人の話を聞く訓練の基礎

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

前回は、「人の話を聞く大切さ」という表題で、色々とお伝え致しました。
307155 人の話を聞く大切さを改めて認識したら、次は人の話を聞く訓練をどうすればよいのか、という事に行き着く方もいらっしゃるかと存じます。



巷では、人の話を聞く訓練が出来る講座なり本も沢山あり、ビジネス的な要素を絡めて話を展開している方もみられます。

営業成績を上げたり、顧客からお金を取る機会を逃さぬために、という財欲の煩悩のために、人の話を聞く訓練をする人も御座いましょう。

経済偏重型・資本主義社会ゆえの仕方なさもありますが、己の欲望、自分都合のためではなく、もっと根本的なところを見直したいところであります。

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人の話を聞く訓練の基礎となる大前提は他者の尊重と自分都合の制御

人の話を聞く訓練と言うと、そのような関連の講座やセミナーに繰り出して、技術的な事を学ぶという事柄を連想する人も多いのではないかとお見受け致します。

実際に、そういった人の話を聞く訓練が出来るセミナーは、探せば出てくるものであります。



しかし、これらに通う人は、自己の内省よりも、「営業で顧客ゲット!」とか「相手を思い通りにするために」といった、煩悩を満たすために通う事を考えている人も、いらっしゃるのではないかと存じます。



そのような煩悩が沸くのは、人である以上仕方ありません。

ただ、その煩悩を満たすための行為は、最悪の場合は人の話を聞く事によって、相手の苦を和らげるどころか、相手を苦しめてしまう結果になる危険性が高まります。



ゆえに、精神論になりがちであることは自覚しておりますが、人の話を聞く際の精神性や倫理的な事柄、言うなれば「人の話を聞くための礎・基礎や土台」を、構築しておく必要があると、私は考えております。



もちろん、技術論は技術論で大切にはしたいところでありますが、それだけでは上っ面で中身が伴わないものであります。

実際に、私もそのような現場に出くわしておりますから、ここは注意したいと思うところに御座います。



よくある技術が、「ミラーリング」とか「否定では無く、なるほど、と頷きなさい」というやつでありましょうか。

以前も話した事がありますが、東本願寺の職員さんに、いちゃもんを付けていたじいさんがいたのですが、その職員さんは「なるほど。」と、いちゃもんにとりあえず頷いてはいました。

しかし、そのじいさんは「なるほどって、わかってんのかいな」と、更にいちゃもんを付けて食い下がっておったものです。



また、ミラーリングというのは、相手の仕草を真似たり、オウム返ししたりする聞く技術だそうですが、これもまた万全ではありません。

私に到っては、いちいち真似されたら、警戒しますからね。



これらの事は、詐欺師や自分都合しか頭にない営業担当者、我利我利亡者などが多用する技術であります。

口達者で、精神性と誠意が欠けている輩ですから、要注意です



そもそもとして、人という生き物は千差万別、生きてきた軌跡も感じ方も違うものです。

一般論化された人の話を聞く訓練の一環として技術論は、それはそれで存在意義はあるでしょうが、それを盲信するのも考え物であります。



そうではなく、まずはいかに目の前の相手を大切にし、真摯に傾聴出来るか、その土台が必要でありましょう。

そのためには、まずは人の話を聞く訓練にも直結する、原理や前提の事柄を、学ぶ必要がある、私はそのように頂いております。
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人の話を聞く訓練の基礎1:他者意識を持ち完全理解は諦める

人の話を聞く訓練に出かける前に、原理や前提となる事を学ぶと申し上げました。

では、原理や前提とはどのようなものか、人の話を聞く訓練の基礎となる事柄について、お伝えしていきます。



尚、人の話を聞く訓練の基礎と言っても、技術的な話ではなくて、パトス(精神性)や概念的な話になりますことを、堪忍して頂ければ幸いに存じます。



人の話を聞く訓練の基礎となる原理や前提その1は、
:他者意識を大切にして、他者の完全理解は出来ないものと心得る
ということです。



要するに「他者の完全理解は諦める」ということです。



例えば、AさんがBさんに、何かを伝えたり相談する場面を想定して話を進めましょう。

Aさんは、自分の現状や伝えたいと思う事をBさんに伝えるわけですが、そもそもとしてAさん自身も、自己を完全に把握出来ているかというと、怪しいところです。

本人が本人の事をよくわからないという背景があるのに、他者でしたらなおのこと、わからない事も増えることでありましょう。



そして、AさんがBさんに何かを伝える場合、AさんとBさんの言語能力も関係してきます。

双方の言語能力は、どこまでいっても完成することは無いと思われますし、そうなると、Aさんの真意がBさんに完全に伝わるかどうかは、どこまでいってもわかりません。

ある程度の線引きは可能でしょうが、それでも「Aさんの伝えたいことをBさんが完全に理解する」という事は、原理的には不可能です。



その不可能性から目を背けずに、まずは「原理的に完全理解は不可能である」と言う事を明らかにする、つまり仏教的な諦める事を、前提とするのです。



もちろん、諦めたからと言って、Aさんを何とか理解しようという努力を、Bさんが放棄して良いということではありません。

そうではなく、完全把握は出来ないけれども、それでも真摯に傾聴する、この態度が大切ではないか、私はそのように頂いております。

そうすることで、「自分はこの人をきちんと理解しているんだ」という傲慢や思い上がりなく、「どこまで言っても理解出来ない私である、でも、だからこそ真摯に向き合わなくては」という奥ゆかしさや責任感も育つ事でありましょう。



ちなみに、このことを全く考えられていない自称コンサルタントなどの詐欺師が多いのが、全くもって残念な娑婆世界であります。
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人の話を聞く訓練の基礎2:主観・フィルターがかけられる事を知る

人の話を聞く訓練の基礎となる原理や前提その2は、
:話す側も聴く側も主観やフィルターを認識する事
です。



人の話を聞く場合、当然ですが前提として、「話し手」「聞き手」が存在して、始めて成立します。

そして、話し手も聞き手も人である以上、主観やフィルターがかけられている上で、会話なり話をしたり聞いたりしている事は、原理・前提として把握して頂けるかと存じます。

それゆえに、どうしたって多少の齟齬は生じますし、主観というフィルターによって、話の内容なり、言葉の意味なども歪められる事がしばしば御座います。



例えば、何か用事を頼まれたときに、自分は用事を聞いて、分かったつもりでその用事を済ませても、相手の意図したことと違った事をやっていた、という経験を持っている人も、多いのではないかと思います。

これは、相手が頼んだ用事を、自分の主観というフィルターを通して聞いていたゆえに、起こった結果であると言えましょう。

この「主観というフィルター」を認識出来ていないと、「自分は理解力がある」「よくわかっている」と錯覚し、傲慢になってしまいかねません。



また、これは自分が伝える側に回った時も、注意しなければならない事であります。

自分が用事を頼む側になった時、相手が分かってくれていると思っていると思い込んだら、全然違ったことをされてしまった、という経験も、これまたお持ちではないでしょうか。



ゆえに、人である以上は、物事を伝える時も聞き手に回った時も、主観というフィルターによって歪められる事がある、という認識はしておくべきで御座いましょう。

そうすることで、「主観によって歪めないように注意しないと」という聞き方となり、傲慢になったり、わかったつもりになる事を制御しやすくなります。



正しく物事を見たり、正しく物事を認識するという事の難しさは、仏教が説いて下さっています。



以前にお伝え致しました、「正見」という八正道の最初に絡めて「正聴・正聞」の難しさに、その事を垣間見て頂けるかと存じます。

人はどうしても、主観なりフィルターを通してしか物事を見ることが出来ません。

「客観性が大切だ」と良いながら、主観バリバリの人もいらっしゃることでありましょう。

原理的に、100%の客観性は不可能であり、人の話を聞くということについても、その難しさや原理はおわかり頂けるかと存じます。



ゆえに、仏教において、声を聞くという事が真に出来る事は、六道を超えたところにある悟りの界と説かれている、私はそのように味わいを頂いております。

人の話を聞く訓練に繰り出す前に、この自覚を大切にしたいものです。
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人の話を聞く訓練の基礎3:口を挟まない

人の話を聞く訓練の基礎としての原理と前提その3は、
:人が話しているときに、口を挟まない
です。



これは、技術論でもありますし、心構えとしても言える事柄に御座います。



人は、ついつい相手の話を聞いていると、その相手の話を勝手に解釈し、自分の正しさなり言いたいことを主張したくなる事が御座います。

特に、自己顕示欲が強かったり、己の正しさを疑う内省力が無い人は、その傾向が強い事でありましょう。

内省は、仏法にその方法が色々とありますから、ついつい口を挟む癖を自覚されている方は、一度学んでおくことに越したことは御座いません。



お客様の話を聞いているはずが、ついつい自分の利益・自分都合のために、お客様の話に口を挟む、という現場を見聞きした人も、いらっしゃるのではないかと存じます。

また逆に、客として店に行ったとき、店側の人が色々と解説してくれているのに、最後まで聞かずに口を挟むなど、見かける事も御座います。

これでは、全くもって真摯に人の話を聞く事が出来ている態度とは、到底思えませんし、場合によっては、人の話を聞かない傲慢な自己顕示欲丸出し、煩悩まみれな姿に見えます。



それに、こちらが話をしているのに、いきなり口を挟まれたら、「この人は、人の話を聞かない人だな」と思えて、話をしたくなくなることも御座います。

もちろん、それも主観である事は否めませんが、少なくとも自己都合ばかりで、目の前の相手を大切にしている態度には見えません。



人が話をしているときに、口を挟まない。



これを意識して、この在り方を大切にすることから、人の話を聞く訓練としてみては如何でしょうか。



「正見・正聴・正聞」がままならぬ我々凡夫は、せめて人の話を最後まで口を挟まずに傾聴する、このことが大切ではないかと、「正見」という仏法から学ばせて頂く次第で御座います。



尚、今回の話は、過去にお伝えしてきたことと合わせて学んで頂く事も、人の話を聞く訓練の基礎部分・土台作りに役立つかと存じます。

参照:「人の話を聞く大切さと仏法」

参照2:「聞く力|傾聴と聴聞」

参照3:「人の話を聞く仕事と資格を活かした3つの職業」



人の話を聞く訓練は、土台となる精神性なり在り方が成されてこそ。



聴く力・聞く力を養える力になれましたら、大変嬉しゅう御座います。



合掌

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