八正道の意味と覚え方

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは「八正道(はっしょうどう)」をご存じでしょうか。
237015 八正道とは、「四諦八正道」という言い方もされて、仏教の苦の原因と苦を滅することを説く「四諦(したい)」と共に説かれる教えです。

「八正道」は「八聖道」とも表し、仏教の歴史や釈尊(お釈迦様)の一生を、何らかの形で学ばれた人ならば、最初に説かれた教えとして、覚えていらっしゃるかと存じます。

釈尊の最初の説法を「初転法輪」と言いまして、「四諦」と「八正道」を説かれました。



今回は、その八正道について、お伝えする事と致します。

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八正道の意味を学ぶための基礎的なこと:「正」とは何か

八正道という言葉を、「八つの正しい道」という言葉の意味を捉えられることから、八つの項目があるんだろうな、という予測は立つかと思われます。

その「八つの正しい道」、言うなれば、八つの項目と意味についてお伝えする前に、まずはそもそも論と言いますか、基礎的な話をしておくことに致します。



そもそも、八正道とは何なのか。



八正道とは、苦を滅する方法である「道諦(どうたい)」という、四諦の概念で説明される方法論の事です。

苦を滅する方法と説く「道諦」の具体的な方法論が、八正道であると、私は浄土真宗本願寺派の僧侶から教えて頂きました。

また、その他の本でも、似たような解説がされている事も御座います。



この八正道とは、苦を滅する方法ということですが、更に平たく言うなれば、「涅槃に至るための基本的な修行」です。

涅槃というのは、釈尊の他界を意味する言葉であり、「寂滅」といって、全ての煩悩から解脱した境地の事でもあります。

その涅槃に到るための修行の基本が、この「八正道」というわけです。



八正道の概念的な意味を理解したところで、前提として学んでおきたい事柄が、「八正道」の「正」です。

現代社会においては、「正」と言うと、「正しい」、すなわち、物事の正しさであったり、曲がっていない、真理から外れていない、等の意味で捉えられる事でありましょう。

また、決まり事を守っていることを「正しい」と言い、「善いこと、好ましいこと」を、「正しいこと」と認識されている人も、多いかと存じます。

「正しさ」の反対が「間違い・悪」という説明のされ方や認識のされ方が、一般的でありましょうか。

社会通念や世間知では「正しい・正」は、このような理解で差し支えなさそうです。



仏教における「正」は、「善と悪」「正と邪」というような、相対的な捉え方や考え方ではなく、りや偏りがなく、物事に囚われずに行うべき事」です。

この辺りを見事に解説して下さるのが、禅僧として100年以上を現世におわしました、松原泰道さんの「仏教のことばで考える」という本です。

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もちろん、現代社会を生きる上では、現代的な「正しい・正」という概念も、無視出来ません。

ただ、時代や世相、国や人によって、その正しさは変わってくるものです、世間知や社会通念の正しさも「諸行無常」です。



故に私は、宗教サイドの意味や見解、仏教の「正しい・正」という概念を取り入れることは、娑婆世界を生きる上で肝要ではなかろうかと、頂いております。

この後にお伝え致します「八正道」の項目は、そのような理解で読み進めて頂ければ、幸いです。
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八正道の項目と意味、そして覚え方

それでは、いよいよ八正道の項目、ここの事柄と意味について、お伝えしてきます。

また、この単元の最後には、私が実践して覚えた覚え方も、伝えさせて頂きます。



八正道の一つ目は、
:正見(しょうけん)
です。

これは読んで字の如く、「正しく物事を見る」という事です。

仏教においては、「見」は「知る事、考え方、考える事」という意味も御座いまして、二つ目の項目に直結しております。



八正道の二つ目は、
:正思惟(しょうしい)
です。

「思惟」とは「正しい思考、正しい思索」という意味で、宝蔵菩薩が阿弥陀如来になられる過程でなさった「五劫思惟」という言葉は、ここでどういうことか把握出来るかと存じます。



八正道の3つ目は、
:正語(しょうご)
です。

「正語」とは、「正しい言葉」という意味で、是は「正見」「正思惟」あってこその事であります。

更にこの「正語」には、三つの事柄が含まれておりまして、「諦語:如実知見を言葉にする」「実語:相手のみになっての言葉」「時語:時と場合に合わせた言葉」が成立されていて、「正語」です。

「時語」は、「時機」「対機説法」という、釈尊がその人にベストな言葉でベストなタイミングによって説法をされていた話を思い出して頂ければ、ニュアンスが掴めるかと存じます。

参照:「臨機応変の意味と使い方の例文」



八正道の四つ目は、
:正業(しょうごう)
です。

「正業」とは、「ただし意味の処し方、行い」の事であり、先の三つを調えていけば、ここにたどり着けます。

また「業」の字から分かる通り、「身口意の三業」を調える、ということでもあります。



八正道の五つ目は、
:正命(しょうみょう)
です。

「正命」は、平たく解説するならば「正しい生活」という意味です。



八正道の六つ目は、
:正精進(しょうしょうじん)
です。

「正精進」は、「正しい励み、正しく努力する事に励む」という説明が為されまして、上に上げてきた全ての事柄を調えて為し続ける努力、精進し続ける事を意味します。



八正道の七つ目は、
:正念(しょうねん)
です。

「正念」とは、「常に心に念い、意識しなくても忘れずにいる状態」という意味で、仏教においては、常に仏道の事を思い続けることです。

「ここが正念場だ」という表現がありますが、これはその場だけ真剣に考えたり思ったりする語感があり、八正道の「正念」とは、意味や語感が違う気が致します。



八正道の八つ目は、
:正定(しょうじょう)
です。

「正定」とは、先の7つ全てを調えて積み上げた先にある「正しい身心の安定」という意味です。



さて、最後に覚え方ですが、私はもの凄く強引な覚え方をしておりますから、もしかしたら参考にならんかもしれません。

あくまで私が実践した、一つの覚え方として、提示させて頂きます。



私の覚え方は、「正」の後ろの言葉を繋げて、御経の如く音読して覚える、というものです。



「けん・しい・ご・ごう・みょう・しょうじん・ねん・じょう」



これを繋げて一気に「げんしいごごうみょうしょうじんねんじょう」と、一息に覚える覚え方です、音読することがポイントです。

強引と言えば強引ですけれども、口が覚えるようになれば、しめたものです。
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八正道はとてもじゃないけど完成させることが出来ないと自覚された高僧

ここまで、八正道とは何かという問いから、意味や個々の項目と、その意味についてお伝えしてきました。



八正道は「八聖道」と表し、聖者の道という意味も御座います。

八正道の修行を実践すると言う事は、偏りから離れて、「ありのまま、あるものはあるがまま、ないものはないがまま」という意味の「正」を実践する事でもあります。



釈尊を始め、仏教のお坊さん、仏道を歩まれた高僧と呼ばれる人達は、この八正道を極めた人ばかりだと思われる人も、いらっしゃるやもしれません。

しかし、比叡山に登り、厳しい修行を20年以上もしたけれども、全く煩悩から解脱出来ない、それどころか、己の煩悩から離れられぬ事を痛感するばかりである、という自覚を持った高僧がいらっしゃいます。

それが、法然上人親鸞聖人といった、鎌倉時代に浄土仏教を伝えて下さり、現在までその教えを継承するに至って下さった高僧達です。



法然上人の話でしたら、この自覚については、「法然上人行状絵図:聖光上人伝説の詞」で観る事が出来ます。

そこには、

「かなしきかな、かなしきかな。いかがせん、いかがせん。ここに我らごときはすでに戒定慧の三学の器にあらず」

と御座います。

「智慧第一の法然房」とまで、周囲からは呼び称された法然上人ですが、ご本人は「愚痴の法然房」と自らを呼ばれた事の人格が垣間見られる詞です。

これは、「戒定慧」という仏教の三学について、法然上人の自覚が書かれているのですが、法然上人が八正道を知らなかったとは、とても思えません。

八正道についても、「戒定慧」と同じように、成し遂げることが出来ないという事を思われていたり、そのような自覚があったのではないか、私はそのように想像して、頂いておる次第です。



親鸞聖人も、歎異抄に記されている「自分が善人だから、正しい人だから、今はだれもセツガイしていないのではない、たまたまセツガイする御縁が無いだけだ。」という唯円さんとの会話から、その自覚が垣間見られます。

自分は正しい、八正道を完全に修める事が出来るという意識であったならば、とてもじゃないけれども、「歎異抄の専修賢善」の話は出てこない事でありましょう。



20年以上も厳しい修行をされた高僧達だからこそ、八正道とは何か、という根本の問いに至り、そこから自己の自覚もあったのであろうと、私は頂いております。

だからこそ、私を含めた煩悩具足の凡夫や在家でとても八正道を歩みきれぬこの身でさえも、救われる道、「易行・他力・浄土門」という教えを頂けるに到ったのだと味わうと、改めて有り難さと尊さを感じる次第で御座います。
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八正道は原理的に出来ないという自覚

ここまで、八正道とは何か、概要としての意味から個々の意味まで、お伝えしてきましたけれども、それでは、あなたはこの八正道を、究めることが出来ますでしょうか。



私は、とてもじゃないけれども、出来るような器には御座いません。



理想であったり、八正道という概念を目指すべき事柄として、頂いてはおります。

日暮らしの指標としても、凄く大切な事を説いて下さるのが八正道であります。



しかし私は、そもそもとして最初の「正見(しょうけん)」からして、もう出来ないと言う事を自覚しております。

物事を正しく、難の偏見も無く、あるものをあるがまま、ないものをないがまま、「直観」する事、あなたには出来ますでしょうか。

私には、とてもじゃないけれども出来ません、必ず何らかの色眼鏡で見ますし、「正しく見よう」と考えたその瞬間に、己の邪見を思い知らされるばかりであります。



まさに私は「邪見驕慢悪衆生」だと、思い知らされるのです。



だからこそ、「邪見驕慢悪衆生」だからこそ、八正道という指標を大切にして生きるべし、と、己に問いかけて歩む生き方を頂ける、という頂き方も出来ます。



原理的に、私は娑婆世界に生きるこの身、「人」という生き物である以上、八正道は目指せても完遂することは不可能であろうと頂いております。

だからこそ、仏教が説く「諦める」事を大切にして、人の有り様としての「八正道」を念頭に置いておく事が、肝要ではないかと味わっております。



私が浄土仏教者だからでしょうか、「八正道」とは、私にとっては、調えるべき事であるのに、とても調える事が出来ない人の性(さが・もちまえ)を、自覚させて頂ける教えであると感じております。

八正道はとても出来そうに無い凡夫である、その自覚を持ってして、諦めながら調える事、そのような頂き方が、八正道とのよき距離感であり、よろしい塩梅ではないか、そのように味わいを頂く今日この頃に御座います。



合掌

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