無料) (2016/9/3時点)



敬老の日には、何とも似つかわしくない字面です。

「老害」なんて言葉もありますね。

しかし、そのような「老害」だとか「嫌老」と言う事が言われるのは、老いてもなお尖っていて、丸みや経験に裏打ちされた、厳しさと柔らかさの調和が観られない老人が目に付くという現象があるからかもしれません。



そのような娑婆世界において、「賢く老いた姿」として、「閑古錐(かんこすい)」という禅語の在り方や生き方は、とてもよきヒントになるのではないか、と私は味わっております。

閑古錐(かんこすい)を、敬老の日に考えたいメッセージとして、ここの記そうと思うのは、そのような念いもあるからで御座います。



私も、素敵な閑古錐にならんがために、己の凡夫性を見失わず、精進し続ける次第であります。

上で、五木寛之さんの、老いに関する本をお伝え致しましたが、素敵な老いを考える上で、ヒントとなる本に、浄土真宗本願寺派の僧侶であられる釈徹宗さんとの対談本が御座います。

商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。お買い物される際には、必ず商品ページの情報を確認いただきますようお願いいたします。また商品ページが削除された場合は、「最新の情報が表示できませんでした」と表示されます。

70歳! 人と社会の老いの作法 [ 五木 寛之 ]
価格:842円(税込、送料無料) (2016/9/3時点)



この本は、老いについての事と共に、生きるヒントと言いますか、生き方や在り方も問い直すきっかけとして頂ける本であると、読ませて頂きました。
237042

敬老の日は、「老いについて考え、老いる事を敬う日」と読み替えるメッセージ

現代社会においては、老いるという事は、なんだか悪い方面で捉えられガチです。

アンチエイジングという概念も、そのような響きを感じます。

いつまでも若々しくいようとする努力は、それはそれで結構ですが、単に老いる事を嫌がり、老いる事への抵抗としての響を、感じる事がしばしば御座います。



このような事から、私は「嫌老」というのは「お年を召した方を嫌っている」という意味の他に、「老いる事を嫌っている自己」という捉え方もしております。



老いると言う事は、この身今生において、万物に働く理で御座います。

生まれたというご縁がある以上、四苦の中の「老」も、発生するのは万物の理です。

そうであるならば、老いる事を敬える生き方や在り方を学び、そのような生き方を歩む事によって、賢く老いる、老いの尊さを感じ取れるのではないか、そのような事を考えております。



仏法には、「生老病死」という四苦について、苦を和らげる教えが説かれています。

仏法を聞いたからと言って、老いなくなるわけではありませんし、病が治るわけでもありません。

しかし、老いの苦しみが「老いる事を敬う」という頂き方になる可能性を秘めているであろうと、私は頂いております。



私の場合は睡眠障害やうつ病の時、「病」の頂き方ではありますが、「この病も、お陰様のご縁によって賜った」と、頂けるようになりました。

「老いる事」も、そのような頂き方になれば、「老いる事を敬う」という変化もあるやもしれません。



敬老の日を「老い方、そして老いる事を敬える頂き方」を考えるきっかけにしてみては如何でしょうか、と、メッセージを締めくくらせて頂きます。



合掌

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加