有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
引き寄せの法則にて、引き寄せたい事柄として願われる項目に「良い恋愛」とか「良い結婚」も御座います。
引き寄せの法則で願われる未来は、自分都合によるお金と仕事の他を見渡してみると、恋愛や結婚といった項目も良く見聞きする話です。
「引き寄せの法則の実践で、結婚出来ました。」「良い恋愛は引き寄せノートに書き続けたから」など、そのような体験談なり感想文もあったものです。
私は、あの手の体験談や感想文は、「この幸運の財布(壷やアクセサリーの場合も同じ)を購入して、医者と結婚しました。」という、スピリチュアル雑誌に時々掲載されている広告と同じような印象を持っております。
今回は、引き寄せの法則で、良く願われている「自分都合の恋愛と結婚」について、その危うさや傲慢さ、それらに毒されない智慧をお伝えしていきます。
引き寄せの法則に淡い期待をして、このお堂(ブログ)に来られた方にとっては、水を差す内容になってしまうでしょうけれども、毒抜きには力となるかと存じます。
引き寄せの法則による恋愛成就や結婚は、相手が置き去りではないだろうか
引き寄せの法則によって、恋愛が上手く言ったり、その結果として結婚出来たりと、そのような体験談なり感想文は、インターネット上で簡単に見つかります。本当にそうであったかどうかは、最終的にはわかりかねますが、少なくとも錯覚でも何でも、ご本人がそのように思っている事は確かなのでありましょう。
中には、引き寄せの法則によって、理想ぴったりの伴侶と出会えたことを、懇切丁寧に説明して下さる事例も御座います。
それはそれで、ご本人達が幸福を感じていらっしゃるならば、そっとしておくところで御座います。
ただ、私は恋愛も結婚も、数多のご縁・縁起による巡り合わせであると言う考えがあり、引き寄せの法則だけが要因ではないと思うております。
確かに、引き寄せの法則やその方法論に則って、引き寄せノート恋愛版や結婚版を書き続けたことによる事も、要因としてはあるのでしょう。
しかし、私は片恋相手なり想う人と恋愛関係になれたり、結婚出来たと言う事を、引き寄せの法則で片付けたりする事は、なんだかなあ、と感じます。
例えば、想う人と恋愛関係・恋仲になったり、結婚したと致しましょう。
その時に、「引き寄せの法則によって、私が引き寄せた結果だ。」なんて言われたら、相手はどう思うでしょうか。
中には「千年の恋も冷める」と言わんばかりに、途端に別れ話になるという事にならんとも限りません。
そもそもとして、相手に惹かれた場合、「ひかれた」と言うておきながら「自分が引き寄せた」などとは、傲慢でおこがましいことであると私には感じられます。
言葉遊びのようではありますが、実際にやられたら、相手は笑い話で済ませてくれるかどうか、保証しかねます。
また、引き寄せの法則の方法を実践している最中、相手から告白されたという形で恋愛なり結婚が成就した場合でも、「引き寄せの法則を実践した自分の力だ」と言うのは、過信であり増上慢に観えます。
どちらのケースも「自分が」ばかりで、相手が置き去りになっている構造が観て取れます。
私は、このような利己主義で個人主義的な引き寄せの法則による恋愛成就や結婚は、なんだか寂しさを感じるところで御座います。
あくまで私個別の感想でしかありませんが。
結婚してお子さんがある程度のお年頃になった時、結婚した理由を聞かれたときに「引き寄せの法則によって結婚したんだよ、そして君が生まれたんだよ。」と言われたら、お子さんはどんな顔をされるのでしょうかね。
恋愛と結婚を引き寄せの法則に頼ったり方法を試すより、やるべき事
私は、引き寄せの法則によって、恋愛や結婚の成就を図ろうとする場合、仏教的な視点や方法によって成してみてはどうだろうか、という提言が御座います。このことについては、「引き寄せノート」の方法論や書き方のところで述べた通りです。
参照:「引き寄せの法則|引き寄せノートの仏教的活用編」
引き寄せノートの仏教的な書き方なりアプローチの方法は、「煩悩を描き出し、自分がどのような煩悩を抱いているのか、現在地を知る」という書き方をするとお伝えしております。
今回の表題に合わせましたら、まずは恋愛や結婚について、どのような事を、どのような恋愛や結婚願望を持っているのか、その事柄において引き寄せたい事を書き連ねます。
そうすることで、自分が理想としている恋愛風景なり結婚願望が浮き彫りになってきます。
そして、ここからが仏教的な視点での、引き寄せノート恋愛と結婚編のアプローチです。
これは一例ですが、「何故、自分は今、恋愛したい・結婚したいという願望を持っているのだろう?」と、自己の内面を観察します。
「周囲・親のプレッシャーか、みんな楽しそうに恋愛していて羨ましいからか、焦燥感からか」などなど、問答を繰り返します。
そこまでした上で「そもそも、本当に必要な事なのか、無理にすべき事なのか」まで深めて行きます。
このようにして、自己の現在抱えている煩悩から、そもそもの話まで深めて行く事が、仏教的な手法です。
もしも、外的要因に過度な反応をして、無理に恋愛しようとか結婚しようとしているならば、一端それをリセットして、そこからどうすれば良いのかも見えてくる可能性が御座います。
「恋愛しなきゃ、結婚しなきゃ!」と、安易に引き寄せの法則に頼る前に、そもそもの現在地を知る事が大切であると、私は頂いております。
恋愛も結婚は引き寄せるよりも「寄り添う」そして「寄り添い合う」のが理想
恋愛も結婚も、相手がいてこそ、お互いが存在してこそのことである、と言う事は、言われなくてもわかることでありましょう。相手の存在があって始めて、恋仲であったり結婚したということで夫婦の間柄となれるのです。
しかし、仏教では「三歳の子供でもわかるが、八十歳の老人でも出来ない」という言葉がありますが、こと恋愛なり結婚という話においても、これは言える事ではないでしょうか。
ちなみに、この「三歳の子供でも分かるが」の話は、「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)」という偈文を学ぶと、同時に学ぶこととなります。
恋愛や結婚、特に結婚生活において、個々の性格にも寄りますし、引っ張る側と引っ張られる側という相性で上手く行く事例もあるでしょう。
それはそれで一つの恋愛の形であり、結婚生活の様式ではあるでしょうが、どちらかが一方的に引き寄せる在り方というのは、バランスが悪いものであります。
具合が悪いのは、最初は少々お互いにおしとやかにしていたけれども、内実は引き寄せる性格であった場合です。
どちらも自分都合に物事を引き寄せる傾向にあれば、喧嘩も絶えない生活となりかねません。
また、一見相手に譲って優しいようなそぶりを見せても、それが我慢からくるものであったり、相手の機嫌を損ねないためだけの事であれば、これもやはり自分都合であります。
恋愛にしても結婚生活にしても、「お互い慈悲心を持って、寄り添う、そして寄り添い合う」というのが、恋人や夫婦の理想の形ではなかろうか、そのように思うております。
自分の都合通りに相手を引き寄せる事ではなく、ましてや引き寄せの法則に則って、恋愛も結婚も自分都合に引き寄せようというのは、このような在り方とはほど遠いものです。
恋愛や結婚において、引き寄せの法則を完全に無くせ、とは申しませんが、恋愛や結婚が成就したら、引き寄せるエゴから離れて、寄り添う、そして願わくばお互いに寄り添い合う、そのような関係を築ける智慧と共に歩まれる事を、祈るところに御座います。
恋愛も結婚も、引き寄せるのではなくご縁を大切に
恋愛や結婚について、昔からこのような言葉が言われてきたものです。「結婚はご縁」「不思議な巡り合わせ」
昔はお見合いという風習がありましたけれども、現在は時代遅れに感じるかも知れません。
しかし、そのお見合いにしても、色々なご縁の巡り合わせ、縁起の働きなりお導きによるところです。
ゆえに、お見合いの事を「縁談(えんだん)」と言うのは、ご縁を大切にしてきた事のあらわれではないか、私にはそのように思えるのです。
お見合いもご縁である、という意味を含む味わいがあると頂いているこの言葉は、もう使われなくなってきているのでしょうかね。
現在は、自由恋愛や結婚が主流のように思えますが、それは個人主義的な思想なり在り方の現れではないかと見受けられます。
そして、それが自分都合の強さにも反映されて、恋愛や結婚も自分都合に引き寄せようとする、引き寄せの法則の使われ方がなされているのは、なんだか寂しさも感じるところが御座います。
恋愛も結婚も引き寄せの法則に則るよりも、ゆっくりと縁を談じ合い、その上で互いに寄り添うという恋愛模様や結婚生活が、日本的な情緒がある奥ゆかしさを感じられます。
引き寄せの法則による恋愛と結婚より、ご縁を大切にした寄り添い合う形が、奥ゆかしい日本的な姿だと思いますが、如何でしょうか。
尚、引き寄せの法則と、ご縁を大切にするという事については、こちらでもお伝えしております。
参照:「引き寄せるより寄り添い寄り合う」
参照2:「引き寄せの法則の体験談に観る傲慢」
参照3:「引き寄せの法則とは鵜呑みにすると危険な概念」
自分都合の恋愛や結婚をしようとするあまり、破綻しない智慧を手にするに到りましたら、嬉しゅう御座います。
合掌