有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは「一蓮托生(いちれんたくしょう)」という言葉の意味と使い方を、ご存じでしょうか?
一蓮托生という言葉も、仏教語・仏教用語であり、それに伴う意味が御座います。
それが、どのような流転・さすらいを経たのか、仏教語・仏教用語の意味や使い方から変わっていったものです。
「他力本願」などが、仏教語・仏教用語であったけれども、意味と使い方が流転した典型的な例ですね。
一蓮托生も、同じような感じではないでしょうか。
言葉は、意味や使い方は変化する事がありますし、現代的な意味や使い方が市民権を得て、そちらが一般的になる事は存じ上げております。
その上で、「一蓮托生」の仏教語・仏教用語としての意味を学びながら、現代的な意味と使い方も同時に学びなおしてみましょう。
仏教語・仏教用語としての一蓮托生の意味
「一蓮托生(いちれんたくしょう)」は、冒頭でお伝えしました通り、仏教語・仏教用語由来の言葉です。一蓮托生の意味そのものについては、以前に一度触れた事はありましたね。
「蓮」の字が入っていると言うことで、蓮について話をさせて頂いた時に、一蓮托生の意味もさらりとお伝えしておりました。
最後に、参照記事として、蓮の花言葉と意味の表題も記しておきます。
仏教語・仏教用語における「一蓮托生」とは、
:浄土で同じ蓮の上に生まれること
を言い表した言葉です。
つまり、「旅立てば、同じ御浄土に咲く蓮でお会い致しましょう。」という、浄土での再会を言い表した言葉であるのです。
これは、連れ合い、夫婦や友人が極楽浄土にて再会し、一緒に暮らそうという願いがあり、そして救いのある言葉です。
現代的な意味と使い方の「一蓮托生」とは、随分違う印象であると私は思うのですが、如何でしょうか。
本当に仲むつまじい夫婦の間柄を表す言葉である、そのような味わいを頂ける言葉である、というのが、この「一蓮托生」の意味であります。

一蓮托生の意味を味わえる仏教の話
一蓮托生の意味は、上でお伝えした通り、浄土での再会を願う言葉であります。このことについては、特に浄土仏教において、「ああ、これは一蓮托生の事を言い表していらっしゃるのだな」と思える話や言葉が御座います。
例えば、浄土の教えを歌った御詠歌に、
「先立たば、遅るる人を待ちやせむ、華の台の半ば残して」
があります。
この御詠歌を私は、浄土に産まれた時の美しい情景を想像する言語描写だと、味わわせて頂いております。
「華の台」は「はなのうてな」と読みまして、蓮の華のことです。
浄土教・浄土仏教の教えでは、浄土に往生した時、蓮の上に産まれると言われております。
そしてこの御詠歌では、先に浄土に往生した人が、遅れてくる人を蓮の台で待っている、という光景を歌っているのです。
実は私、なんだかこの歌には無財の七施である「床座施(しょうざせ)」がなされているとも味わっております。
いつになるかわからないけれども、後でやってくるであろう連れ合いが困らないように、蓮華の台の上で、きちんとその人の場所をあけておく。
そう思えば、遅かれ早かれ、自分よりも遅れて浄土に往生する連れ合いの事を思う心を感じますし、なんだか優しい歌だと頂ける御詠歌で御座います。
また、法然上人は75歳で流罪になった時に、嘆く九条兼実さんという方や、病気がちな正如房(式子内親王)へ当てた御文(手紙のこと)にも、一蓮托生を表した歌や御言葉を記されています。
九条兼実さんへ宛てた手紙に、
「露の身は、ここかしこにて消えぬとも、こころは同じ花の台ぞ」
という詩があります。
「花」は蓮の華であり、「こころは同じ花の台ぞ」は、まさに「一蓮托生」を言い表されていると、私は頂いております。
一蓮托生の意味を頂ける歎異抄の話
法然上人に関する話を、もう一つ紹介させて頂きます。「歎異抄」を読まれた方は、親鸞聖人と法然上人の行かれる御浄土は同じである、という話をご存じでしょうか。
「歎異抄」では、親鸞聖人が「源空様(法然上人)と、この私、善信(親鸞聖人)の信心は同じです」と仰った時に論争となった「信心一異論争」という話が記されております。
そこで、法然上人は
「善信房と私の信心は、同じく如来より賜りし信心です。別の信心ならば、同じ浄土へは参りません。」
と仰いました。
同じ浄土往生し救われる、という法然上人の思想・教えが、ここにあると私は味わわせて頂いております。
そして「一蓮托生」の意味と絡めるなら、如来より同じく頂いた信心にて、同じ浄土へ往生する、その時に生まれ出でる場所は、蓮の台ということです。

仏教語・仏教用語としての一蓮托生の使い方
仏教語・仏教用語としての「一蓮托生」は、なんとも救いのある言葉である味わいがあるものです。では、この仏教用語としての一蓮托生は、どのような使い方がなされるのか。
これについては、申し訳ありません、私も完全に把握しているわけでは無くて、使いこなせる御言葉では無かったり致します。
ただ、現代的な使い方とは明らかに違う事だけは、私にも理解出来ます。
そこで、使い方のヒントとなる話を幾つかお坊さんの話や僧侶の本で頂いておりますから、その話を致しましょう。
よく使われるであろう場面が、連れ合い、つまり夫婦仲においてです。
例えば、お念仏者同士が夫婦中となった場合を想定してみましょう。
この場合、夫婦はお念仏者同士であり、同じ信心で結ばれているという文脈が御座います。
このご夫婦は一緒に暮らしていく中で、極楽往生や浄土の話もされる機会もあることでしょう。
そのような時に、
「あなたとご縁が結んで頂けて、本当に有り難い事です。このご縁は御浄土でも一蓮托生の縁だと思うております。」
という使い方が出来ます。
また、「浄土でも一蓮托生、一緒に暮らしましょう。」という、娑婆世界を超えた絆・ご縁を喜び合う場合にも、このような使い方が出来ますね。
このような例を読んで、現代社会では、「なんだ、縁起の悪い話だな」なんて思われるかも知れません。(縁起に良いも悪いもありませんが、その事についてはここでは省略致します。)
でも、これほどの、娑婆世界を超えた夫婦のご縁の到達点としては、理想的では無いでしょうか。
「偕老同穴(かいろうどうけつ)」の更に先が「一蓮托生」であると言う意味であると考えると、このような使い方が考えられます。
ちなみに「偕老同穴」とは、
:共に暮らし、共に老い、同じ墓に葬られること
という意味です。
浄土宗が掲げている言葉「共生(ともいき)」ですね、まさに。
「共生」の先に「一蓮托生」の浄土への往生がある、と思うと、なんだか希望が持てて、救いがあるように私は思うのですが、如何でしょうか。

現代の一蓮托生という言葉の意味と使い方
仏教語・仏教用語としての「一蓮托生」について、意味と使い方は一通り学んで頂けたかと存じます。最後に、現代使われている一蓮托生という言葉の意味と、その使い方もおさらいしておきましょう。
私は、テレビドラマや漫画などの作品で、一蓮托生という言葉は、あまり良い意味で使われていない印象を持っております。
現代的な一蓮托生の意味は、平たく言えば
:道連れ、共犯
ですね。
「旅は道連れ」という言葉もありますが、そんな風情あり情緒あり風流あり、という意味と使い方では御座いません。
よくある使い方を観ると、それは明らかです。
「こうなったら、一か八かだ。俺とお前は一蓮托生だ。」なんて使い方がされるのが、現代的な「一蓮托生」ではないでしょうか。
「俺たちは一緒に悪い事をした、共犯だ、一蓮托生だ」という使い方を観ると、なんとも仏教語・仏教用語としての意味から遠いところまで流転・さすらいを経たものです。
恐らくこれは、江戸時代に心中ものの物語に使われるように「一蓮托生」という言葉が使われるようになった事も、関係しているのだろうと思われます。
それが時を経て意味と使い方が経巡り、いつの間にか運命共同体だとか、道連れという意味に流転していったのでしょう。
現代的な使い方、「道連れ」というニュアンス・語感での使い方は、間違った使い方と断定して糾弾する事は、言葉のさすらいという特性から考えると、致しかねます。
ただ、仏教用語として、仏教の情緒を感じると、間違った使い方と言いたくもなるものです。
「道連れ」という意味での使い方は、間違った使い方だとは決めつけませんが、私は「一蓮托生」を用いるならば、仏教語・仏教用語としての意味でありたいと思うのですがね。
今回の話は、蓮の文字が入っていると言うことで、蓮の花言葉も同時に学んで頂くと、教養としてあなたの人生の栄養分にして頂けるかと存じます。
参照:「蓮の花言葉の意味と」
こちらでも、一蓮托生という言葉について、少しだけ触れております。
娑婆世界では、夫婦円満や友人等との良好な関係性の先としての「一蓮托生」となる共生を、心がけたいものであります。
合掌