有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
先日、同志社大学でのプラユキ・ナラテボーさんと魚川祐司さんの対談と、プラユキさんによるマインドフルネス瞑想会に出席させて頂いたと報告しております。
プラユキ・ナラテボーさんによるマインドフルネス瞑想会では、3種類の瞑想にプラスして、指の瞑想も教わったりと、とても充実した一日と相成りました。
1日掛けて瞑想と仏教の座学をみっちりと学ぶ機会は、大変貴重な体験となったものです。
そして、その日に学んだ瞑想の中で、歩行瞑想にしぼって気づいた話と、瞑想難民にならぬための智慧をプラユキ・ナラテボーさんから学んだ事を、お伝えしてみます。
瞑想に取り組もうという人には、良い機会となるかと思います。
歩行瞑想とプラユキ・ナラテボーさん
プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス瞑想会では、歩行瞑想も実践させて頂きました。私は、禅寺で坐禅を習ったときや、その他禅の本等で、「行住坐臥全てが修行の場」とか「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」という禅語を学んでおります。
また、毎日させて頂いている浄土宗の勤行でも、「行住坐臥にも報ずべし」という文言を称えます。
それ故に、歩行瞑想という身体性を伴う瞑想法についても、頭での理解は割とすんなりとしておりました。
瞑想というと、もしかしたらあなたも坐禅であったり、じーっと坐って無我の境地に到るモノだ、というイメージをお持ちかも知れません。
確かにそういった瞑想もありますし、「只管打坐(しかんだざ)」は、信心脱落に到る一つの方法と説明して下さるお坊さんもいらっしゃいますから、そういったイメージが出来上がるのもわかります。
今回教わった歩行瞑想は、そのような瞑想とは違う瞑想です。
私がプラユキさんから教わった、マインドフルネス瞑想会で教わったのは、動きがあるために「今、ここ」に気がつきやすく、気づきの瞑想としてやりやすいと感じたものです。
プラユキ・ナラテボーさんから教わった歩行瞑想は、ゆーっくりゆーっくり歩くという方法ではありません。
5メートルの往復に10分ほど掛ける、超スローモーションの歩行瞑想もありますが、プラユキさんから教わった歩行瞑想は、速度は通常の速度です。
多少、ゆっくり目に歩いてはおりましたけれども、なれてくると普段歩いている速度でもOKです。
そして、歩いて居る時は、「ラベリング」という、「右足を上げる、右足を運ぶ、右足を下ろす・・・」という事は致しません。
以前、ラベリングありきの瞑想では、なだぎ武さんのディラン・マッケイ氏ネタが有効だと言いましたが、今回はその手法を使わない瞑想です。
参照:「なだぎ武さんのディランマッケイネタと瞑想」
大切な事は、「とにかく、今、ここの、現在のこの脚に気づく、この歩行に気づく事」です。
もしかしたら、私も坐禅を教わっている身であるために、「なんだか修行している気になれない」という事を、真面目な人は感じやすいかと存じます。
釈徹宗さんがおっしゃる、「物足りなくて修行したくなる衝動」ということが、起こる可能性も御座います。
しかし、プラユキ・ナラテボーさんの歩行瞑想は、そんなにガチガチな「修行、修行-!」という瞑想ではなく、あくまで「今、ここに気づく」ということです。
そのような塩梅で、歩行瞑想を教えて頂き実践し続け、現在も日常生活を送る上で、歩行瞑想を軸とした歩き方をするようになりました。
これ、「仏教の中で生活している」という在り方でおりますと、台所で立っているときや、流し台とコンロを行き来するときも、歩を進めていたり移動している自分に気づく事が出来ます。
現在、私はうつ病などの精神疾患と、まだまだ共生しておりますが、陰鬱としたときに、立って歩いて「今、ここ」に戻るという工夫も頂けた、と、感じておるところに御座います。

歩行瞑想でプラユキ・ナラテボーさんから学んだ事:次の一歩を自由に
歩行瞑想をしているとき、要所要所でプラユキ・ナラテボーさんが、気づきの瞑想に誘って下さいます。瞑想を体得した僧侶による誘導や教えがある事は、初めて歩行瞑想をする私にとっては、非常に有り難いもので御座いました。
その中で、その後の懇親会でも「ここがよかった」と仰った参加者の方がいらっしゃいましたが、私も同意したことが御座います。
それは、
「今、ここに気づけば、次の一歩を自由に決める事が出来る」
という、プラユキ・ナラテボーさんの教えです。
これは、瞑想に限らず、日常生活においても仕事においても、人生における全ての場面で、実は有効・有用性がある事柄では無かろうか、と、スケールを大きくして私は解釈しております。
ここで大切な事は、「自由(じゆう)」は、禅語であったり仏教の言葉としての意味で理解することです。
仏教が言う「自由」とは、「自らに由る」ということで、勝手気ままに振る舞うとか、フリーダムという意味ではありません。
ここで言う自由とは「過去や未来、記憶や先入観に執着しない」という意味です。
また、プラユキ・ナラテボーさんが大切に教えて下さる「良き縁」「抜苦与楽」を軸とした己の身の処し方が出来るようになる、という事だと理解されると、わかりやすいかと存じます。
歩行瞑想という身体性を伴う瞑想では、まさに「次の一歩を自由に決められる」というのは、身体的に理解していける瞑想であるなあ、と、その御言葉から思うたものです。
例えば、左足を着地した事に、きちんと気づけば、次に出す右足は、少し歩幅を狭めたり、逆に広げたり、ちょっと右寄りに等、自らに由って決める事が出来ます。
その前提として、仏教が説く「良き縁」「抜苦与楽」という軸があれば、周囲の人にぶつからない間隔を開けて等、良い方向へ歩を進めることも出来るのです。
己の「今、ここの脚と歩」に気づいていれば、これが可能である事は、把握して頂けるでしょうか。
「次の一歩を自らに由って決める事が出来る気づき」を、プラユキ・ナラテボーさんの歩行瞑想から、私は学ばせて頂きました。
これ、スポーツの世界でも応用出来そうな気が致します。
歩行瞑想に限らずプラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネスな瞑想は瞑想難民になりにくいかも
プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネスや瞑想の方法は、「次の一歩を自由に決める気づきとなる」と言う事は、私にとっては非常に有り難く、尊い教えであります。そして、プラユキ・ナラテボーさんの瞑想法は、「オッケー」という言葉が頻繁に出てくることに特徴が御座います。
これは、坐禅やマインドフルネスの種類、またマインドフルネス瞑想を教える先生によっては、真逆の事柄であります。
よくあるのが、無我の境地だとか、「妄想が出て来たら追い払え、雑念は悪だ」という教え方をしている瞑想です。
確かにこのような瞑想もありますし、禅寺で私が坐禅を習ったときも、ちょっとした座学ではそのような教えもある、とは習っております。
ただ、これはプラユキ・ナラテボーさんもTwitter等で伝えられている通り、瞑想初心者の方には結構酷なことだろうなあ、と思います。
試しにじーっと座って観れば分かりますが、じーっと体を動かさずに坐っていると、次々と雑念がやってきますし湧いてきます。
内側から湧いて出てくる雑念というのは、蓋をしたところで直ぐに蓋を突き破って、また出てくるものです。
現代社会では、忙しさのあまり「マルチタスク」が推奨される世界もありますから、歩きながら携帯電話で電話をしながら、次の事を更に考える、なんて人もいらっしゃる事でありましょう。
そのような生活をしていると、どうしたって思考しまくる脳になってしまうのは、致し方御座いません。
そのような人に、いきなりマインドフルネス瞑想をやってみろと言って、雑念が出来たら「それは悪だ」と戒められたら、「そんなこと言われたって・・・」となってもおかしくありません。
プラユキ・ナラテボーさんの瞑想では、どうしても沸いてくる雑念については「オッケー」と受け止め、また気づく、を繰り返す瞑想です。
「瞑想中に雑念が出てくる事は悪だ、出来ていない、けしからん!」なんて事はおっしゃいませんし、正論でまくし立てたりもされません。
むしろ「オッケー、雑念にも気づいてオッケー、そしてまた今の手に戻ってくるとオッケー」と、優しく今へ戻って来ることが出来る瞑想です。
歩行瞑想やチャルーンサティ瞑想、プラユキさんが教えて下さるのは手動瞑想ですが、身体性を伴うこれらの瞑想は、マインドフルネスを実現しながら、「今、ここ」で自己に現象している事もきちんと認める、という包容力があります。
瞑想初心者には、特に優しい瞑想だなあ、瞑想の入り口に良いかも、と、私は思うたものであります。
このような瞑想の入り方は、「雑念が自分はダメだ・・・」と思い込み、瞑想も満足に出来ない自分は駄目な奴というレッテルを自分に貼る、瞑想難民になりにくいかも、とも思いました。
「瞑想難民」とは、プラユキ・ナラテボーさんと魚川祐司さんの対談本で、出てくる言葉です。
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もっとも、これは「何々難民」になってしまわない智慧として、どの世界でも言える事ではありますがね。
プラユキ・ナラテボーさんの歩行瞑想や手動瞑想と、教え方につきましては、ガチガチの修行が好きな人には物足りなさを感じるかも知れません。
でも、私のようにガチガチになりきれなかったり、うつ病を持っていたりして自己の包容力も大切にすべき人にとっては、入りやすい、と感じたのが、体験した率直な感想です。
その事が感じられる本も、プラユキ・ナラテボーさんが出して下さっていて、そちらにも瞑想について書いてありますから、一読されると良いかと思われます。
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瞑想難民にならないためには、マインドフルネスや瞑想に効果を期待しすぎない事
私は、プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス瞑想会では、歩行瞑想や手動瞑想の実践も大いに学べましたし、瞑想難民にならぬ智慧も学ばせて頂きました。私は仏教に限らず、宗教で大切な事は、座学・教学においても実践においても、難民化しない事と暴走しないための安全装置となるブレーキも、同時に学ぶ事であると考えております。
これについては、もう確信めいたところまで軸を持っております。
プラユキ・ナラテボーさんと魚川祐司さんが、瞑想の良さだけではなく、そういった瞑想難民にならぬための智慧と安全装置について対談して下さっているのは、非常に有り難いな、と感じたものです。
現在、Google社が瞑想を取り入れて、本にも成って話題になっておりますね。
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この本からも、多々学べる事はあるでしょう。
しかし、このような話がどんどんと出てくると、どうもマインドフルネスや瞑想について、幻想を抱きすぎている人も、もしかしたら増えているかも知れない、という懸念を、私は勝手にしております。
例えば、究極的なところで言えば「マインドフルネスや瞑想をする事で、お金持ちになれる」とか、そんな幻想です。
仏教の瞑想も意識している人ならば、「マインドフルネスとか瞑想をすると、人格も優れている人になる」と、そのような結果なり成果、言うなれば煩悩を満たしてくれる事を期待している人も、いらっしゃるやもしれません。
そのような事を盲信する危険性については、プラユキ・ナラテボーさんと脳医学の先生である篠浦伸禎さんの対談本で、指摘して下さっています。
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もちろん、現世で生きていて、娑婆的な価値観で生きてきたならば、どうしたって「瞑想したら良いこと起こるかな」という考えを抱くのは、やむを得ない部分も御座いましょう。
私も、本音を言いますと「仏教や坐禅、瞑想でうつ病が完治するかな」という思いを抱いていた時期もありますし、今でも若干そのような思いは御座います。
でも、それはきちんと指導を受けた上で継続した先に、もしかしたらあるかもしれない、という話に過ぎません。
大切な事は、プラユキ・ナラテボーさんが仰るように、「今、ここに気づき続けて、次の一歩も自由に」を、続ける事でありましょう。
瞑想難民にならぬ智慧は、良き指導者(相性が良く自分の目的であったり人生の方向にマッチしているという意味で)と、誇大妄想を瞑想に抱かないことであろうか、と思う今日この頃で御座います。
なお、プラユキ・ナラテボーさんのマインドフルネス瞑想会については、こちらでもお伝えしております。
参照:「マインドフルネスと瞑想|プラユキ・ナラテボーさんの講座に行って来ました」
瞑想にご興味をお持ちの方は、一度体験されると、仏教に触れて瞑想を学ぶ良き機会となるかと存じます。
体験者かく語りき。
合掌