有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
前回は目標設定について、陥りやすい罠や危険性について、幾つかお伝えしております。
目標設定それ自体は、良いも悪いもないと頂いておりますが、気をつけないと目標設定という概念の毒に染まってしまう恐れも御座います。
やれ「目標設定が大事だ。」と、他人に強制して強引に目標設定をさせる例もあり、困った輩もおります。
そもそも、何故にこの目標設定なる概念が巷を闊歩し、多くの人が推奨したりやりたがるのか、その理由を学びつつ、仏教の智慧をお借りして、毒に染まらない在り方を更に学びたいと思います。
目標設定の意味を仏教的に観る
数値目標など、具体的な目標設定が推奨される昨今において、そもそも「目標設定はなんぞや?」という事を、しかり考えた事がある人は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。これは、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の鹿児島教区のお坊さんに聞いた話ですが、学生時代に「ナンマンダブ」を「なんなんだ-?」と、空耳になった事があるそうです。
冗談かと思いましたが、是はなかなかに仏教的な示唆に富んだ話であり、「南無阿弥陀仏とは、何なんだ?」という問いとして、頂ける体験でもあったそうです。
今回は、「そもそも目標設定とはなんなんだ?」と、仏教的なアプローチをして行く事に致しましょう。
目標設定の意味は、平たく言えば「目標とする事柄、欲している未来を設定すること」です。
意味は、まあ、そのまんまです。
では、「欲している未来」とは、現代社会においてはどのような傾向があるでしょうか。
特にビジネスや仕事の上においては、この目標設定は数値化されていて、「今月の売り上げ目標」「アクセス数」「顧客獲得数」などがあります。
生産管理論や経営科学を大学で学んでおりまして、それらの世界からでしたら、「不良品率を下げる」なども含まれることで御座いましょう。

目標設定をする事の意味
目標設定の意味、概念としての意味は上の通りでありますが、では、「目標設定をする意味」という、言い換えるなら「目標設定することの意義」はなんでしょうか。目標設定というのは、言うなれば「ある活動をした場合の、未来で達成しうる予測から、達成したいという願を加味したもの」と言い換えることも出来そうです。
そうした場合、ただ漠然とダラダラ動くのではなく、数値等の目標が設定されておれば、動く指標になります。
指標がある事によって、いわゆる「無駄」がなくなるわけですし、効率化を図る事にも繋がります。
また、精神面でも「達成するための意欲」などが芽生えることもあるでしょうから、目標設定する事によって、「今、何をすべきか」が見え、活動力に繋がるのです。
是が「目標設定をする事の意味」でありましょう。
それを踏まえた上で、人が目標設定をやりたがる、目標を設定したがる理由について、大まかに二つの事柄を考えて観る事と致します。
目標設定をする理由1:安心感を得られる
人が目標設定をする理由の一つ目は、:目標という道標があった方が安心する
からです。
「安心」とは「あんじん」と読み、これは仏教用語でも御座います。
仏教用語として学ぶ時の「安心(あんじん)」は、「心が安らかである、安らかな心で生きる境地」という意味です。
これは、現在まであまりさすらってはいないと思われる仏教用語であろうと味わっております。
目標設定をすると、自分が行きたい場所や行くべきところ、到達点が暫定的ではあっても見える事となります。
そうなると、その過程・道程も見えてきますから、道に灯明が指したように感じます。
見知らぬ土地に放り出されて、地図も持たずに「さあ、歩け」と言われても、戸惑うことで御座いましょう。
そうではなく「目的地はここだから、この地図を持って到着してね。」と言われた方が、安心するという事は、把握して頂けるかと存じます。
このような事から、人が目標設定をする事の意味や理由は「安心を得たいから」という側面があるのは確かな事だろうと、私は頂いております。
ちなみに、「安心(あんじん)」について、禅を学んでいる人ならば、仏教的な頂き方をしているのではないかとお見受け致します。
有名な禅語に「達磨安心(だるまあんじん)」があります。
また、私は毎日の浄土宗の勤行にて、「安心(あんじん)」という言葉を音読・称えさせて頂いております。
浄土宗の勤行で「一枚起請文」を読ませて頂くのですが、
「浄土宗の安心起行この一紙に至極せり」
と、法然上人が記して下さっています。
ここでは「安心→心の持ち方、心得」「起行→実践方法、行のはこび方」という意味です。
毎日、心の持ち方や心得方、実践の方法を賜る事が出来るご縁に、現代的な意味での「安心」も頂ける、そのように私は味わっております。

目標設定をする理由2:世間の風潮に流されたり同調圧力による強迫観念
人が目標設定をする理由の二つ目は、:世間の風潮や同調圧力、世間の物差しによるもの
です。
もしかしたら、目標設定を会社側で強制的にやらされてる、という人もいらっしゃるやもしれません。
また、自発的にしているようでいて、実は自己啓発やビジネスビジネス宣っている輩の毒にあてられて、好きでも無いのに、やりたくもないのにやっている事に気がついていない人もいるかと存じます。
「目標設定をすることは素晴らしい、しない奴は馬鹿だ、目標設定しないから稼げないのだ。」と、詐欺師や我利我利亡者の常套句がありますが、それに当てられているという事はないか、一度自問すべきでありましょう。
目標設定をすることは、学校でも学年毎に「今年の努力目標設定」を、学級活動なりホームルームで行われる事が御座います。
そうして育ってきて、社会でも目標設定を絶えず更新する風潮があり、その風潮に当てられているという事は御座いませんか?
「みんながやっているから、世間で良いことと言われているから」仕方なく目標設定を無理にしているという事はないか、今一度見直すべき時ではないかと、私は考えております。

目標設定する事の意味を仏教的に考え直す事の大切さ
目標設定という概念は、確かに上手に活用する事によって、意味・意義のあるものともなりましょう。何度かお伝えしております通り、目標設定という意味や概念そのものに、善し悪しは御座いません。
ただ、この概念に振り回されたり、意味もわからず「目標設定をすることは良いことだから」と盲信して、無理矢理何らかの目標を立てて、それに突っ走ることの危険性を認識する事の大切さを、申し上げております。
目標設定をすると、確かにしばらくの間は、どのように生きていけば良いのか、仕事の事でしたら、どのように仕事を進めていけば良いのかが見えて、安心は得られるでしょう。
それはそれで、精神的な支えになりますから、大いに意味が御座います。
しかし、私は目標設定をするのであるならば、仏教が大切に説く「現在地を照らす光明」とすべきではないか、そのように思うのです。
例えば、あなたが大きな駅で迷ったとき、自分が乗りたい電車が来るプラットホームへ行くとき、駅構内にある地図を見られる事でありましょう。
その時、行きたい場所と共に、必ず現在地も確認するのではありませんか。
先に行き先を決める、目標設定をするのも良いでしょう。
ただ、そうであるならば、必ず自分の現在地を知る事を意識する事が大切であります。
現在地を全く知らずに、目標設定だけして右往左往して潰れていく典型的な例が、なんちゃらビジネスや自己啓発系の世界で見られる現象です。
私も経験がありますが、詐欺師や似非コンサルタントは、これが全く出来ておりません。
お客様に目標設定だけ強制的にやらせて、「俺様が教えてやっているんだ」という傲慢な態度で、お客様の現在地を見ようともしません。
もっとも、あの手の詐欺師やコンサルタントを自称する似非コンサルタント、ネットビジネス系の「教えます詐欺」等の我利我利亡者・有財餓鬼の類いは、お客様の現在地を見出す力が皆無です。
そもそもとして、目標設定をすることは否定致しませんが、その目標設定をしている自己を認識出来ているか、その事が大切ではないかと、私は考えております。
目標設定している自己というのは、「正見(正しく物事を見定める)出来ているか」という事であります。
正見とは八正道の最初の項目であり、八正道はマインドフルネスの項目でも少し触れた概念です。
参照:「マインドフルネス瞑想とは何か意味を考える」
仏教、特に浄土教においては、肉眼(にくげん)ではどうしても自己のフィルターを通す事を説いて下さいます。
ゆえに、「物事を正しく見る事」がままならない凡夫である人という生き物は、正見さえままならないと気づかせて下さいます。
特に真宗・浄土真宗では「邪見驕慢」という言葉で表しますし、「邪見語」は浄土仏教において見逃すことがない教えであります。
そのような、正見さえままならぬ我々凡夫の身において、目標設定も正見によって定められた目標であるか、心許ないものであります。
目標設定は、正見出来ぬこの身が、仮に定めている事柄に過ぎない、そのような謙虚さを持っておくことが大切ではないか、私はそのように頂いております。
それが、目標設定の毒となる部分に毒されぬ、仏教的な智慧である、私はそのように味わっております。
尚、目標設定の危険性については、こちらでお伝えしております。
参照:「目標設定の危険な罠」
参照2:「目標達成しても傲慢にならないために」
同時に学んで頂く事により、毒されずに目標設定との距離を保てるかと存じます。
合掌