目標達成しても傲慢にならないために

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

目標設定をすると、同時に立ち顕れてくる事として「目標達成」という概念が御座います。
364368 目標設定をして、その目標を達成することは、娑婆世界では良いこととされており、目標達成した人は賞賛される対象となります。

スポーツの世界では、その辺りが顕著に見えるからこそ、人々も共感しやすかったり、熱しやすいのやもしれません。



目標設定して、目標達成するというこの流れは、確かにわかりやすい事柄でありますし、それはそれで幸福感にも繋がる事で御座いましょう。

しかし、目標達成には「目標設定の危険な罠」という表題でも少し触れましたが、煩悩に燃料投下して、傲慢になってしまう危険な罠も御座います。

目標達成すること自体は素晴らしさもあるが

自分で「この事を達成したい!」という、何らかの目標設定をして、その目標に向かって邁進し、見事に目標達成したときの喜びは、まさに幸福を感じる時であります。

私も、その経験はなくはありませんし、喜びを感じるという経験は御座います。



この時に、最近の研究によると、ドーパミンだか幸せ物質がどうのこうのという話があります。

専門的な話は私には解説しかねますけれども、とにかくもく目標達成をした時に、人は喜びを感じるものです。

それ自体は嬉しい事でありますし、それが良い方向に向かい事も御座いますから、私も否定は致しません。

目標設定して、目標達成・願が成就するという事は、生きる力になったり、精進する事に繋がる事も確かであります。



しかし、目標達成は素晴らしさもある反面、気をつけないと、煩悩に燃料を投下して、それによって謙虚さや奥ゆかしさを失い、傲慢な我利我利亡者になってしまう恐れも御座います。

私は、そのような例を何度も見てきておりまして、反面教師としてそれらの事例を頂くようにしております。



目標設定の危険な罠と共に、目標達成した時の危険な罠や毒について、今回は仏教の智慧と共に学び、毒されぬようにする智慧を頂く事と致しましょう。
092090

目標達成して傲慢になる危険な罠1:全ては自分の実力と思い込む

目標達成をした後に、傲慢になってしまう危険性の一つ目は、
:目標達成した事は、自分の実力によるものと思い込む
ということです。



目標達成した後、凄く清々しく気持ち良かったり、幸福感を味わう事があるかと思われます。

スポーツの世界であったり仕事であったりすると、目標達成した事は、日々の努力による事であると考える事もしばしば御座いましょう。

もちろん、目標設定をして、それを達成するために日々努力して邁進したことは、目標達成した事の要因の一つではあります。

それはそれで、認めるべき要素でありましょう。



しかし、何かの目標を達成した時、果たしてご自身の努力や行い・業が全てでしょうか。



ありがちなのか、「目標達成したのは、目標設定をして、努力した自分の実力だ」と思い込むことです。

自分が努力したこと、行動したことによる目標達成、確かにそれも大切な達成したという要因の一つではあるでしょうが、あくまでも一要素・一要因に過ぎません。

最近は、このように原因を一つにしぼろうとする傾向が強い気が致しますが、このような考え方や論理を「単因論」といいます。

仏教が説く「縁起」とは、方向性が全くもって違う事であり、この「単因論」が自己都合に肥大していくことにより、傲慢になっていくのでありましょう。



この辺り、禅僧の玄侑宗久さんの本「流れにまかせて生きる」の93ページでも解説されており、私も学ばせて頂きました。


商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。お買い物される際には、必ず商品ページの情報を確認いただきますようお願いいたします。また商品ページが削除された場合は、「最新の情報が表示できませんでした」と表示されます。

流れにまかせて生きる [ 玄侑宗久 ]
価格:1026円(税込、送料無料) (2016/9/5時点)





目標達成するに到った原因は、色々なご縁、因縁果によるところがあり、特定出来るものではありません。



例えば、あなたが仕事で達成したい営業利益という目標設定をして、目標達成のために精力的に動いたとしましょう。

この目標が達成された場合、確かに精力的に動いたあなたの行為・業によるところはあります。

それはそれで認めるべき事柄であり、「私は何もしていない」というのは、縁起の理、仏教が大切に説くご縁の教えからすると、これまた傲慢な話であります。

己の関わりについてもきちんと認める、これも仏教的な視点であります。



しかし、人という生き物は自分が可愛いものであり、名利心がついて回る煩悩具足の身で御座います。

目標達成して有頂天になっていると、「自分が可愛い・名利心」という燃えさかる煩悩に燃料が投下されて、「目標達成したのは自分の実力だ」という思考に到りかねません。

そして、それが行き過ぎると、「目標設定して、目標達成のために行動した自分の実力である、自分は凄い。」と、慢の煩悩が肥大し、慢心となってしまいます。



過去の栄光を自慢したり、ブログなどで「月収100万円達成」などと吹聴している我利我利亡者なり有財餓鬼は、まさにその典型でありましょう。

「月収100万円」などの目標設定をして、目標達成した事がたとえ事実であったとしても、その目標達成がなされたのは、お客様をはじめとした様々なご縁のお陰様であります。

そもそも、人を騙して暴利を貪る詐欺行為で生きながらえている事を、目標達成したと自慢されても滑稽なだけです。

「お陰様」を見失う、あるいは最初から全く見えておらず、目標達成した事を自分の実力だと思い込むのは、まさに傲慢な在り方です。



目標達成したときに「お陰様」「目標達成に到った原因は山ほどあって特定出来ないご縁に感謝する事」が、仏教に学ぶ傲慢にならないための智慧で御座います。
スポンサーリンク

目標達成して傲慢になる危険な罠2:他の人も出来ると思い込み、押しつける

目標達成をした後に、傲慢になってしまう危険な罠の二つ目は、
:自分が上手く行ったからと言って、他人にも押しつける
という在り方です。



これは、一つ目の危険な罠でお伝え致しました事の傾向が強い輩に、特に見られる現象です。

ご縁やお陰様という言葉さえ知らないような、目標達成において、全ては自分の実力や行動力の賜物であると錯覚している輩に見られる事柄に御座います。



例えば、何かの目標を設定して、上手いこと目標達成出来たと致しましょう。

そのような時、目標達成した事の秘訣やコツを聞かれた場合、「目標設定をして、そのために努力したからだ。」と言う言葉が、しばしば聞かれます。

もちろん、私もそのように思うところは御座いますし、そのこと自体は精進に繋がる大切な要素であります。

目標達成のために、精進する事はとても大切でありますし、有り難い御言葉で御座います。

しかし、その後にこんな事を言う人がいます。



「自分にも出来たから、あなたにも出来る。」

これについて私は、傲慢な一言であり、余計な一言であり、誤解を生みかねない一文であると頂いております。



これも、ネットビジネス系、なんちゃらビジネスや自己啓発系の世界では、よく見聞きする言葉であります。

「こんなどん底人生の私でも稼げた。」「借金があったのに稼げた。」「こんな駄目な私でも成功した。」とかの類いです。

そして、これらの文章の後に「こんな私でも出来たのだから、あなたにも出来る。」という、相手に希望を錯覚させる言葉がくっつきます。

私はこの言葉を聞くたびに、育った環境なり生きてきた道筋も違うし、そもそもとして個体が違うにもかかわらず、何をもってして「自分に出来た事は他の人にも出来る」なんて言うのか、そのように思うのです。



この事については、こんな例をあげるとわかりやすいのではないかと存じます。

例えば、自分の苦手科目を克服しようと勉強していると、その科目が得意な人がやってきて、教えてやるよ、と言って教えてくれるとします。

そして、教えられても、自分にとっては苦手科目で難しいものでありますから、なかなか上手いこと課題を克服出来ません。



そんな時に、「こんなの簡単だよ、何が難しいんだよ。俺でも出来るんだからお前も出来るよ。」なんて言われた時、あなたはどう思われるでしょう。

人によっては、もの凄く傲慢だと感じて、腹立たしさも感じられるのではないかとお見受け致します。



目標設定をして目標達成まで到達した場合、その方法が自分にとって上手く言ったとしても、他人が同じように達成出来るとは限りません。



そもそもとして、目標達成に到った原因は、一つ目の項目でお伝えした通り、肉眼(にくげん)では認知出来ない事柄も含めれば、特定出来ないほどの原因が山ほどあって特定出来ないものです。

それを「目標設定して努力した自分の実力」と、慢の煩悩に毒され、相手も同じように出来ると傲慢な在り方で接してしまう危険性があるのです。



「自分と人は違う、自分が目標達成出来たのは、数多のご縁によるお陰様」という在り方を念頭に置いておくことが、仏教的で傲慢にならぬ智慧である、私はそのように頂いております。
135182

目標達成しても傲慢にならぬために、有頂天もほどほどに

目標設定をして、色々なご縁の働きやお導きにより、目標達成されることが御座います。

その時、人は高揚感や自己肯定感、幸福感などによって興奮し、有頂天になるものです。

その時に、慢や名利心など様々な煩悩が前面に出て、それらに毒されてしまうと、傲慢な在り方が育ってしまいます。



物事が自分都合になって上手くいき、目標達成されるご縁と結ばれると、有頂天になることは致し方ありません。

一時くらい、刹那くらいは「よっしゃ!」と思うのも良いでしょうし、それが人情というもので御座いましょう。

しかし、あまりに長く有頂天になり続けていたり、目標達成したことを後々まで自慢し続ける事は、慢の煩悩にしてやられてしまい、「あいつうざいよね。」と言われるに到りかねません。

そして、「目標達成した自分は成功者だ、俺の言う事を効かない奴は馬鹿だ」という、憐れな地獄の亡者にならぬようにする事が望ましいであろうと、私は思う次第であります。



目標達成して、ついつい有頂天になってしまいそうになった場合、己を見失わずに、傲慢にならぬ智慧を、何かしらの形で手にしておきたいものです。

私の場合は、その光明が仏法でありまして、今回、その仏法なり仏教的な話をさせて頂きました。

何らかの達成感を味わわれたときに、慢の煩悩に毒されぬ智慧のヒントとなりましたら、嬉しゅう御座います。



尚、目標設定や目標達成の毒については、こちらも学んで頂く事で、より深めて頂けるかと存じます。

参照:「目標設定の危険な罠」

参照2:「目標設定の意味と、する理由」



目標の持ち方や目標設定の仕方、あるいは目標達成したその後の在り方について、より善い方向に向かうヒントとして頂けましたら、幸いで御座います。



合掌

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加