有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
地域によっては7月に、京都では8月の中頃はお盆の季節という事もあり、仏教者である私は「盂蘭盆会」と共に「施餓鬼会」という言葉も連想致します。
施餓鬼会やお盆の風習についての意味や歴史については、以前もお伝えした事がありますね。
京都では8月の後半に、地蔵盆も各地で行われまして、子供達が各地のお地蔵さんの前で、おやつ券と渡しておやつをもらってくる風習が、今も続いております。
もしかしたら、地蔵盆で子供におやつを配るエトス(行為様式・風習)は、施餓鬼会や餓鬼道に堕ちないためのエトスと、関係があるのかもしれない、と思う今日この頃であります。
餓鬼の意味を仏教語・仏教用語として学ぶ
現代社会においては、子供の事を「ガキ」と呼ぶ事があります。子供のことを「ガキ」と呼ぶのは、なんとなく私は美しくないなあ、品がないなあ、と思うのですがね。
現在では、「ガキ」と聞くと、仏教語・仏教用語としての「餓鬼」を連想する人は、どれだけいらっしゃるでしょうか。
「餓鬼(がき)」とは、元々はサンスクリット語の「preta(プレータ)」を訳していった言葉であり、現世を離れてもなお飢えに苦しむ亡者を言い表した言葉であります。
日本では、「餓鬼」と言うと、あの腹部だけが膨満しており、その他の部位はやせ細っている姿で描かれており、それを連想する人もいらっしゃるでしょう。
餓鬼という存在の話は、以下の話が有名ですね。
餓鬼というのは、食べ物を際限なく欲するのですが、食べ物を食べようと口に入れようとしても、そこで食べ物が炎になって燃え消えてしまいます。
餓えていて、食べ物が目の前にあるのに、飢えを凌ぐ事が出来ないという、なんとも苦しい状況であることでしょう。
このような意味がある仏教語・仏教用語としての「餓鬼」ですが、何故子供の事を「餓鬼→ガキ」と呼ぶようになったのか、これは実はようわかりません。
お坊さんならよくご存じかと思い、博識な作家で僧侶である玄侑宗久さんと、私の母校の講師で住職もされている先生が書かれた仏教語・仏教用語辞典も調べましたが、確実な事が記されておりませんでした。
お二方とも「子供は、食べ物に飢えていたからか、いつも腹を空かせてガツガツと食べ物を食べるからか」という説をとなえられていますが、言い切る言い方では記されておりません。
「餓鬼」が「ガキ」に、どのようにさすらったのかはわかりませんが、案外お二人の僧侶が仰る通り、育ち盛りな子供はガツガツと食べ物を貪るように食べる姿から、そう呼び始めたのかもしれませんね。
餓鬼の歩道「餓鬼道」の意味
「餓鬼」と来れば、私は同時に「餓鬼道(がきどう)」という、六道輪廻を連想致します。「やつは修羅道に落ちたか。」という表現が、るろうに剣心という漫画で見たことがありますが、その修羅道を含めた6つの道が「六道」です。
六道には「天・人間・修羅(阿修羅)・畜生・餓鬼・地獄」とありまして、仏教で説かれるのは、人はこの六つの道を輪廻している、という教えです。
つまり、我々一人一人、私もあなたも含めて、この六道を輪廻していると言う事を説く教えなのです。
その中の一つが、「餓鬼道(がきどう)」というわけです。
ちなみに餓鬼道は、六道における「三悪趣(さんあくしゅ)」や「三悪道(さんあくどう)」と言います。
また、浄土宗においては「三悪趣(さんなくしゅ)」という発音をします。
真宗・浄土真宗では、「さんまくしゅ」と読み、「悪(あく)」を「まく」と読みます。
正信念仏偈で、源空さん、つまり法然上人が登場する部分で、
:本師源空明仏教、憐愍善悪凡夫人
とあり、毎日勤行をされている真宗門徒なら、ピンとこられたかもしれませんね。
「憐愍善悪凡夫人」は「れんみんぜんまくぼんぶにん」と読みます。
浄土仏教の話を致しましたから、更にもう一つ学びましょうか。
日本のその後の浄土仏教、法然上人や親鸞聖人にも影響した、「往生要集」で有名な源信和尚が、「横川法語(念仏法語とも)」で、「餓鬼」や「餓鬼道」について記されています。
「往生要集」のダイジェスト版と言いますか、1枚にまとめ上げたものが「横川法語」とも言われていますね。
その中で、
:家はまづしくとも、餓鬼にまさるべし
とあり、ここで「餓鬼」という言葉が出て来ます。
また、その前の文章には、
:一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり
とあります。
「三悪道」が出て来ましたね、この中には「餓鬼道」が含まれている事は、上でお伝えした通りです。
これは、法然上人の「一紙小消息」に記されております
:受けがたき人身を受けて
に通じるものを感じます。
真宗・浄土真宗の三帰依文の
:人身受け難し、今すでに受く
も思い出される一文です。

現代の餓鬼には幾つか種類がある
「餓鬼」は、妖怪のことではなくて、あくまで人間の姿であると、私は考えております。そして、私は現代社会には、餓鬼には二種類存在すると考えています。
「正法念処経」には、餓鬼は36種類いるという話ではありますが、ここでは特に現代社会で顕著に見られる餓鬼について、2種類に絞ってお伝え致します。
その2種類の餓鬼とは、
:無財餓鬼
:有財餓鬼(多財餓鬼)
です。
ちなみに、宗教学者のひろさちやさんは、無財と有財の中間に「少財餓鬼」がいるとおっしゃいます。
無財餓鬼は、なんとなくわかるかと思います。
財が無い、つまりお金や物が無いから欲しいなあ、と思う傾向が強かったり、お金や物を持っていない状態で、それらに執着しているやからの事です。
問題は有財餓鬼です。
すでに物や金があるけれど、いや、物や金があればあるほど、より一層その欲が深くなり、欲望に執着して渇望して苦しむ状態にあるのが「有財餓鬼」です。
私は、そのような姿を何とも憐れなものかと、冷ややかな目で観る事もあります。
しかも厄介な事に、その状態に陥っていることに気がつかない事の、何とも滑稽で憐れなことか。

餓鬼道から地獄道まっしぐらの有財餓鬼
このような、滑稽で憐れな多財餓鬼は、特にインターネットビジネスとかいう業界では、急激に増えているようです。有財餓鬼は、得てして感謝を捨てて増上慢に毒されているから、観れば一発で見分けられるほどわかりやすいのも特徴ですね。
自己啓発系ビジネスや高額塾、あるいは「なんちゃらビジネス教えます」という系統のコンサルタントを自称している連中に多く、大概が有財餓鬼です。
具体的な例を申し上げますと、よくある「月収100万円達成」とか、聞いてもおらんのにやたら自慢している有財餓鬼が、まさにそれです。
よくみかけませんか、「月収○○万円達成」「コンサル生を稼がせました」とか、妙な自慢している輩共。
また、プロフィールをやたら着飾られていたり、「私はこれだけ稼いでいますよ」とアピールしている輩です。
あげくには、お客様のお陰で生活が成り立っているにもかかわらず、そのご縁に感謝する事なく、やれ旅行自慢したり、自由を満喫している自慢をしたりと、なんとも哀れな姿です。
感謝の念を持ち、謙虚であるならば、間違ってもお客様から頂いたお金で、好き放題遊んでいる事を自慢したりしませんよ。
これら有財餓鬼(多財餓鬼)の連中は、感謝すべきご縁が全くみえなくなった目になってしまい、地獄道まっしぐらの餓鬼道を突っ走っていることに気がついておりません。
私、実際に潜入捜査員気取って潜り込んだことが何度かありますが、本当に絵に描いたような有財餓鬼共でした。
本当は「餓鬼」とは、苦しむ亡者の事であり、苦しいはずなのに、まるで快感に酔いしれている姿は、笑い話にすらならない滑稽なお姿ですこと。
「餓鬼」の仏教的な意味は「餓え・飢えに苦しむ亡者」であることから、私はきゃつらを生きた人とは見なしておりません。
これは私の究極の方便ですし、慢による傲慢な色眼鏡であるという自覚は御座います。
このような見方をしている己に、反省し精進するところであります。
しかしながら、究極の方便という自覚を持ちながら、それにしても、あまりにも酷い有財餓鬼が多すぎます。
私たちがすべき事は、このような餓鬼道に堕ちて地獄道に向かうような餓鬼にならないことです。
有財餓鬼や我利我利亡者共の在り方を目の当たりにした場合、我々はそれらを反面教師として活用しましょう。
そう思えば、有財餓鬼が娑婆世界にこうして存在してくれている事は、我々の克己心のためにも必要な存在なのやもしれません。
餓鬼も使いようですね。
尚、「施餓鬼会」や、関連のあるお盆・盂蘭盆会については、こちらにもまとめて御座います。
参照:「お盆情報まとめ」
今回の話と共に学んで頂き、教養を深めて頂けましたら、嬉しゅう御座います。
合掌