「不退転」と「知事」という仏教用語の意味

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは「不退転の決意」や「知事」という言葉を見聞きされたことはあるでしょうか?
466934 2016年6月に、某知事が「不退転の決意」を表明したり、その直ぐ後に辞任された話がありましたから、記憶に新しいという人も多いのではないかと存じ上げます。

今回の話は、別に某知事がどうのこうの、「不退転の決意を表明しておいて・・・。」なんて批判する事ではありません。

知事が発した「不退転の決意」の、この「不退転(ふたいてん)」という言葉は、仏教語・仏教用語でありまして、私は毎日の勤行・お勤めで唱えさせて頂いている言葉でもあります。

そして更に「知事(ちじ)」も、実は仏教の言葉でありまして、仏教用語としての意味も御座います。

禅宗に詳しい人ならば、欲ご存じの事かと思われます。

今回は時事の事であると言うタイミングもありますし「知事」と「不退転」について、仏教用語としての意味をお伝え致します。

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仏教の「知事」という言葉の意味

知事と不退転という言葉は、仏教の言葉であり、仏教語・仏教用語としての意味もあるとお伝え致しました。



まずは「知事(ちじ)」から観ていくとしましょうか。



「知事(ちじ)」の言葉を辿って行くと、もとは中国の地方長官を言い表していた言葉であり、日本で現在使われている「都知事」「県知事」などと同じ意味合いです。

古来の仏教においても、この「知事」は、都知事や県知事以外の使われ方をしておりました。

インドでは、僧院・お寺での僧侶の役職を表す言葉として使われていたという歴史もあります。



それが日本に伝わってきて、中世日本の禅寺では「六知事」といって、6つの役職として伝わっております。

禅寺の六知事は、それぞれ「都寺(つうす)」「監寺(かんす)」「副寺(ふうす)」「維那(いな)」「典座(てんぞ)」「直歳(しつすい)」があります。

「維那」は、禅宗での読み方は「いの」とも呼ばれて、時々禅寺で修行中の事が書いてある本にも「伊那の時に云々」と出て来ます。

このお堂(ブログ)では、料理や食べ物、レシピについてお伝えさせて頂いた時に、時々「典座」という言葉を用いましたが、これは六知事の一つです。



ここで、一つ一つの役職についても観ていきましょう。



「都寺(つうす)」は、禅寺における一切の事務の監督であり、「都監寺(つうかんす)」とも言われます。

「監寺(かんす)」は、住持(寺の持ち主、住職のこと)にかわって事務職を監督する役目です。

「副寺(ふうす)」は、副都寺や副監寺という意味ではなく、お寺の財務を担当するお坊さんの事を言います。

お寺の会計を担うわけですから、お寺の収支を把握していることになりますね。

「維那(いな)」は、お寺に居る僧侶の役職を司る役目があり、支持者としての仕事を担う知事です。

「典座(てんぞ)」は、料理担当で、僧侶の身体を養う精進料理を作る僧侶のことをいいます。

このお堂(ブログ)でもお伝えしました通り、典座の事について事細かに書かれた書物「典座教訓」は、曹洞宗の御宗祖であられる道元禅師が書かれた書です。

「直歳(しつすい)」は、修理や田畑の管理など、作務の管轄僧のことです。



料理も作務も事務も、禅寺では全て修行ですから、六知事全て大切な僧侶の役割です。

そのために、知事の仕事は「公正な心である聖者」が任命され分担されるとしています。



現代社会における、都知事や県知事などの知事も、この在り方や「公正な心である聖者」として公務に当たるべき仕事であると、私などは思うところでありますが、如何でしょう。
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仏教用語としての「不退転」の意味

知事に限らず、総理大臣も時々言葉にされる「不退転の決意」というのがありますね。

「不退転の決意」の「不退転(ふたいてん)」も、仏教由来の言葉であり、そして仏教ゆえの意味も御座います。



不退転とは、仏教でも文字通り「退転しない」という意味です。

そして仏教、特に他力の教えや浄土仏教においては、現代的な自分都合も交えた意味とは違う意味があるのです。



私も毎日浄土宗の勤行の時に「聞名得益偈」という偈文を読み上げさせて頂くのですが、ここに「自致不退転(じちふたいてん)」という一節があります。

これは「おのずから、不退転の境地へ至ります。」という意味であり、「おのずから」という部分を見逃してはいけない、と私は頂いております。



また「一紙小消息」という法然上人の手紙も毎日読ませて頂いておりますが、そのなかに「不退の浄土」という言葉が出て来ます。

この前後の言葉と共に現代語訳すると
「退くことのない阿弥陀さまの極楽浄土に往生する」
という意味・訳となります。

南無阿弥陀仏を称えさせて頂き御信心を頂いている事を覚する事で、極楽浄土への往生が自ずから不退転となる、ということであり、何とも有り難き感謝の味わいが御座います。

浄土宗の「不退転」は、このように勤行で毎日触れる言葉であります。



浄土真宗では、他力の信心、阿弥陀如来の御信心を「南無阿弥陀仏」にて得た者は、この世において正定聚(しょうじょうじゅ)不退に定まると説かれています。

「現生正定聚」とは、平たく言えば「現生で成仏、悟りが定まること」です。

浄土真宗の親鸞聖人の教えに観られる特徴です。



これが、仏教における「不退転」の意味です。
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故に、仏教の言葉としての意味を考えると、「不退転の決意」というのは、いささか違和感を覚える事も御座います。

「不退転」と言う事は、もうすでに定まっていて、更に自分の計らいでは御座いません。

ゆえに、自分の計らいで「不退転の決意」を表明されても・・・と、浄土仏教者としては思うところも御座います。

知事も不退転も仏教語・仏教用語の意味からさすらったものだと感じる

知事も不退転も、現在は現代社会としての意味が定着して、なんだか仏教用語としての意味からさすらったものだなあ、と言う事を、改めて感じるところであります。

このことについては、禅宗の僧侶で作家の玄侑宗久さんが書かれた「さすらいの仏教語」を読ませて頂いたときも、随分と思い、共感させて頂いたもので御座います。


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例えば、知事と言えば「都知事」「県知事」としての公職を担う人の役職名となっています。

まあ、これは中国の州や県を治める仕事に就いていた人の役職名でもありましたから、それはわかります。



ただ、現在はただの役職名となり、禅寺における「知事としての心得」と感じられる任命のされ方を意識している知事って、どれくらいいらっしゃるでしょうかね。

禅寺で「六知事」を担う僧侶は、それぞれ「公正な心である聖者が任命される」という在り方にて、任命されています。

仕事振りや、昨今問題になっているお金の問題から察するに、果たしてこの在り方を意識して日々取り組まれている知事は、どれほどいらっしゃるか。

そういった仏教的な目で観察するのも興味深いものです。



また、「不退転の決意」という言葉にもあるように、不退転という言葉も意味が仏教の意味からは少し違ってきている様相が観て取れます。

「不退転の決意」という場合、現在は「諦めない、屈しない、逆境に負けない」という、早々に役職を辞さないというような意味で使われている気がします。

それはそれで、「ぶれない決意」という意味にも捉えられるから結構なことではあります。

しかしその割りには、「不退転の決意」を表明して暫くすると、退転されてしまう人もちらほら見かけたものですがね。



このような現状から察するに、阿弥陀如来の働きやお導きによる「極楽浄土への不退転」とは、全く意味がさすらっていったものであると感じることであります。



仏教の不退転は、阿弥陀如来や南無阿弥陀仏に感謝申し上げる、謙虚と言いますか、奥ゆかしさを感じる言葉ではありますが、現代的な使い方は違います。

政教分離が現代日本の政治と宗教教団の在り方だとは思いますが、私は極楽浄土や阿弥陀如来の信心から、とても軽々しく「不退転」という言葉を使えたものじゃ御座いません。



そもそも「不退転」は、自分都合で決意するものではないというのが、仏教徒である私の頂き方です。



私としては「知事」も「不退転」も、仏教の意味を大切にしていきたいと思うております。
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知事や不退転以外にも仏教からさすらった仏教用語や意味が沢山ある

今回は「知事」と「不退転」という言葉が、現代でよく使われている言葉という事から、仏教の意味と使われ方についてお伝え致しました。

上で紹介した他にも、仏教由来の日常語や現代社会でよく使われている言葉というのは、探せば沢山出会えます。



例えば「旦那(だんな)」「迷惑」「接待」も、仏教由来の言葉であり、意味もさすらったという事をご存じでしょうか。



ニュースで色々な言葉を見聞きしたとき「これ、仏教語・仏教用語かな?」と思うて調べて観るのも、勉強になると思いますよ。

現代的な意味は池上彰さんの番組などで学びつつ、仏教の言葉としての意味も学べば、言葉の味わいも深まるのではないか、ということを思う今日この頃であります。



合掌

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