有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
秋と言えば南瓜(かぼちゃ)の季節、南瓜の季節と言えば、ハロウィンを連想する人も多いのではないかとお見受け致します。
特に、若い人達の間では、ハロウィンは最早一般的に知られていて、実際に仮装したりしてハロウィンナイトを楽しまれているのではないかと、勝手に想像しております。
報道を観ていると、渋谷などの都市部では、毎年ハロウィンナイトの後は、ごみの問題が凄まじいらしいことからも、ハロウィンの認知度や楽しむ人口の多さが窺えます。
「立つ鳥跡を濁さず」と言いますか、ハロウィンナイトで飲食を楽しんだ後は、ご自身の手で家に持ち帰るなりして、最後まできっちりとする事が望ましいのですがね。
それこそ、以前お伝え致しました「徹底」に繋がるのではないかと思うところで御座います。
参照:「徹底の意味と「徹底すること」の難しさ」
今回は、ハロウィンのお菓子のエトスを、仏教的な視点で観ていく事に致しましょう。
ハロウィンの由来を少しおさらいとお菓子のエトス
ハロウィンと言えば、ハロウィンの夜、今では「ハロウィンナイト」と、お洒落な言い方が成されて、日本でも仮装して楽しむ人達も多く、認知度が高いお祭りです。西洋の宗教的な行事、あるいは宗教色の感じられる行事としては、少なくとも経済規模はクリスマスに次ぐ規模を誇る行事にまで到ったそうです。(2016年時点では)
東京ディズニーランドやUSJ等では、ハロウィン関連のイベントは、最早定番でもありますし、仮装行列も各地で行われているそうです。
ちなみに、日本も節分には、三条通りで「三条お化け祭り」が催されていますが、規模も知名度も、ハロウィンには遠く及ばない気が致します。
発起人と言いますか、関係者である某IT企業の社長さんから、私は直接「リオのカーニバルばりにしてやるぜ!」という意気込みを聞かせて頂いてはおったのですが。
前置きが長くなりましたが、ここで少しだけ、ハロウィンの由来とお菓子のエトスについて、おさらいしておきましょう。
ハロウィンは、現在は仮装行列など、各々が楽しむ行事として、宗教色や宗教的名残は感じられるものの、宗教的な行事として意識的に参加している人は、特に日本では少ないと思われます。
元々ハロウィンは、その歴史を辿ってみると、10月31日に魔除けや悪魔を追い出すという意味を持つ宗教的な行事でありました。
始まり・起源は、その昔は宗教行事ではありましたが、キリスト教の行事ではなく、教団によっても容認したり批判したりと、意見が分かれているようです。
そして、ハロウィンの有名なエトス(行為様式・風習)として「トリック・オア・トリート(お菓子か悪戯か」という、二者択一の選択を迫る子供に対して、大人がお菓子を渡すというのがあります。
このエトスの起源については、私も詳しくは存じませんから、これは聞きかじった話です。
なんでも古来より、酒宴の習慣があり、それが発展してハロウィンの行事と結びついた、とのことです。
「トリック・オア・トリート」の直訳が「お菓子か、ごちそうか」と言われている事に、その起源を垣間見ることが出来ます。

ハロウィンナイトのお菓子のエトスを、こんな視点で
ハロウィンナイトに、子供達が西洋の妖怪なりお化けの格好をして、家々を回るこの風習について、私はこんな事を考えたものであります。ハロウィンナイトで子供達は、大人達に「お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ。」「お菓子を出すか、悪戯されるか、どっちがよい?」と、選択を迫ります。
ちなみに、結構年長の子供達になると、本当に卵を投げてきたり、家の庭の木に何かぶら下げたりして、悪戯するそうです。
日本でしたら「食べ物を粗末にするべからず、喝!」と、ひっぱたかれるような事が、ハロウィンナイトという時空間だけは許される行事なのでありましょう。
米一粒も「もったいない」と、きちんと残さず食べるように躾けられた私でありますから、私も卵を投げてもったいない事をしようもんなら、「喝!」と、叱るでしょう。
この「お菓子をしないと悪戯するぞ」とか「悪戯かお菓子か」というのは、脅迫めいた感じがするなあ、と、私の色眼鏡は観たものであります。
そして、そこから更に「交換条件・契約社会」を、垣間見たりもしております。
日本では、お裾分けや、おもてなしの文化があり、また仏教由来の布施という考え方も一般化している事を感じる時もありますから、悪戯をすると脅されなくても、子供が来たらお菓子をあげるような風習に変化しそうだと感じるものであります。
日本では、ハロウィンナイトは仮装行列は盛んなようですが、「トリック・オア・トリート」は根付いてはいないのも、別にいたずらするぞと迫らんでも、子供達が来たら、お菓子くらいあげると、という気前の良さがあるからかもしれません。
特に祖父母は、子供が孫を連れてやってきたら、やたら世話を焼いてくれますからね。
私も祖父母から、顔を見せるたびに、お菓子に限らず色々な恩恵を頂き、大変嬉しかったものです。
今の私にとって、最も恩恵を受けたと思うのは、お念仏を私に伝えて頂いた事であります。
日本では宗教色が更に薄く、お菓子のエトスではなく、いわゆる「友チョコ」などの感覚で、お菓子のやり取りをする、そんな感じなのではないかと感じるところで御座います。
ゆえに、わざわざハロウィンナイトにお菓子をねだって家々を回る、というのは、あまり根付かない土壌であるのではないか、という推察をしております。
そういう日本的な土壌のためか、お菓子メーカーは、ハロウィンの普及と共に、ハロウィン関連のお菓子販売にも力を入れているようですが、悪戯との交換という形にはなっておらんようです。
「お菓子のために家を回るのは、だるい」という、現代っ子にありがちな「だるい現象」によるものかもしれない、と思うと、なんだか寂しさを覚えんでもありません。
ハロウィンのお菓子のエトスは、地域の繋がりになりそうな気がする
ハロウィンナイトのお菓子のエトスは、悪戯はたまったもんじゃありませんが、このエトスは、地域の繋がり、ご縁を感じられるエトスである、私はそのような味わい方をしております。現代社会においては、特に都市部では、子供達が色々な大人と接する時間というのは、なかなかに難しくなってきているような気が致します。
子供も、習い事やゲームなどで、何かと忙しいでしょうし、ご近所づきあいというのも、都市部では希薄であると言われていることからも、そのように感じます。
よく、「マンションに住んでいるけれども、隣の人の事はよくわからない。」という話が出るくらいですから、それが大多数とは思いませんが、やはり増えてきている傾向にあるのではないでしょうか。
そういう昨今の都市部において、ハロウィンナイトのお菓子のエトスは、子供達が色々な大人と交流を持つ、良い機会な気が致します。
宗教色が薄れていて、気軽に楽しめる行事であるために、堅苦しさがなくアレンジされた、日本のハロウィンを、こういう地域交流に応用することも出来る事でありましょう。
ハロウィンナイトのお菓子のエトスは、地域交流、子供達と大人達の交流に一役買いそうな、そんな事を思う今日この頃に御座います。

ハロウィンのお菓子のエトスを、子供達の托鉢体験として観る視点
ハロウィンのお菓子のエトスについて、色々とお話を展開して参りましたが、西洋文化故に、なかなか仏教的な話が出来ておりません。最後に、ハロウィンのお菓子のエトスを、仏教的な風習にアレンジしてみると、こんな感じかな、と言う事をお伝えして締めくくる事と致します。
ハロウィンナイトに、子供達が集団でお菓子を頂いて回る様相から、托鉢を連想致しました。
托鉢とは、お坊さんがお鉢を持って、信者や衆生のいるところを周り、食べ物等を頂き、信者・衆生が布施行によって功徳を積む修行の一つです。
現在でも、私も時々町を歩いていると、お坊さんが立って御経を称えて托鉢されている姿を目撃します。
私は仏教者ということもあり、布施行をさせて頂き、数珠を持って合掌して御辞儀をさせて頂いております。
その「托鉢」から学び、子供達がハロウィンナイトに家々を回るのを、単にお菓子をあげるだけではなくて、尊い場の共有にしてみてはどうだろうか、そんな事を考えました。
子供達に悪戯されるから、仕方なくお菓子をあげるというのは、なんだか消極的で、かつ契約的と言いますか、打算的な気が致します。
そうではなくて、お互いに感謝し合う在り方の方が、日本的かつ仏教的なエトスになると思います。
お菓子を貰う方の子供達は、日頃の大人達の働きや、見守って頂いている事に感謝申し上げる。
大人は大人で、未来を担う子供達を慈悲の心にてお迎えし、お菓子のお布施によって、功徳を積ませて頂く。
そのお菓子も、家の宗教によりけりではありますが、仏さんや大いなる自然の恵みからの「お下がり」として頂いた食べ物である、という事を伝える。
このような流れが、日本的かつ仏教的な、言うなれば「日本版ハロウィンナイトのお菓子のエトス」になり得るかな、なんて事を妄想しております。
悪戯されるかお菓子をあげるか、ではなく、感謝の大切さを伝えていくハロウィンというのが、仏教的な味わいのある日本的なハロウィンのお菓子のエトスだと思うのですが、如何でしょうか。
合掌