自業自得と自己責任

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

以前、自業自得という言葉について、仏教語・仏教用語としてお伝え致しました。
057369 現代社会では、自業自得の用法というのは「自己責任」とも置き換えられる使われ方がしていると、私は感じておる次第であります。

「そんなの、お前の自業自得だよ。」というのは、まさに「そんなの、お前の自己責任だよ。」と置き換えても、そのまま使えそうです。

「因果応報」も、現代的な使われ方は「自己責任」と同じ使われ方である、そのように思います。

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自己責任的な自業自得は「自業自得」にあらず

私は、自己責任論として持ち出される「自業自得」という言葉は、確かに意味としては間違いでは無いかもしれないが、どうもしっくりきません。

これは私の勝手な感じ方ですし、私の物差しに過ぎませんが、「自己責任」も「自業自得」も、凄く断絶的で無慈悲に感じている言葉です。

特に現代社会における使い方や用法も、なんだか突き放すようで無慈悲ですし。



私、自己責任論として論じられる「自業自得」は、仏教の「自業自得果」からなる言葉と別個に考えるために、このような言葉に置き換えております。

それは、
:我業我得(がごうがとく)
です。



自業自得の「自」は、「自ら」「自ずから」という、「自分に由いする」とか「自ずから成される」というような、自然的な意味も感じる言葉であります。

一方の「我」は、「我執」などのように、「我先に」「我利」といった、自分と他を断絶したような、そんなある種の傲慢さも垣間見られる言葉や文字だと感じるところがあるのです。

仏教・宗教を学び続けている在家仏教者だからかもしれませんね、このような個別的感性は。



自己責任として相手を追い詰めてしまう使われ方をする場合の「自業自得」は、私は「我業我得」という言い方の方が、なんだかしっくりくるのです。
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自業自得を縁起と共に味わい頂く謙虚さを学ぶ考え方「自業他得」と「他業自得」

自業自得は、仏教語・仏教用語としての本来的な意味としては、自己責任とは違います。

でも、現代社会に生きていて、仏法に触れていなかったり、こうした場で言葉と概念を学ぶ機会が無いと、自己責任的な意味で「自業自得」という言葉を捉えがちではないでしょうか。



私は、自己責任論も、自己責任として自業自得という言葉を片付けてしまうのも傲慢である、と考えております。



そこで、そこから謙虚さも学びながら味わいを頂く考え方のヒントが、臨済宗の禅僧であられる玄侑宗久さんの本に記されておりました。


無功徳 [ 玄侑宗久 ]
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玄侑宗久さんの「無功徳(むくどく)」という本があるのですが、「無功徳」も禅語です。

本の題名からして、謙虚さを学び、謙虚な人になるためのヒントがあると直観したものです。



そして私は、「無功徳」という本の「自業自得が、自己責任という言葉として使われている」というところから、今回の表題を考えるに至りました。


さすらいの仏教語 [ 玄侑宗久 ]
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ちなみに玄侑宗久さんは、自業自得という言葉については、別の本「さすらいの仏教語」でも記して下さっています。



本の中で玄侑宗久さんは、
:自業自得・自業他得・他業自得
という、三つの言葉と概念を紹介して下さっていまして、私はそこに着目致しました。



例えば、何か仕事をしたときや、自分が何か行動を起こしたとき、その作用は自分に現れる事もありますが、他人やその他に影響を与える事がしばしば御座います。

それが「自業他得」です。

世の中で起こることって、実はこの「自業他得」が多いのでは無いでしょうか。

そして、他の人にとっての「自業他得」は、自分視点では「他業自得」となり、世の中の現象は「自」と「他」は切り離せない、断絶出来ない現象であることがみえてきます。



また、筋力トレーニングをして、自己に起こる筋肉肥大などの現象は、確かに「自業自得」も御座います。

でも、例えば器具を使っての筋トレをする場合でも、器具という「他業」を「自得」した自分がいて、そこに「他業自得」の様子が見えるのです。



玄侑宗久さんは、さらにこれらをわかりやすく
自業自得=功徳(私は「現世利益」という言い方もしております)
自業他得=利益(りやく、と読みます)
他業自得=御利益、お陰様
と、解説して下さっています。



この考え方と御言葉は、私は現代社会においては、非常に金言ではないかな、そのように頂き味わっておる次第であります。
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自己責任の自業自得=我業我得では他者を排除してしまう

「自業自得」を語る上で、「自業他得」「他業自得」を排除してしまうと、私は傲慢さにやられてしまい、謙虚さを失いかねない、そのような懸念をしております。



そもそも、自己責任としてしまえば、他者や他の関係性、他による影響を断絶してしまえるから、独りよがりになりがちになってしまう、そのように私は自己責任論を捉えております。

自業自得=自己責任でしたら、あらゆる現象が自分だけで完結してしまい、その他の要素を排除している見方が見え隠れしていて、傲慢に思えるのです。

とても排他的ですし、私はそのような人とのお付き合いは、遠慮願いたいものです。



しかし、「自」と「他」を意識した上での「自業自得」は、何かが起こったときの関係性や絡み合った要素を排除する事が御座いません。



人間は、仏教では「じんかん」とも読みまして、人が社会的な生き物であり、他者との関係性によって生きているという事が文字としても現れていると、私は頂いております。

世の中には、「俺は一人で生きていくんだ!」と豪語する人もいらっしゃいます。

でも、果たして本当に、至極厳密な意味において「一人で生きていく事」は、出来るでしょうか?



そもそもとして、現世・娑婆世界に生まれ落ちた時点で、他者との関係性はあるわけですからね。

産んでくれた母親と、その母親から産まれた自分という関係性があることを考えれば、自ずとみえてくるでしょう。

また、現在は人工授精など色々な技術がありますが、それにしたって父親となる人との関係もありますから、どんなに粋がったところで、この世に生を受けた時にはすでに「人間(じんかん:人と人との間柄)」があるのです。



どんなに粋がったところで、人は生まれ落ちた時から、他者との関係性の中に生きています。



「インターネットビジネスがあれば、一人で生きられる」と、粋がっているやからもおりますが、そのなんちゃらビジネスをするための道具は、果たして誰が作ったのでしょうか?

パーソナルコンピューターやマウスなどの道具を、ゼロから一人で作ったのなら分かりますが、そんな人っていますかね。

ゼロから、というのはもちろん、素材から、という意味ですよ、ネジ1本の鉄からプラスチック容器に至るまで。

「自分の力だけで稼ぐ」という表現は、このような考え方から、私は「随分と傲慢な表現だな。」と感じておるところです。



道具意外にも、食べ物や着る物、住宅などの衣食住全てにおいて、果たして「自分一人で創り上げた物なのか」と言う事を考えれば、関係性を断絶したり排除する事は、傲慢ではないかと私は思うのです。



自業自得を自己責任という言葉にすり替えて、他者を断絶してしまうのは、私は傲慢になってしまう考え方である、そのように頂いております。
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自業自得は縁起と共に頂くことが大切だと思う

自己責任論によって、他者を断絶してしまう「自業自得」にならぬためには、仏教の基本思想である「縁起(えんぎ)」と共に頂くという事が大切です。



私は、縁起という考え方・思想を大切にしており、それを忘れぬためのエトス(行為様式・習慣)も大切にしております。

毎日、御仏飯を仏壇に供えさせて頂き、そのお下がりを頂く、というエトスも、その一つです。



自己責任による自業自得は、確かに楽です。

そして「利益(りえき)も自分の努力の結果、悪いのも自分の責任」とするのは、一見潔いように思えます。



克己心としては、「御利益は他のお陰様、悪いのは全て自分のせい」とするのも、潔くて見習いたい在り方であるようにもみえます。

また、某有名経営者の「雨が降っても自分の責任」という言葉は、確かに克己心として念頭に置くくらいは良いでしょう。



でも、現代社会では残念な事に、搾取するためにこの言葉を悪用したり、他人に「自己責任論」として押しつけて傷つけて追い詰める使われ方もします。



そもそも私、この「雨が降っても自分の責任」って、解釈によっては凄く傲慢だと思うておりますからね。

だって、雨という事前現象についても「雨が降ったのは自分の責任だ」という解釈をするなんて「神になったつもりか」と、突っ込みたくなります。

恐らく「雨をどう感じるかは、自分の心持ち次第」という、「日々是好日(にちにちこれこうじつ)」を表す言葉だと私は味わって頂いております。

しかし、「雨が降っても自分の責任」という言葉や解釈は、現代社会では自己責任論にすり替える言葉として使われていると感じるのです。



今回の話に照らし合わせるならば「雨が降っても自業自得」という表現になります。



私は、このような「自業自得=自己責任=我業我得」は、非常に傲慢な人を形成してしまう要素であると、危険な部分を見出しております。

それゆえに、傲慢な人にならず謙虚さを忘れぬために、「自業自得」という言葉を見聞きする、あるいは自分が使う時は、「自業他得」「他業自得」も、忘れないでおきたい、そのように思う今日この頃であります。



自業自得の意味については、こちらで以前お話しさせて頂いております。

参照:「自業自得の意味と英語を仏教語として学ぶ」

同時に学んで頂く事により、仏教語・仏教用語としての自業自得の意味と共に、学びを深めて頂けるものではないかと存じ上げます。

合掌

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