人間関係と対人関係という言葉

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは「人間関係」という言葉について、どのような印象をお持ちでしょうか?
307557 人間関係というと、現代社会においては「人間関係に疲れた」「人間関係がストレスになる」など、マイナスイメージで捉えられていると思われる言葉として使われる事がしばしば御座います。

物騒な言い方にも聞こえる「人間関係の断捨離」なんてのも、関係性がよろしくないご縁はばっさり切ってしまおう、という印象があります。



何かと持ち出される話題である「人間関係」について、言葉と共に仏教的な視点で観ていきたいと思います。

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人間関係という言葉の意味と「対人関係」

私、仏教と再開してからは、特にこの「人間」という言葉を「じんかん」という捉え方をするようになってから、結構「人」と「人間」という言葉を、厳密に考えるようになりました。



そのような背景もあり、私はいつ頃からか「人間関係」という言葉について、
:人と人の間柄、その間柄の関係性
という理解をしております。

理解と言いますか、解釈ですね。



そもそも人は、人との関わり合いの中で生きております。

「人は一人では生きられない」とはよくいったもので、ご縁のお陰様という概念があれば、それが自ずとみえてくるものです。



例えば、山奥でたった一人で暮らしたとしても、その暮らしを支えてくれる要素として、何らかの他人の手が加えられているわけです。

そして、自分の暮らしを全て自分で賄い、道具も全部自分で作ったとしても、どうあってもこの娑婆世界に存在している時点で、父母(仏教では「ぶも」と発音します)との関係性は、どうあってもあるものです。



ゆえに、人は産まれながらにして「人間(じんかん)」である、私はそのような味わいを頂いております。



このような考えから、私はいつ頃からか、「人間関係」という言葉について、「なんだか改まって表現しているような気がする」という念を抱くようになりました。

私の感じ方としては、「馬から落馬」とか「頭痛が痛い」などと、なんだか同じ雰囲気さえ感じる事があります。

人という生き物は、そもそもがこの世に産まれ出た時から、すでに「人間=他者との関係性を既に持った間柄のある人」という存在です。

それをわざわざ「人間」に、「かかわる」という意味がある二つの文字「関係」をくっつけているのです。



このような認識をしておりますがゆえに、私は「人間関係」「対人関係」は、確かに同じようなニュアンスの言葉だけれども、違いも見出しております。
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「人間関係」と「対人関係」

冒頭でお伝えしました通り、「人間関係」という言葉は、「人間関係のストレス、人間関係に疲れた」という、マイナスイメージの文脈で語られる事もしばしば御座います。

恐らく、これは「自己と他者という人対人、対人関係」のストレスや対人関係の悩みであると、私は捉えております。



世の中で発生するストレスの原因は、対人関係である事が大半だという意見もありますね。

仕事の内容は素晴らしくても、一緒に仕事をする仲間なり上司との対人関係・人間関係が嫌で嫌で仕方なく、それで会社を辞めるという話もあるくらいです。

アルフレッド・アドラーさんのように、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と言い切る人が出て来ても、不思議では御座いません。



確かに、対人関係の悩みなり、それによるストレスと言うのは、現代社会では往々にして聞かれる話です。

ただ、私はそのような「対人関係」での悩みが生じる場合、改めて「人間関係」という言葉を考えるきっけに出来ないか、そのような事も考えております。
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人間関係は「人は関係として生きている」事を思い出させてくれる言葉

このような考え方をするようになったきっけかは、お坊さん達から色々と、「人間」という言葉や、人間関係についての話についての御法話を聴聞させて頂いて来た事に由来します。



その中で、これは真宗大谷派のお坊さんから伺った話ですが、
:人は関係の中で、関係として生きている
という事を聞きました。

人は社会的な生き物であり、それゆえに、「人は関係として生きている」ということだそうです。



実はこれは、非常に有り難い事でもあるのです。



例えば、私がいて、Aさんという人がいる場合、私はAさんを証明する存在となり得ます。

逆に、Aさんは私という存在を証明してくれる存在としても、いてくれるわけです。

この時、私と非私、この場合は私とAさんという関係によって、お互いに証明し合えている関係性が御座います。



この場合、私とAさんは、家族であったり友人である必要はありません。

唯お互いに存在しているだけで、「私と非私」「Aさんと非Aさん」の関係性が発生しているのです。



この辺り、存在論だとか実存がどうとか、あまり話を深めると話が尽きませんから、このくらいにしておきます。



あくまで大雑把な説明でありますが、この話から、
:人間関係とは、私を証明してくれる有り難い概念である
という捉え方・解釈も、一方でするようになりました。



「どのような他者であっても、私という存在を証明してくれる関係性がある」と言う事を、私は見出したのです。



多少強引な解釈ではあるかもしれませんが、如何でしょうか。
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お互いの存在証明を感謝し合える人間関係でありたい

私は、このような味わい方と頂き方に気づいて、それを大切にしております。



もちろん、私も煩悩が燃えさかる煩悩具足なる凡夫ゆえに、なんとなく合わない人や、嫌だと思う人は沢山います。

私は、ちょっと何か言われたり、ちょっと冗談でも小突かれたりしたら、もの凄く嫌がって怒るほどです。

小心者だから、怒りをあらわに出来ず、怒りをぶちまけない自分に酔いしれるなど、もう煩悩具足どころか、悪人そのものと言える程の所業です、私という生き物は。



そう思うたびに、「法華経(ほけきょう)」に記されている、「常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)」のような生き方は、なかなか出来ないものであると痛感させて頂いております。

常不軽菩薩とは、どんな人にでも、例え石を投げつけられても、合掌礼拝して決して人を軽んじることが無かったという菩薩様です。



ただ、なかなか常不軽菩薩に近づくことさえ難しくても、それでも目指そうと克己することは可能です。

常不軽菩薩にならい、嫌な人の存在も有り難き存在として捉えなおすことによって、より良い人間関係に転換出来る智慧として頂いております。



例えば、ちょっと小突かれたりして「むか!」となった時、自分には怒り易い煩悩があるんだなあ、と気づかせて頂けたんだ、と思うのです。

そして、その小突いた人は、その事に気づかせてくれたという「人間関係」であったんだなあ、と味わいます。

言うなれば「気づきのご縁」ですね。



会社の人間関係で言うなれば、例えばいつも愚痴ばかり言う上司や同僚がいたとしましょう。

その場合、「こんな愚痴を言うような人にならないようにしようという克己心を発願させてくれた人間関係なんだ。」と、無理矢理にでも方向転換して見るのです。

どうでしょう、こうする事で、多少は対人関係や人間関係のストレスなり悩みも、薄れるのではないでしょうか。



これは理想論ではありますし、それで全て解決するとは思えませんし、逆に人間関係・対人関係に疲れたりストレスをためる危険性が孕んでいることも、私は見逃しておりません。

ただ、こういう方向転換の智慧もあるという、仏教的な「人間関係(じんかんかんけい)」という捉え方は、何らかのヒントになるのではないでしょうか。



人と相対して関係を持つ場合や、人間関係を生きる時、最初から常不軽菩薩的な在り方で接してみるのも、良いのかもしれません。

それでも「嫌だ」と思う人は、自分とはよっぽど合わない人でしょうから、それ以上深入りしなければ良いでしょう。



そして、もしもあなたの周囲に「常不軽菩薩様」がいらっしゃったら、石を投げたりせず、こちらからも合掌礼拝を返す関係を築きたいものであります。



合掌

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