有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは「一念発起」という言葉の意味と使い方を、どのように認識されているでしょうか。
「一念発起」というと、例えば新年が明けてから、目標を定める時などに、「一念発起して、今年はこれを始めよう」という使い方がなされるかと思います。
この「一念発起(いちねんほっき)」という言葉は、仏教用語の四字熟語であり、特に真宗・浄土真宗においては、頻繁に聞いたり称える言葉だという人も、いらっしゃるかと存じます。
かくいう私も、浄土真宗本願寺派の御法話を聴聞していると、御法話の最後に結構聴く頻度が高いと感じておる次第で御座います。
一念発起の現代的な意味
一念発起という言葉について、まずは現代的な意味と使い方のおさらいから始める事と致しましょう。まずは、「一念発起(いちねんほっき)」という言葉の意味からです。
わざわざ「一念発起(いちねんほっき)」と、平仮名を表記している事については、後の仏教用語としての意味を学ぶ時に「ああ、なるほど」と頷いて頂けるかと存じます。
現代的「一念発起」は、
:何かの目標を立てて、成し遂げようと決意すること
:決意をし、成し遂げようとする事柄に、熱心に励むこと
といった意味が御座います。
要するに「目標を決めて、その決意を固くし、目標達成のために熱心に励むこと」という意味です。
また、これまでの考えを改めるという、言うなれば「改心」といった意味も含まれます。
これに関連した言葉として、「発起人(ほっきにん)」という言葉も御座います。
発起人とは、読んで字の如くで、何かの催し事の呼びかけ人であったり、現代的な言葉で表すならば「いいだしっぺ」という意味の言葉です。
「一念発起」という四字熟語を使うならば、「一心にやり遂げようとする念を起こし、発憤する」と、分解して意味を論じることが出来そうです。

一念発起の使い方
一念発起の意味を、現代的に頂いたなら、次は使い方についてです。一念発起という言葉の意味は、「決意したことに励むこと」ということですから、このような使い方がなされます。
「一念発起して、禁煙するぞ」
「大学へ行く事を一念発起して、勉強に励む」
こんな感じで、何か達成したい目標を掲げて、それに邁進することを決意する、という使い方であり、前向きな感じが致します。
私としては、目標設定や目標達成そのものは否定しませんが、それが「自縄自縛」の苦しみを生み出す怖さを観ておりますから、縛られすぎずにいる事も念頭に置きたいものであります。
その他、文学作品や小説でも、「一念発起」という言葉の使い方を学ぶ事は出来ます。
私は映画を見に行ったのですが、「文学少女シリーズ」にも、一念発起という言葉の使い方が学べます。
映画でこの台詞は出て来ませんが、まだちょっと余韻が残っているときに文学少女について調べて観たところ、このような表現を見つけました。
「文学少女と恋する挿話集2」に出てくる
「一念発起して用意したチョコレートも」
という表現が、それです。
内容やネタバレは省略致しますが、誰かに渡すためのチョコレートを用意する事に、強い決意が必要だったという文脈を読み取れば、その使い方を学ぶ事が出来ましょう。
また、現代文や国語をよく勉強していたり、文学作品がお好きな人ならば、この表現でも「一念発起」の使い方を学べるかと思います。
女房を持つのが堕落なら、何故一念発起して赤の他人になッ了えといわぬ。
これは、二葉亭四迷さんの「平凡」に出てくる表現です。
ちなみに、この前後に「女房を持つのが堕落なら、」「一生離れるなとは如何いう理由だ」とも書かれております。
更にこの「一念発起」という言葉の使い方が学べる表現のすぐ前に、基督教(キリスト教)という言葉が綴られており、結婚観や離婚観について、考えさせられる内容になっていたりします。
一念発起の意味と使い方を学ぶと言う事から話が逸れますが、この「平凡」からは、結婚観や離婚観と共に、宗教的な事を考えるきっかけにもなる小説かも知れない、という味わいを頂いておったり致します。
そもそも、「平凡」や「普通」について、改めて考えさせてくれる話であり、「平凡とはなんぞや」という深め方は、とても仏教的な思案に思えます。
何かの番組で、出来れば「林修の今でしょ講座」辺りで、一度、二葉亭四迷さんの「平凡」について講義して頂けないかと、密かに思う煩悩がわる私で御座います。
一念発起の仏教用語としての意味
一念発起の意味と使い方を、現代的な観点から観てきました。今度は、この「一念発起(いちねんほっき)」について、仏教的な意味を頂いてみることと致しましょう。
仏教用語として、仏教における一念発起の出所は、「華厳経(けごんきょう)」に御座います。
華厳経には、
:一念発起菩提心(いちねんほっきぼだいしん)
という言葉が御座います。
これは、「仏に帰命する一念を起こし、菩提に向かう心を起こすこと」という意味です。
仏教・仏法に馴染みが無い人でしたら、なんのこっちゃ、と思われるかもしれません。
帰命や菩提ってなんぞや、という事もあるでしょう。
「帰命(きみょう)」とは、仏の救いを信じて敬い、身を捧げ従うことであり、「南無」と同じ意味です。
正信偈では、最初に「帰命無量寿如来、南無不可思議光」とありまして、私はこの辺りに、阿弥陀仏にお任せする、「我にまかせよ」という教えを大切にされているパトス(精神性)を感じておったり致します。
そして、「菩提(ぼだい)」とは、悟りの事です。
「一念発起菩提心」という言葉の意味は、これで掴んで頂けたかと存じます。
仏教用語として平たく伝えるならば「仏の教えや救いを信じて敬い、悟りを求めようと決意すること、そのような心を起こすこと」という意味です。
「一念発起菩提心」という言葉どんぴしゃりではありませんが、浄土宗と真宗・浄土真宗には、勤行の時に唱える言葉で出会わせて頂けます。
浄土宗と浄土真宗には、「総回向偈(そうえこうげ)」という偈文がありまして、勤行の終わりの方で称えさせて頂きます。
「総回向偈」は、
:願以此功徳、平等施一切、同発菩提心、往生安楽国
とありまして、「同発菩提心」に、「一念発起菩提心」の「発菩提心」を思い起こさせて頂けます。
「同発菩提心」は「共々に、菩提心を起こして」という意味であり、共生(ともいき)という在り方を大切にしている浄土宗の味わいを頂ける偈文であると、私は頂いております。
仏教用語としての「一念発起」は、有り難く尊い味わいがあると、私は頂いておるのですが、如何でしょうか。

一念発起と浄土真宗
今回は、「一念発起」という言葉について、現代的な意味と使い方や、仏教用語としての意味をお伝えしてきました。そして、冒頭では「真宗・浄土真宗の御門徒さんでしたら、頻繁に聞いていらっしゃるかもしれない」ともお伝えしましたね。
浄土宗の檀家である在家仏教者であるのですが、西本願寺の聞法会館にて、ちょくちょくと御法話を頂いております。
そしてその時に、結構な頻度で「一念発起」という言葉を頂く事があるのです。
これは、別に「一念発起のバーゲンセール」という意味では御座いませんから、ご注意おば。
浄土真宗において、「一念発起」の発音は「いちねんぽっき」です。
上の方で、読み方をわざわざ伝えていたのは、このような事情があるからなのです。
そして、浄土真宗ではこの「一念発起(いちねんぽっき)」は、歎異抄の第十四条と、蓮如上人の御文章・御文にて出てくる言葉であります。
歎異抄の第十四条では、
:一念発起するとき金剛の信心をたまわりぬれば
とあります。
意味は、「本願を信じる心が起こる時に、決して壊れる事なき金剛のごとき信心を頂くのですから」です。
この「信心を頂く」という意味合いが、なんとも真宗的と言いますか、浄土真宗の奥ゆかしさという味わいを感じます。
真宗・浄土真宗においては、信心は阿弥陀仏から賜ったものである、という教えが御座いまして、自らが起こしたという事では御座いません。
この信心さえも、自分が起こしたと思う信心も、阿弥陀仏から頂いた賜り物、という、他力を敬う教えであることを、感じさせて頂ける部分です。
また、真宗再興の祖と呼ばれる蓮如上人も、御文章にて「一念発起(いちねんぽっき)」という言葉を用いられています。
私が、いつの間にか口が覚えるに到った御文章に、「聖人一流の章」という御文章が御座います。
そこには、
:「一念発起入正定聚」とも釈し
と御座います。
正定之聚・正定聚とは、仏の信心賜った時に往生が定まる、と言う意味です。
この正定之聚・正定聚は、真宗・浄土真宗や親鸞聖人の教義、信仰の特徴と言われております。
私が、真宗・浄土真宗では一念発起という言葉を聴く頻度が高いと思う、と申し上げたのは、ここにあります。
浄土真宗本願寺派の御法話では、最後に「肝要は御文章の拝読にて」とお坊さんが仰って、蓮如上人の御文章を読まれます。
参照:「暗記の方法とコツは勤行から学んだ」
真宗大谷派でも、勤行の際に和讃や総回向偈の後に、蓮如上人の御文を読まれます。
その時に、あくまで私の経験則ではありますが、読み上げられる御文章・御文が「聖人一流の章」である確率が高かったものでして、そのように感じた次第であります。
ちなみに、蓮如上人は御文章・御文の一帖目第二通にも「一念発起平生業成といえる義、これなりとこころうべし」と記されて、一念発起という言葉が出て来ます。
現代は、とても前向きな意味として認識されており、使い方もそれに伴う、この「一念発起」という言葉であります。
仏道を歩む、三帰依する事を強く決意する事を表す意味がある、仏教用語としての「一念発起」からは、さほどさすらってはいないような、そんな感じが致します。
ただ、何かに対して「一念発起」されたときに、ふと語源や言葉の足跡を辿って見ると、違った趣を味わえるのではないか、そんな事を思う今日この頃に御座います。
合掌