「いただきます」で謙虚な人の心を育む食育の智慧

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは、食事を頂く前に「いただきます」と声を出し、合掌してから目の前の食事を頂く習慣が身についていらっしゃるでしょうか?
442881 最近は、何やら某掲示板などでは「飲食店で、いただきますとかごちそうさまを言っているのって、なんなの?」と、否定的な意見も書き込まれています。



私は一人で食事をしている時も、飲食店で食事をする際も、ぶつぶつ浄土宗の食前の言葉と食後の言葉を言っているのですが、もしかしたら現代では笑われる対象なのかもしれませんね。

また、「いただきます」「ごちそうさま」を言わなくなった時代と感じる人も結構いらっしゃるようです。



私は、この「合掌していただきます」という行為は、日本人が伝承してきた美しき食事のエトス(行為様式)であり、継承していきたい美しい文化だと思うております。

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「いただきます」は謙虚な人、謙虚な心を育むエトス(行為様式)であり文化

冒頭でもお伝え致しましたように、最近は「いただきます」「ごちそうさま」という食事の言葉を発する事無く、そのままがつがつ食べて始めるという人もいらっしゃいます。

また、外で食事をする際に「いただきます」とか、店員さんにお礼を申し上げることに「お金を払っているのに、なんで挨拶とかいただきますをしなきゃいけないの?」といった意見も観たことがあります。

本当はこんな事は思っておらず「口先だけ」であって欲しいと思うところであります。



一方で「いただきますって、命を頂きますという事なんだから、その感謝の言葉を食事の前に述べるのは当然」と言う人もいらっしゃいました。

強要したり、知者の振るまいにまでなってしまうのは、それはそれで問題ではありますが、これは私は聞くべき意見だと考えております。



食事の前の頂きますは「(これから、数多の命と、その命を頂けるまでの労をねぎらい、感謝して)いただきます。」という意味もあります。

そして、この事をきちんと思うての「いただきます」を習慣づける事は、謙虚さ・謙虚な心と謙虚な人を育む一つの習慣ではないか、そのような事まで私は思考しておるのです。



謙虚さを、自己啓発本やセミナーで習うより、食事の前に「いただきます」を合掌して言葉にすることから始めるだけで、随分と違ってくると思うのですが、如何でしょうか。
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「いただきます」から始まる食育が謙虚な人や謙虚な心を育む智慧だと思う

あなたは「食育(しょくいく)」と言うと、どのような事を連想されるでしょうか。

よくあるのは、栄養士さんが給食なり昼食の時間に、黒板の前で栄養の話をされている風景ですね。

栄養指導や栄養学を教え伝えるというのも、確かに食育の一つです。



食育の概要は幾つかありますが、その一つに、
:伝統的な食文化
を伝え継承していくという概念もあります。

その「伝統的な食文化」の継承として、始めに「いただきます」を子供達に伝えていく、大人も学び実践すべき事柄ではないか、私はそのように考えております。



私は、「いただきます」で始まり「ごちそうさま」で終わる日本の食事のエトス(行為様式)は、まさに日本の伝統的な食文化だと思うのです。

大げさかも知れませんが「いただきます、ごちそうさま、があって良かった。」と言うてるくらいですからね。

「命を頂ける事に感謝していただきます。」という意味を、合掌というエトス(行為様式)と共に伝えていく。

そうすることで、「命を頂いている」という意識を毎日食事の際に持つきっかけとなります。

そこから、謙虚さ、謙虚な人であったり謙虚な心が育まれていく、と私は思うのです。



これは、子供達へはもちろんの事、「いただきます」を忘れがちな現代社会で忙しく生きる大人達も忘れないで欲しいエトス(行為様式)です。

子供達へ「いただきます」という食育を始めるなら、まずは大人からその姿を身につけ、見せていきたいものです。
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真宗大谷派の「いただきます」は、まさに謙虚を毎日学べる食前の言葉

「偉そうに言っている真観はどうなんだ?」と思われる方へ、私が実践している食事のエトス(行為様式・習慣)をお伝え致します。



私の場合は、毎食前に浄土宗の「食前のことば」「食後のことば」を発しております。

もちろん、合掌しながら。



浄土宗の食前の言葉
「我ここに食を受く 慎みて天地の恵みと人々の労を謝し奉る」
(または「我ここに食を受く 慎みて天地の恵みを思い その労を謝し奉る)
です。

その後「十念(南無阿弥陀仏を十度称えさせて頂く)」、そして「いただきます」です。



仏教の各宗派には、こうして食前の言葉と食後の言葉が御座います。

調べて観たら、色々と見つかりますし、このお堂(ブログ)でも「五観の偈(禅宗の食前のことば)」をお伝えした事がらいましたね。



そんな中、丁度良い時節(タイミング)で、真宗大谷派の四国教区のお坊さんが御法話をして下さった時、そのお坊さんが真宗大谷派の「食前の言葉」についてお話し下さいました。

そのお坊さんも、私と同じように、外食先だろうが自宅だろうが、食事の前後に必ず食事の言葉を合掌して発せられます。

そのお話しの中で、「させていただく」という文化の象徴とも思える話をして下さいました。



真宗大谷派の食前の言葉は、
「み光のもと、われ今幸いに、この浄き食をうく いただきます」
です。

四国教区のお坊さん曰く、この「み光のもと」というのが大切だそうです。



目の前の食事を頂くという事は、構造を観ると「私が食物を食べている」という事になります。

そこで、「み光のもと」を主体とすれば、「み光のもとで、み光の中において食物を頂いている、食べさせて頂いている」という見方が観えてくるのです。

食事は私腹を肥やすのではなく、この命を繋げるため、仏教的に言えば「仏道を歩ませて頂く」ために目の前の食事を頂いているということです。

自分が、我が、ということではなく、あくまで「頂いている身である」という、謙虚な受動を感じる食前の言葉であると、私も頂いているお言葉です。

近江商人の「させていただく」という表現と在り方、宗教心の発祥である真宗らしい食前の言葉ですね。



私も、このような頂き方を見習い、浄土宗の食事の言葉を述べた後、「み光のもとに、感謝していただきます」と締めくくるようになりました。



更に言うと私の習慣として、食事の調理を終えた後、まずは仏壇に食事を運ばせて頂き、仏壇の前で食前の言葉と「み光のもと、感謝していただきます。」と称えさせて頂きます。

その後で、そのお下がりを頂くというエトス(行為様式)を習慣づけております。

私のような煩悩具足の凡夫は、こういったエトス(行為様式)をしないと、すぐに傲慢になりそうでして、エトスのたびに反省させて頂いておる身で御座います。



私のエトスを真似して頂くのも大いに結構な事ですが、ここまでしなくても、「合掌、いただきます」という食前の行為様式は、日本の美しい食文化であると、私は思うております。

この美しい日本のエトス(行為様式)は、この後の世代にも是非受け継いで貰いたいものであります。



尚、今回の話と共に学んで頂きたい事を、こちらに記して御座います。

参照:「「いただきます」と「ごちそうさま」を言わない時代? 」



また、「いただきます」という、日本人の食事の習慣として根付いているこの言葉についてはは、こちらでお伝えした事があります。

参照2:「「いただきます」の英語表現は「らきすた」から学んだ 」



「いただきます」と「ごちそうさま」という文化を、継承していきたいと改めて思う今日この頃に御座います。

合掌

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