挨拶の意味

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

以前に「会釈」という言葉について、現代的な挨拶としての意味と、仏教用語としての意味をお伝えしております。
ƒvƒŠƒ“ƒg 「会釈」は、現在は軽い挨拶と言う意味で用いられる言葉である、とお伝えし、ビジネスマナー講習やセミナーでも、そのように教えられる事もあるだろうと、お見受け致します。

会釈に限らず、現在は色々な挨拶の形があり、出会う人との関係性によって、その有り様も色々と御座います。



また、ビジネス(取引)や、商いの現場では、挨拶状やメールでの挨拶文についても、様式や形式が決められておったりします。

新人研修などでは、これら挨拶の仕方なり、挨拶状やメールでの挨拶文の書き方も、叩き込まれる事もあるでしょう。



このように、色々とある挨拶ですが、この「挨拶」も、仏教用語であり、禅語であったりいたします。

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挨拶の現代的な意味

挨拶は、特に禅語として、禅宗の問答の場面を表す仏教用語でありますが、その前に現代的な意味を復習しておきましょう。



語源から辿りますと、「挨拶」とは、
:中国語の「挨(押す)+拶(押す、迫る)」
という組み合わせの語であり、「押して進む」と言う意味です。

その意味から、お互いに近づくという意味となり、現代の「おはよう」とか「こんにちは」という、出会った時や遭遇したときに、言葉を交わしたりお辞儀をしたり、という意味にさすらいました。



中国語に見る挨拶の語源は、どうもごりごりと迫るような印象を受ける意味の解説であります。

現代社会において、このような、ごりごりとした挨拶というのは、実際にやられると引いてしまう人もいらっしゃることでありましょう。

かくいう私が、そのような性(さが)なのですがね。



挨拶も、ただごりごりと押すのは日本的ではないように感じますし、ゴリ押しな感じのする挨拶は、現代風に言えば「うざい」と思われて、うざがられて避けられる可能性も御座いましょう。

日本は和を尊ぶ傾向があるとも思えまして、挨拶も、ごりごりと相手に押しつけるようなことではなく、意味や様式のさすらいが軽くなっていったのも、何となく民族性・国民性が関係しているのかな、と勝手に思うております。

「やあ」とか「ちーっす」というのも、挨拶の一例として数えられて、友達や仲間内という間柄であるならば、これも一つの挨拶と認められている事は、堅苦しさを感じない、和む柔らかさによるものでありましょうか。



最近では、仲間内だけの挨拶があったりと、多種多様な挨拶の形があるであろうことを、体験的に感じております。

私も、龍谷大学の放送局に顔を出していたときは、朝でも昼でも夜でも「おはようございます」が、放送局の挨拶とされておったことを、思い出しました。



そんなこんなで、現代的な意味における挨拶とは、基本的には「コミュニケーションの基本」「人と人との作法の基本的な事柄」です。



また、「挨拶」には、冷たい意味や使い方もされる事が御座います。

よく「それはまた、随分とご挨拶だね」と言う言葉の使い方がありますが、小説やテレビドラマなり映画なりで、聞いた事があるというフレーズではないかとお見受け致します。

この場合の「挨拶」は、「冷たいね」と言う表現を、遠回しに言っていると解釈される意味と使い方です。

その他、「挨拶料」や「今度、仕返しに挨拶にいってやる」などは、なんとも物騒な意味を含んだ挨拶の使い方です。

私も昔、「特攻の拓」という漫画を読んだ事がありますが、その漫画では「挨拶」という言葉を、物騒な意味で使われていたことを記憶しております。



このように、今では日常的に使われるようにさすらった「挨拶」の言葉とその意味ですが、「挨拶」という言葉が日常化したのは、だいたい江戸時代であると、玄侑宗久さんの本で学ばせて頂いております。

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「さすらいの仏教語」によれば、江戸時代辺りから、様々な物語において使われるようになり、それが応接などで使われるようになり、現在の意味や使われ方、様式へとさすらった、とのことです。
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挨拶の仏教用語としての、禅語としての意味

現代的な「挨拶」の意味を復習したところで、お次は仏教用語としての、禅語としての挨拶の意味です。



禅語の挨拶については、「碧巌録(へきがんろく)」という禅の書物に、
:一挨一拶、深浅を見んことを要す
と御座います。



禅語の挨拶は「一挨一拶」と言いまして、これは師匠と弟子、あるいは禅僧同士の公案、いわゆる禅問答の場面を表した言葉です。

お互いが一つのテーマについてお互いの深浅を試す、という、緊迫した場面を想像するところで御座います。



現在は、挨拶の意味や使われ方、その様式や有り様も、随分とさすらい軽く和やかになったものですが、禅語・仏教用語としての挨拶は、緊迫感もあったものです。



上でお伝えした「さすらいの仏教語」では、仏教用語・禅語としての「挨拶」からは、随分とさすらって軽くなった、と、玄侑宗久さんがおっしゃっています。

確かに、現在使われている「挨拶」という言葉の意味は、禅僧同士の問答という緊迫感は感じにくい事も御座いましょう。

私は、和やかで親愛の言葉であったり、儀礼や返礼であったり、お互い気持ち良く過ごすという意味にさすらった「挨拶」も、それはそれで味わいがあると、頂いております。
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意味が軽くなるようにさすらい、軽んじられる挨拶

「挨拶」は、緊迫した問答・公案の場面から、随分と軽快な方向へさすらったような、そんな気が致します仏教用語由来の言葉と意味で御座います。

緊迫した挨拶が、軽々しくさすらった、と言われれば、確かにそうでありましょう。

ただ、軽快と申しました通り、軽い挨拶で快く(こころよく)、という意味へのさすらいは、仲間内であったり、共にいて和む友人であるお互いを確認し合えるという味わいもあります。



一方で、現代的な意味における挨拶も、仏教用語としての挨拶も、現代社会では軽んじられすぎていないか、そのような事も感じる事が御座います。

例えば、以前お伝え致しました「会釈」でも話した事ですが、正岡子規さんという歌人が、東京に行ったときのエピソードが御座います。

正岡子規さんは「筆まかせ」にて、「故郷の松山では、顔見知りや全く知らない人という隔てなく、挨拶したら返してくれたもんだが、都会に出て来てそれをやっても、無効だったよ。」という記述を、随筆として残されております。



これは、果たして他人事でしょうか。

自分事として捉えなおし、日々の暮らしを思い返してみれば、思い当たることもあるのではないか、そのように私は頂いております。



例えば、スターバックスなどの飲食店へ行って、店員は挨拶をしてくれるけど、こちらからは注文を単語で宣うだけ、なんて場面は、御座いませんか。

店員さんが一所懸命に「いらっしゃいませー」と、笑顔で応接して下さっても、仏頂面で「カフェモカトールサイズ」とか「ショートのフラペチーノ」と、自分は単語だけしか発さない、なんてことになっておらんでしょうか。

私は、「どうも」と、合掌しながら現代的な意味の会釈、軽い挨拶をするように心がけてはおります。

でも、心がけていないと、ついついこちらからの挨拶をうっかり忘れてしまう事もある辺り、まだまだ徹底できておらんことに、反省させて頂くばかりであります。

翻って、この私のふがいなさ、不徹底さを、ご自身の日暮らしに当てはめてみて、顧みられては如何でしょうか、と、提言させて頂きます。



軽い会釈という意味にまでさすらい、更にそこから軽んじられるまでに到っている、この「挨拶」を、今一度、意味と共に問い直したい、そのように思う私で御座います。
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相手を尊重してお互いがより良く過ごせるために挨拶の意味を問い直す

私は、現代的な挨拶も、仏教用語・禅語としても挨拶の意味も、もう一度問い直し、大切にしたい、そのように考えて降ります。



現在は、ビジネスマナー講習やセミナー、新人研修などで、挨拶の仕方や様式、挨拶状やメールなどの挨拶文を書く訓練もなされます。

確かに、まずは形だけでもマスターして、そこからパトス(精神性)を育む、と言う順序も良いでしょう。



それとは逆に、まずは挨拶をする心構えなり、パトス(精神性)を育んで、その上でエトス(様式)とロゴス(言葉使い・挨拶の言葉)を育むというのも、また有用な方法であります。

そして、パトスから挨拶を改めて問い直すのであれば、挨拶をする土台として「相手を尊重する事、お互いがより良く過ごせるエトスにする」という事を意識する事。

これが一つの在り方であろう、私はそのように気づかせて頂いております。



宗教は、「エトス・パトス・ロゴス」のバランスと循環が大切であると、私は釈徹宗さんの御法話・講義や本から、学ばせて頂きました。

挨拶も、この三つのバランスと循環が肝要ではないか、そのように考えております。



相手を尊重し、相手をきちんと知ろうとする事は、仏教用語・禅語としての「挨拶」にも、現代的な意味としての「挨拶」にも通じます。

どちらの挨拶も、「今、ここ」を共有している目の前の相手を大切にしているからこそ、そう思えば、挨拶をしない大人も多いと言われている現代社会において、「挨拶」の意味を、改めて考える事は、意義のある事だと、私は思うております。



尚、今回の話に関連して「会釈」についても復習して頂ければ、より理解を深め、問いを深められるかと存じます。

参照:「会釈の意味」



また、ビジネスマナーの話を致しましたから、こちらも参考となりましょう。

参照:「ビジネスマナーとは何かを学ぶ智慧まとめ」



挨拶という、当たり前な概念としてあることを、もう一度問い直す、問い続ける、これも仏教的であり、仏道を歩む事であると頂く今日この頃に御座います。



合掌

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