夢がない事や目標がない事は悪ではない

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

現代社会において、特に自己啓発の世界では「人生の目標を持つこと」「夢を持つこと」が、推奨されている空気を感じます。
137653 また、会社や学校などでは、将来の事など目標設定することが言われており、逆に目標がない事や、夢や目標を持たない生き方は、なんだか悪とされている空気も感じる事が御座います。

確かに、夢や目標を持つことは一概に悪い事ではありませんし、明確な目標のお陰で動けることもあるでしょう。



しかし、夢がない事や目標がない在り方や生き方は、必ずしも悪い事ではないと、頂いております。

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夢がない事や目標がないと「夢がないねえ」と言われる

夢がない事や、目標がないという状態であったり、「あなたの夢は?」と聞かれて「ありません。」と答えると、批判する人もいらっしゃいます。

そういった場合、こんな言葉を投げかけられたという経験を持つ人も、いらっしゃるやも知れません。

「夢がないねえ。」



また、目標がない場合も似たような言葉を投げかけられたり、目標設定をしたとしても、こんな事を言われるのではないでしょうか。

「目標低いねえ。」



「夢がないねえ。」と言うこの言葉は、私はマイナスなイメージや概念であると感じ、相手を低く見る、見下す言葉であるように感じます。



現在はこのように、「夢や目標を持つこと」が良いこととされて、推奨されている風潮が御座います。

自己啓発系の本にも、そのような事が書かれておりますし、学校や会社でも目標設定をさせる事があることからも、その辺りの空気を感じるところであります。

また、場合によっては新入社員研修や入社式・クラブ活動の自己紹介の時に、夢や目標を叫ぶという課題もかせられることもあるやもしれません。



まあ、仏教の断食も一般参加出来るようなプログラムもあり、瀧行で似たような事をするケースもありますから、一概に否定は出来かねます。



ただ、自分の意思で断食に参加して、その上で語ったり叫ぶのはともかく、いきなり強制されるのは如何なものか、私はそのように思うのであります。

しかも、その時に夢がない状態であったり、目標がない時に、無理矢理語らされて、正直に語ったら「夢がないねえ」なんて批判されたら、たまったもんじゃありません。



夢がないとか目標がないことが、なんだか悪と捉えられるこの風潮は、なんとなく窮屈に感じる私で御座います。
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夢や目標を無理に設定しなくても生きていけるし、無理に設定すれば悪影響も

夢を持つ事や目標設定することが、推奨されていると感じる現代社会ですが、夢がない人や目標がない人は、果たして生きていけないのでしょうか。



そもそもとして、「夢」も「目標」も、未だ来ていない事柄「未来」であったり、「無想(むそう)」でしかありません。



確かに、具体的な夢なり目標を持って、それをきっちりと設定して現実味のあるところにまで落とし込み、それに邁進すると言う事は、それはそれで尊い事であります。

夢や目標を持つことにご縁があったという場合は、それは否定せずに持たれると善いでしょう。



ただ、そのようなご縁がない時に、「夢がない事や目標がない生き方は悪だ」と決めつけて、無理矢理目標設定する事は、落とし穴に嵌まる危険性が御座います。

この辺りの事は、以前も話した通りであります。



例えば、夢や目標がなくても特に困っていないのに、別にやりたくもない事や、真に願っていないことを無理矢理設定したと致しましょう。

これが、会社命令や学校から無理矢理決めさせられた事でしたら、強制力も働いてしまって、実に厄介です。



最近でしたら、似非コンサルタントなどの詐欺師や有財餓鬼・我利我利亡者共が、お客様を傲慢にも「コンサル生」なんて言い方をして見下し、無理矢理目標設定をさせてきます。

やれ「一日の投稿記事数、一ヶ月の投稿記事数、アクセス数、目標金額」などなど。

アクセス数や目標金額の目標設定は、自分でコントロールしきる事が出来ない事柄で、ご縁によるものが大きいのに、目標設定させるという始末です。



そして、責任感が強かったり真面目な人は、「自分で立てた目標や夢だから」と自分に言い聞かせて、「自縄自縛」に陥ってしまいます。

そうなると、夢や目標を達成すると慢の煩悩に支配され、達成出来なかったら「自分は駄目な奴だ。」と、自己嫌悪に陥り、精神を病む危険さえ御座います。



夢がない事や目標がない事に強迫観念を持ち、そこから無理矢理、夢や目標を持つ事には、こういった悪影響もあるということは、認識しておくべきでありましょう。
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夢がない事や目標がない事を責める輩の煩悩

夢がない人、目標がない人というのは、「夢や希望を持て。」「目標設定をして目標達成のために努力しろ。」と、言われる事があります。

そういう責め方をする人は、さぞかしご立派な夢や目標をお持ちなのでありましょう。

「夢」や「目標」とは何か、一切の反論・反証なく解説して下さる事でもありましょう。



夢や目標がある事は、それはそれで結構なのですが、だからといって夢がない人や目標がない人を責める筋合いは御座いません。



では、どうしてこのような事が起こるのか。



色々な要因があるでしょうが、私は一つには、「持っている者の傲慢さ、所有者の優越感」という煩悩が影響しているのだろうと考えております。

優越感とは傲慢なる煩悩だと私は考えており、仏道を歩む上では、この優越感に支配されぬように己を戒める事も大切であると頂いております。



これは、以前お伝え致しました、衒学とも関連がある話です。

参照:「上から目線の心理|衒学編」

自分が知っている事を知らない人を馬鹿にするという、傲慢な姿であります。



これと似たような状態で、今回の事例で言えば「夢や目標を持っている自分は偉い、夢がない奴や目標がない奴は馬鹿だ。」という、傲慢な在り方です。



このような輩を見かけて、例え馬鹿にされてしまったとしても、反面教師として活用し、己を戒めたいものであります。
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夢や目標がある人が、気をつけるべき事1:人を馬鹿にしたり煽ったり強制したりしない

もしも自分が、ご縁があって夢や目標を頂ける身となったと致しましょう。

その時に、上でお話し致しましたことを踏まえて、気をつけるべき事をお伝え致します。



夢や目標がある人が、夢がない人や目標がない人に対して気をつけるべき事は、
:自分と比較して他人を馬鹿にしたり、夢や目標を煽って強制しない
ということです。



夢や希望があり、目標設定もして、充実していると錯覚していると、調子に乗ってきます。

充実しているのは結構ですが、自分が充実しているからと言って、他人にもそのご機嫌を振りまきすぎるのは、害悪になってしまう事も御座います。



そうならないために、奥ゆかしさを持っておく事が大切で御座います。



自分が夢を持って目標設定もしっかりして、充実した毎日を邁進していると致しましょう。

そうすると、充実していない人や、夢がない人であったり目標がない人に対して、注意したり馬鹿にしたりしたくなる煩悩が芽生えることが御座います。

上でお伝え致しました「持っている者の優越感」という、慢の煩悩です。



その時に、「夢がないねえ、俺なんてこんな壮大な夢と目標を掲げて生きているのに。」と、人を馬鹿にする事は、人徳を捨てる行為であります。



また、自分が夢や目標を持っているからといって、煽ったり強制したりするのも、傲慢な在り方です。

よく引き合いに出されるのが、イチロー選手や本田圭佑選手の話でありましょう。

スポーツ界で活躍しているこのような選手の話を出されても「それはイチロー選手や本田圭佑選手の事例であって、あなたの事じゃありません。」と、突っ込みたくなります。

恐らく、自己同一の欲求によって、有名スポーツ選手の事例を出して、夢や目標を持つことの素晴らしさを説いているのでしょうが、私には滑稽に見えます。

「イチロー選手や本田圭佑選手は、夢や目標を具体化して実現した→自分は夢も目標設定もある→自分は彼らと同じなんだ。」と、かなり乱暴に端折ってはいますが、自己同一の欲求の一例はこんな感じです。



自己同一の欲求、平たく言えば煩悩によって、夢のない人や目標のない人に対して、その人の人生を所有しようとするような傲慢な態度は、慎むように気をつけたいものであります。
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夢や目標がある人が、気をつけるべき事2:途中で修正したり捨ててもよい

夢や目標がある人が、気をつけたいと思う事柄の二つ目は、
:夢も目標も、途中で修正したり、場合によっては捨ててもよい
ということです。



よく「夢や目標があると、ぶれない生き方が出来る」とか、そのような事を言われることが御座います。

それはそれで結構な事でありますし、夢や目標に邁進する姿、そしてそれを達成した時の姿というのは輝かしく、ゆえにスポーツの世界では美しさや尊さも御座います。

そういったスポーツなどの世界ではなくても、日常生活・日暮らしの中で夢や目標を持ち、それを意識して邁進することも、それはそれで尊いと思います。



ただ、生真面目な人や責任感が強い人は、夢や目標をぶらしてはならない、という強迫観念が働いて、それに縛れる恐れが御座います。

上でもお伝え致しました「自縄自縛」という状態です。



もっと言えば「己が勝手に創り出した概念・妄念に己を縛り付けている」という状態です。

私も、自己啓発に毒されていた時代には、この罠にはまってしまい、最終的に肉体と精神を病むに到りました。



仏教の言葉を用いると、これは「邪見語」による夢や目標設定によって、「自大語」を肥大させて己を縛り付けた状態です。

そうならないために、ご縁あって夢や目標を持つことは否定致しませんが、その夢や目標も、途中で修正したり、時には捨てる事があるという事も念頭に置いておくべきで御座いましょう。



仏法にあるように、森羅万象は「諸行無常(しょぎょうむじょう)」であります。



人が仮に定めた夢や目標という概念も、そもそもが定まったものではありませんし、移り変わっても不思議ではありません。

一貫性という概念で己を縛り付けず、夢や目標が修正されたり変更されたり、時には捨てる事があるのも人である、それくらいの心持ちが丁度良い塩梅である、このように私自身の失敗から学ばせて頂いております。



夢や目標があるのもよし、夢がないのも目標がないのもよし。

夢も目標も、人が勝手に創り出した概念であります。



特に現代社会は、概念に縛られやすい時代でありますがゆえに、もっとおおらかで、「ゆらぐゆるさ」を持つ事が、夢がない事や目標がない人も、生きやすいのではないか、そのように感じる今日この頃です。



尚、今回の話は、こちらと合わせて学んで頂く事によって、より捗るかと存じます。

参照:「目標設定の危険な罠」

参照2:「目標設定の意味と、する理由」

参照3:「目標達成しても傲慢にならないために」



あなたが、夢や目標という概念に縛られず、また夢がない事や目標がない事に、劣等感を感じること無く、己を卑下せずに生きられるようになりましたら、嬉しゅう御座います。



合掌

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