有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは、これまでに忘れたいほど嫌な経験をされたこと、嫌だと思う事と出会われたことは御座いますでしょうか。
娑婆世界を生きていると、嫌な事とはどうあっても巡り合わせる御縁があるもので、全てが思い通りに事が運ぶ、なんてことの方が稀で御座いましょう。
「自分都合にならない、自分の思い通りにならない」という現象は苦の原因であり、仏教でも思い通りにならない事を「四苦八苦(しくはっく)」として、伝えて下さっています。
そうなると、どういう御縁が結ばれて、出会うか分からない嫌なことを、出来れば忘れたいという欲求も出てくるものです。
嫌なことを忘れる方法の需要があるのは、自己啓発本や自己啓発セミナーなどの盛況ぶりを見ていても、読み取る事が出来ます。
今回は、嫌なことを忘れる方法という概念そのものへの問いと共に、嫌なことを忘れる方法について、仏教の智慧と共にお伝えしていきます。
そんなに簡単に嫌なことを忘れる方法が上手くいったら苦はない
あなたは、気にする性質であったり、嫌なことがあったら落ち込む度合いが強い人でしょうか。そういう人であるならば、このような事を言われる機会も多いかと存じます。
「そんな事は、気にしないで。さっさと忘れろ。」
相手は、励ますつもりで言ってくれているのでありましょう。
でも、私も経験がありますが、そのような事を言われた場合、こういう反発が顔を出します。
「そんなに簡単に嫌なことを忘れることが出来れば、苦労せんわ」
あなたも、この一連の流れを経験した事を、お持ちでは無いかとお見受け致します。
特に是、私も経験したのですが、うつ病などの精神的な課題を抱えている人にとっては、劇薬になったり刺激物になりかねません。
よくあるのが、「気の持ちよう」だとか「旅行でも行って、嫌な事を忘れなさい」というやつです。
これは、実行出来るタイミング出ない時に言い放ってしまうと、最悪、人命に関わります。
大切な事ですから、もう一度申し上げます。
「気分転換に旅行でも行く事が、嫌なことを忘れる方法だ」といって、旅行に連れ出したり一人旅に行かせることは、人命に関わる危険性も御座います。
実際に、心療内科に通っていて、そのような話を伺う機会がありましたから、これは注意すべき事としてお伝えしておきます。
とにもかくにも、人から「嫌な事はさっさと忘れない」と言われても、そんなに簡単に嫌なことを忘れる事が出来たら、苦労はしませんし苦は御座いません。
また、他人に言ってしまっていて、「嫌なことを忘れる方法にこういうのがあるから、やってみろ」と、考え無しで無責任に言い放っている人は、まずはその事に気づいて、反省すべきです。

嫌なことを忘れるのは、人によっては本当に難しい事だと思う
嫌な事を忘れる方法は、自己啓発本やビジネス書の類い、また、そういったセミナーもあります。現代社会では、嫌なことを忘れる方法を知りたいという需要があるのであろうことは、このような本が沢山並んでいて、ベストセラーも出ていることからもうかがい知ることが出来ます。
仏教の視点でこのことを観ると、「そもそも、嫌なことを忘れる方法を欲するような社会や生き方を問い直すべきでは無いか」という事を考えるに到るのですがね。
とにかく、現代社会においては、嫌なことを忘れる方法を探してみたら、色々と見つかります。
上で挙げた「旅行に行く」というのも、人によってはやめておいた方がよいのですが、一つの方法論として有名どころでありましょう。
しかし、それで完全に忘れる事が出来るでしょうか。
そもそもとして、嫌な事というのは、それにまつわるナラティブ(代替不能な物語)とセットで記憶される事が多いものです。
例えば、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という、嫌な人と会う苦しみがある場合、その「嫌な人」との間で出来上がったナラティブ(物語)が御座いましょう。
その嫌な人に、本当に嫌な事をされたりして、その事とセットで覚えているわけです。
そしてそれは、傷つけられるという刺激と共に刻みつけられるわけでですから、なかなか忘れる事が出来ない痛みの記憶となります。
身体的な嫌なこともセットになると、有る特定の条件が揃えば拒絶反応だったりアレルギー反応を示すのが、いわゆる「トラウマ」や「フラッシュバック」と呼ばれるものではないかと、学んだ事が御座います。
これ以上は専門的な話になり、無責任な事を言えませんから、やめておきますが。
そんな風に刻み込まれた「嫌なこと」は、なかなか忘れることが難しものであり、その経験を持っているという人も、この文章をお読みの方の中にはいらっしゃるかと思います。
ゆえに、「忘れなさい」なんて無責任に言われたって、「他人事だと思って、無責任な事を言うな」と反発したくもなります。
嫌なことを忘れる方法と言うよりは、「嫌なことから少しだけでも離れる方法」ではないか
嫌なことを忘れる方法をお節介にも押しつけられても、完全に忘れる事は、困難で有ろうかと、私の経験からも思うところで御座います。確かに、いつまでも憎いと思う人を憎み続けるのは考え物でしょう。
しかし、そういった嫌なことへの憎しみや怒りなど負の情念は、内側からふつふつと沸いて出てくるものです。
現在の私にも、そういう相手はいますし、心療内科の押せになる程に酷い時代には、かんしゃくを起こして突発的に者を壊してしまう程の苦しみが御座いました。
そのような苦を抱えている人に対して、「嫌なことを忘れろ」というのは、無責任極まり無く、傲慢です。
気にしない性格が強い人で、嫌なことを忘れていられるのが得意な人にとっては簡単な事かも知れませんが、そうでない人にとっては、本当に苦しいことなのです。
「嫌なことは忘れろ」とか「嫌なことを忘れる方法にこういうのがある、だからやってみろ」と、傲慢で無責任に言ってしまっている人は、このことを一度問い直して欲しいものです。
このように、誰しもが、嫌なことをすぐに忘れたように錯覚できる人ばかりではなく、嫌なことを忘れるという事は、難しいという人もいます。
ただ、それを自覚した上で、「嫌なことを忘れる方法」とまではいかなくても、「一時的に嫌なことを忘れる方法」「一時だけでも嫌なことと離れていられる方法」は、あろうかと存じます。
その智慧について、仏教の視点や仏教の行から、2つにしぼってお伝え致します。
あくまでも、「完全に嫌なことを忘れる方法」ではなく、一時だけでも嫌なことを忘れる、離れる方法論なり行ということで、お読み頂ければ幸いです。

仏教的嫌なことを忘れる方法1:マインドフルネス瞑想など瞑想の力を借りる
仏教の智慧を交えた、嫌なことを忘れる方法の一つ目は、:マインドフルネスや瞑想
です。
マインドフルネスや瞑想は、ある一つの事柄、例えば多くの場合が「呼吸」や「丹田(たんでん)」に意識を集中させるという方法を採ります。
マインドフルネス瞑想にきましては、このお堂(ブログ)でもお伝えしておりますから、文末辺りで、そちらに飛んで頂けるリンクを張らせて頂いております。
最近では、小池龍之介さんが「食事の瞑想」や「歩く瞑想」なども紹介して下さっています。
参照:「小池龍之介さんの食事瞑想はダイエットにも効果的」
参照2:「小池龍之介さんの本で私が選ぶ3冊」
参照3:「小池龍之介さんの情報まとめ」
マインドフルネス瞑想で読みやすい入門書は、ぶっちゃけ寺でもおなじみの浄土宗僧侶であられる井上広法さんの「幸せに満たされる練習」があります。
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また、プラユキ・ナラテボーさんも、独自の瞑想方法を紹介して下さっています。
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瞑想の本で読みやすいと感じたものとして、日本人が比較的やりやすい瞑想を研究して紹介して下さった、作家で禅僧の玄侑宗久さんの本が御座います。
禅仏教と瞑想について学びたい方は、ここから入るのも一つの方法として御座いましょう。
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マインドフルネスや瞑想は、身体の何処か一点、身体作用や現象一つにだけ集中し、頭で考え過ぎな思考偏重とも言える現代社会において、一旦、思考を止める行にもなります。
嫌なことを忘れる方法、とまでは行かなくても、嫌なことから一旦離れる事が出来るくらいには、力になってくれるかと存じます。
実際に、私もそのような体験はありますから、経験出来た事として、お伝えしておきます。
マインドフルネスや瞑想は、出来る事ならば、近場の瞑想セミナーなり瞑想体験講座、あるいは近くに禅寺があって、坐禅会をされているのであれば、まずはそちらで習うのが宜しいかと存じます。
一度、坐禅や瞑想を教えてくれるお坊さんや講師に型をしっかりと教わってから、上の本は復習なり理解を深める一助にして頂けくとよいでしょう。

仏教的嫌なことを忘れる方法2:身体性ありきの三昧になれる行に没頭する
仏教の智慧を交えた、嫌なことを忘れる方法の二つ目は、:身体性ありきの三昧になれる作業なり行をして、それに没頭する
ということです。
「三昧(ざんまい)」は、そもそも何かに没頭している状態ですから、「三昧に没頭する」は、二重表現にも思えますが。
これは、実際に私も経験しておりまして、私は24時間不断念仏会で、経験させて頂きました。
参照:「増上寺の24時間不断念仏会2016の感想体験記|前編・とにかく南無阿弥陀仏」
参照2:「第5回清浄華院24時間不断念仏会2016体験記前編|京都で南無阿弥陀仏」
参照3:「第5回清浄華院24時間不断念仏会2016体験記後編|共生をお念仏に味わう」
睡眠障害やうつ病等、色々な事をまだ抱えていた時代に、24時間不断念仏会を体験したのですが、お念仏を称えさせて頂きながら、木魚を打たせて頂いている時、嫌なことを考えていた記憶が御座いません。
特に「大木魚」でのお念仏は、正座して姿勢を正していないと、きちんと澄んだ音も出せませんから、念仏三昧にならざるを得ない状況です。
その時は、姿勢と口称念仏、そして木魚を叩いている肉体のことなど、身体性を伴う三昧を体験させて頂きました。
真剣にお念仏させて頂いていると、何かを思考する余裕は殆ど無くなりますから、嫌なことを考えている余裕も当然御座いません。
三昧行が終わった後、日常生活に戻れば、また嫌なことを思い出すこともありまでしょう。
しかし、完全に嫌なことを忘れきることは出来なくても、作業没頭中だけは嫌なことから離れていられます。
仏教が長い歴史で培ってきた身体性を伴う行、言うなれば「仏教のエトス(行為様式)の力」でありましょうか。
だからといって、あなたにもお念仏の行を無理強いはしませんが、身体性を伴う三昧なり没頭作業は、嫌なことを忘れる方法という観点からすれば、一つの光明であるということを、経験上申し上げる事が出来ます。

嫌なことを忘れる方法が出来なくても、嫌なことを忘れる事が出来ないのも、あなたは悪くない
今回は、仏教の智慧や、仏教が長い歴史の中で培ってきた修行から、比較的やりやすい行を元に、嫌なことを忘れる方法の一助となりそうなことを、お伝えして参りました。嫌なことを忘れる方法とは、完全に忘れる事には到らなくても、少しだけでも意図的に離れていくことが出来る方法、という解釈でいるのが、よい塩梅かと頂いております。
そもそも、体と脳、そして心に刻み込まれた「嫌なこと」というのは、どうしたって自分の意図で忘れきるのは、困難なことで御座いましょう。
それこそ、電極を刺して無理矢理に、とか、脳を弄ったりとか、そういう医学的に無茶なことをせんことには、不可能では無いかとも思うのです。
そして、以前も申し上げましたが、嫌なことを忘れる方法を実践しても、嫌なことを忘れられないというあなたへ、申し上げたい事が御座います。
それは、「嫌なことを忘れられないからといって、あなたは悪くない」ということです。
嫌なことを忘れる方法を一所懸命にやっても、忘れられない自分はダメだ、なんて思わないで欲しいのです。
また、嫌なと出会うかどうかは、それこそ御縁によるものです。
だって、誰しも「自分にとって嫌なこと」は、経験したくないことで御座いましょう。
その御縁を、どうにか自分都合で支配しようなどと言うのは傲慢です。
娑婆世界で生きていたら、時には嫌なことと出会うことも御座います。
そんな時に、「嫌なことは直ぐに忘れろ」という心ない傲慢な言葉は、よくても話半分程度で聞き流して結構です。
「嫌なことを忘れる方法をしたところで、なかなかにすぐに忘れられないのが私であると、諦める(明らかにする)」
「だから、無理して忘れることはせずに、ゆっくりと折り合っていけるようにゆっくりと生きる」
この気づきと自覚が、実は上手く付き合っていける一歩目となる仏教の智慧である、私は経験からそのように頂いております。
今回の話は、以前お伝えした事柄とも親和性が御座います。
参照:「気にしない方法も練習も無理してやらなくていい」
参照2:「「気にしないで」の傲慢さ|英語と仏教から学ぶとよくわかる」
また、マインドフルネスと瞑想については、こちらでお伝えしております。
参照:「マインドフルネス瞑想とは何か意味を考える」
参照2:「マインドフルネスと瞑想の本3冊」
参照3:「マインドフルネス瞑想の注意点」
出来ない自分を責めがちなあなたにとって、少しでも苦を和らぎ、自己を肯定して頂ける材料につ買って頂けましたら、大変嬉しゅう御座います。
最後に、もう一度お伝え致します。
「辛い思いをしているあなたは、悪くない」
苦を抱えながらも生きるあなたが、確かにそこにいて下さる御縁、私は尊び続けております。
合掌