彼岸花の別名の味わい方

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

お彼岸の季節となると、お彼岸にまつわる話を見聞きすることが御座います。
6a738504020ee900133c4845eebcb9b9_s お彼岸と言えば、上の写真に御座いますような、彼岸花を連想する人もいらっしゃるのではないかと存じます。

私は、彼岸花というと、一時は「地獄少女」という作品が好きで、観ていた時期が御座いましてオープニングナレーションの「脆く哀れな彼岸花」という言葉を連想致します。

この「地獄少女」のオープニングは、実は結構な仏教的味わいがあります。



彼岸花は、お墓・墓地でよく見かける事もあり、それに伴った別名や花言葉も御座います。

彼岸花の別名や花言葉には、仏教的な味わいがあるものもありまして、私も仏教的に味わいを頂いておったりするものです。

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彼岸花の別名は1000種類以上あるらしい

彼岸花には、方言も合わせると、なんでも1000種類以上もの別名あるという事を、最近になって知りました。

方言を調べて行くと、これまた民俗学的だったり言語学的な興味深さが御座います。

これについては、私は別段不可思議な事であるとは思うておらんかったり致します。

例えば、感謝の言葉としての「ありがとう・有難う」も、地域によって千差万別な言い回しがありますからね。

京都でしたら「おおきに」「はばかりさん」がありますし、「だんだん」「もっけ」「たいへん」「よろしく」など、色々と御座います。



話を、彼岸花の別名に戻しましょう。



彼岸花の別名には、「地獄花」「幽霊花」「捨子花」など、なかなかに物騒で、忌み嫌われているような別名が御座います。

中には「はっかけばばあ」なんてのもあります。

砂かけばばあさんの親戚か何かでしょうか、妖怪変化の類いでしたら、一度そのお姿を拝見したいもので御座います。



「はっかけばばあ」という別名の由来や意味はようわかりませんが、「地獄花」「幽霊花」辺りは、連想しやすい別名でありましょう。

彼岸花は、よく墓地・寺院で見かける事が多く、この辺りに別名の由来を見て取ることが出来そうです。



浄土教・浄土系の宗派では到達しにくい理路かもしれませんが、神仏習合時代や日本古来よりの土着信仰では、人の他界は忌み嫌われておりました。

現在も、忌み嫌う人がいるのは感じ取れる事でありまして、病院にお坊さんが行くことを歓迎しない人がいらっしゃることからも、その辺りを読み取る事が出来ます。

そのような感覚でパトス(精神性)が結びつき、お墓=人が穢土から離れる事を連想する、という繋がりから、「お墓に生えている彼岸花」という見方のさすらいを思います。



私としましては、彼岸花の別名としては「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」を連想するところであります。

曼珠沙華という別名は、とても仏教的な趣と味わいを頂いております。

曼珠沙華については、別の機会にお伝えする事に致しましょう。
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彼岸花の別名に、念仏者であり浄土仏教徒である私の思う事

ここで一つ、浄土宗の檀家で、阿弥陀如来の働きによる極楽往生や、南無阿弥陀仏を毎日称える念仏者であり仏教者である私は、「地獄花」「幽霊花」に思うところが御座います。



以前もお伝え致しました通り、「幽霊」とは、
:過去に囚われ未来を妄想し、今を生きていない人の姿
であると、お伝え致しました。

私と致しましては、幽霊は墓地や寺院に現れる、妖怪変化・怪異の類いではなくて、あくまで我々凡夫の姿を言い表した言葉であり、概念であると頂いております。

それゆえに、「墓地に咲く花=幽霊花」というのは、なんだかしっくりこない別名であると言う感性を持っております。



また、「地獄花」についても、これは阿弥陀如来の極楽往生を説く宗派、浄土宗や真宗・浄土真宗のご門徒さんや寺院でしたら、私でなくとも思うところがあるのではないか、そんな気がするのです。

その事については、お念仏を自分都合に解釈せず、私ならば浄土宗の御宗祖であられる法然上人の御教えや御言葉を大切に頂き、戒めさせて頂いている事を前提と致します。



人は臨終の後、穢土と呼ばれるこの娑婆世界、現世を離れたら、行く先は極楽往生、仏の世界であります。

真宗・浄土真宗ならば、「臨終待つこと無し」ですから、阿弥陀如来・親様から御信心賜ったその瞬間、これを「回心(えしん)」という言い方をするのですが、「回心」した時に極楽往生が決定(けつじょう)致します。

その極楽往生の速さは、指をパチンと鳴らしたその瞬間という速さです。

参照:「お盆にお供えや迎え火と送り火をしない理由|浄土真宗の話」



その事を思うと、浄土宗と真宗・浄土真宗の寺院墓地に咲く彼岸花を、地獄花と呼ぶのは、どうなんだろうか、と思う事があるのです。



その辺り、今度菩提寺の和尚さんか、浄土宗もしくは真宗・浄土真宗のお坊さんに尋ねる機会がありましたら、尋ねておきます。
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彼岸花の別名から、人々の智慧も感じ味わう事が出来る

ちょいと宗教色が濃い話を致しましたから、現実的な話をば。



彼岸花には、「地獄花」とか「幽霊花」、また「シビトバナ」という別名も御座います。



浄土教・浄土仏教の見方からすると、確かに思うことも御座いますが、一方で、現実的な話をすると、これはある種の智慧の方便として活用された別名でもあると、私は味わっております。

と、申しますのも、この彼岸花という花には毒性があり、それでいて生薬や救荒植物としても用いられてもいるからです。

この辺り、園芸や植物に詳しい人ならば、彼岸花の特徴・特性や有毒性をよくご存じでありましょう。



彼岸花は、確かにきちんと手を加えれば、生薬や食用植物として用いる事は出来ます。

しかし、彼岸花の毒性は強く、そのまま何も施さずに間違って食べてしまったら、最悪の場合は命に関わります。

山菜を採りに出かけて、間違って食べてしまったりしたら、えらいことになります。



昔は、彼岸花の有毒性を知らない子供が、綺麗な花でなんだか食べられそうだと思って、うっかり口にしてしまうという事故もあったかもしれません。

その事を考えると、毒による事故を防ぐ方便として、「地獄花」とか「幽霊花」あるいは「シビトバナ」という別名を付けて、近づかないように施したというのは、理に適っております。

迷信めいた別名ではありますけれども、次世代を守るための方便としては有効です。

特に、昔は現代のように科学信奉もそれほど強くなく、迷信や特定の事物を忌み嫌うパトス(精神性)と、それに伴うエトス(行為様式・風習)が色濃く機能していたでしょうから効果があったであろうことは想像出来ます。



このような智慧は、妖怪変化や怪異の話で、子供達を危険から遠ざける方便の智慧と、共通する事に気がつかれた方もいらっしゃるのではないかと思います。

例えば、私の地域だけかも知れませんが、夜遅くに笛をピープーと吹いていると、こんな叱られ方をしたものです。

「夜遅くに笛を吹くと、ヘビが出てくるよ。」

ヘビが怖いという意識を持っている人には、これは有効な方便です。

ちなみに私には、こういう迷信や方便は通用しなかったわけでして、試しに夜に笛を吹いてみたこともありますが、ヘビが出て来たことは一度もありませんでした。



話を彼岸花の別名に戻しますと、穢れの意識を強く持っていた時代には、毒のある彼岸花に近づけないために、地獄花や幽霊花という別名は、効果があったものであろうと思われます。

物騒な呼び名ではありますが、このような智慧も幾許かあったであろうと考えると、別名の思いや背景には、慈悲なり優しさの智慧も見えてくると、私は味わい頂いております。



方便とは、仏法を伝えるために用いられた手法であり、仏法を聞く人がわかりやすく受け取れるようにする智慧であります。

彼岸花の別名に、そのような方便としての智慧があると考えると、彼岸花の各々の別名には、仏教的な味わいを頂く事が出来ると私は感じております。
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彼岸花の別名を味わう事から、別名という概念の智慧を頂く

今回は、彼岸花の別名を、仏教的な味わいをお伝え致しました。



彼岸花の別名に限らず、物事に付けられた名前には、別名がつけられることがしばしば御座います。



例えば、身近な話を致しますと、大豆は「畑の肉」という別名が有る事をご存じでしょうか。

最近でしたら「畑の肉」は、アボカドもそのように表現される事が御座います。

そのアボカドにも「畑のバター」という別名が御座います。

これは、畑で育てられて収穫される食べ物でありますが、タンパク質が豊富である事を物語っている、非常にわかりやすい別名である事が窺えます。



このように、何かの事物に対する別名というのは、智慧を絞った結晶であり、その智慧をわかりやすく伝える方便であるという味わいがあるのです。



今回の話から、このような仏教的な智慧を共に味わって頂けたならば、大変嬉しゅう御座います。

味わう、といっても、彼岸花を生で味わうのは危険ですから、それはやめておきましょう。



尚、今回の話に関連した事柄は、こちらにも記しております。

参照:「紫陽花(あじさい)の花言葉に学ぶ仏法」

参照2:「蓮の花言葉の意味と仏教用語」



花言葉や花の持つ意味から、仏法を学ぶという事を味わって頂ければ、幸いで御座います。



合掌

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